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第44話

「先生」  いつものように検診を終え、道具を仕舞いながら「良好ですね」と声をかけてきた医師に僕は呼びかけた。青空の広がる良い天気を窓越しに見つめていると、医師は片付けを終えてベッドサイドの椅子に腰を下ろした。 「これは、僕からの真剣な提案なのですが」  医師の眼鏡の奥の瞳をまっすぐと見つめながら、ずっと考えていたことを伝える。 「発情剤を、もらえないでしょうか」  医師は驚いた顔つきをしたが真摯な僕の瞳を見つめると、どれだけ考え抜いたことなのかを感じとったようで、目をつむった。 「今、僕の中のオメガが順調に回復しているのであれば、発情期の状態をつくれるはずですよね。その状態になれば、僕は…佳純を受け入れるのではないでしょうか」  僕の提案を、医師は静かに聞き取り、じっくりと思案したようだった。大きく深呼吸をしてから、医師は答えた。 「それは…無謀すぎます…。医師として、反対せざるを得ない」  真面目で実直な医師らしい答えに、予想通りすぎて僕は口元を緩めた。  今月が終わるまで、あと一週間を切ってしまった。  毎日、接触することは出来る。フェロモンも、強くなければ身体は受け入れるようになった。しかし、それ以上に進もうとすると、どうしても身体が拒むのだ。僕の意思を他所に。佳純は、じっと微笑みながら僕の回復を待ってくれていた。その優しさに、何度も胸がつぶれそうになっているのだ。 「でも、僕が彼と一緒にいるには、それが最後の手段なんですよ…」  僕たちは、二か月後に高校三年生になる。僕は一般家庭のオメガであるが、彼はそうではない。日本を代表する製薬会社の優秀な跡取りのアルファなのだ。十八になる歳に、婚約やそれ以上のことが控えていないわけがない。僕が彼と一緒に未来を歩むためには、この四月までが決め手なのではないかとずっと思慮していた。  それまでに僕の身体が正常なオメガとして回復しなければ、それはきっと運命なのだと思っている。彼を解放しろという神からのメッセージなのだと思う。 「発情期を起こし、たとえ結ばれたとしても、そのあとの七海さんの身体はわかりません。もうオメガとしての機能を失う可能性もあります」 「先生…それでもいいんです…」  仰向けに向きを直し、弱々しい声で続ける。小さなかすれ声がするすると口から滑り落ちていく。 「佳純と番えないなら、オメガである必要なんて、ないんです」  佳純は、僕といられないならアルファである必要はないと、自分で作ったアルファ性を消す薬を接種していた。でも、この世の中で力を持つアルファが、しかも佳純ほどの優れたアルファがいなくなってはならない。きっと彼に救われるオメガは多くいるだろう。僕のように。  佳純が僕以外のオメガと番ったり恋仲になったりすることを想像すると頭ががんがんと響き、息がつまり、喉奥がじくじくと痛む。それでも、佳純が幸せになれるのなら、それでも良いのかもしれない。  あんな優秀なアルファはいなくなってはならない。だったら、必要とされていないオメガは姿を消すべきだと僕は思う。  腹部をさする。そこはもう、しばらくの間、存在を示してこない。このままなくなってしまうのかもしれない。  だから、後悔がないように、最後の賭けをしたいのだ。 「先生、どうかお願いです」  医師に振り向くと、涙がこめかみを伝った。医師は苦虫を嚙み潰したように顔をゆがめ、しばらく俯いたあと、苦し気に「出せません」と答えた。 「…私は、東條グループに仕えている身です…佳純様の意思でないと、そのような危険な処方は致しかねます…」  最後の決断すら、自分で決められないのか。と思うと、涙がぱたぱたとシーツを濡らした。 「七海」  甘いバリトンが部屋に響き、は、と意識を戻した。 「あ、お、おかえり」  ネクタイを緩めて佳純がベッドに近づく。医師に思いを打ち明けたものの玉砕し、どうすればいいのかと途方に暮れていたら、もうすっかり夜になっていた。  ベッドに腰掛け、彼が心配そうに僕を覗き込む。しばらく、彼のこういう表情しか見ていない気がした。 「少し、頭が重いだけ…」  彼の手に自分の手を重ねると、佳純はすぐに長い指先で包み込み、優しく握りしめて口づけをする。ためらいのない仕草に、心臓が跳ねるが、直後にその倍、苦しくなる。 「佳純…」  涙がにじむ僕の顔を見てから、彼は何かに気づいたのか、立ち上がった。手はするりと離されて、ベッドに落ちる。 「まずは、飯にしよう」 「佳純」  最近の僕たちはこうなのだ。  お互い、次の言葉が怖くて、話を逸らしたり、顔色を猛烈に伺ったり、少しずつ少しずつ、ずれ始めていた。 「佳純」  ベッドから立ち上がらず、ずっと背中を見つめていると佳純は、ぴくりと肩を揺らして立ち止まった。 「佳純、お願いがあるの…」  胃がきりきりと軋むように痛む。それでも、僕は伝えないといけない。 「先生に、発情剤を処方するように言ってほしい」 「だめだ」  振り向きもせず、ぴしゃりと言い捨てられてしまう。先生の方から話は流れてしまっていたらしい。佳純の珍しい冷たい声色に、身体の奥が冷える。指先はかすかに震えており、ぎゅと手を握りしめて自分を鼓舞する。 「じゃあ、僕はどうしたらいいの?僕たちに、」  未来はないの?  言葉にすると、涙があふれた。佳純が振り返るとまなじりを赤く染め、顔をゆがめていた。長い脚で僕のもとにやってきて、膝をつく。 「七海は順調に回復してる、もう少し時間があれば」  大丈夫だと僕の握りしめた手を優しく撫でる彼は、眉根をきつく寄せて、無理に微笑んでいた。それが痛々しく見えて、僕の胸はさらに締め付けられた。 「佳純は、もう充分待ってくれたよ…」  撫でる手をつかんで、額を当てる。はらはらと頬を大きな雫が滑り落ちている。 「ありがとう」  つぶやいた言葉はあまりにも震えていて、情けない。 「七海、大丈夫だ、もう少しで」 「選んで」  佳純の言葉を遮って、まっすぐ揺らぐ瞳を見つめながら、ゆっくりと思いを伝える。 「発情剤を処方して番になるか、僕と…別れるか」  その瞬間に、佳純は目を見開いて、大きく身体をぐらりと揺らめかせて床に手をついた。ふるふると身体を小刻みに震わせながら、佳純は呆然とうなだれた。その様子に、ぎりぎりと身体を絞られるように痛ませながらも、なんとか頬をゆるませる。 「僕は佳純から充分すぎるほど、いろんなものをもらえて幸せだったよ」  力の抜けた佳純の指先を、ぎゅ、と握りしめる。かたかたと震えているのは、どちらなのだろうか。 「なんで…」  うなだれたままの佳純は、呻くようにつぶやいた。 「なんで、そんなに残酷な選択をさせるんだ…」  できるなら、ずっとそばにいたい。  時間が無限で、僕たちに気負いすることなんか何もなくて、隣にいて笑いあえたのなら、いつか僕たちは番になって、僕は佳純の子供を産んで幸せな家族をつくれたのだろう。  全部、僕のせいなんだ。こんな身体になったのも、大好きな人を無惨にもこんなに苦しませていることも。 「だったら…」  ぎゅ、と力強く手を握られると、佳純は大きく息を吸った。 「俺は、あの薬を打つ」  両手で僕の手を握りしめて、縋りつくように佳純は額にあてる。 「俺がアルファをやめたら、ずっと一緒にいられるだろ?」  顔を上げた佳純は、な、と僕に同意を求めた。ぐしゃ、と顔はゆがめられていたが、僕は静かに首を横に振った。 「俺は、ずっと待てる…いくらでも、待てる…」  それにも、僕は首を振った。微笑む僕に、佳純はどんどん顔をゆがめる。 「佳純、ちゃんと現実を見て」 「わかってる、だから俺は、」 「いい子だから」  身をかがめて、ぎゅう、と彼を抱きしめる。佳純からは甘い良い匂いがする。ずっと嗅いでいたい、と頬を摺り寄せる。 「お願い、これ以上、苦しめないで…」  そうつぶやくと、耳元で、ひゅ、と息を飲みこむ音が聞こえた。肩口が、ひんやりとしてくると佳純は力の抜けた手を背中に回してきた。 「なんで…」  震えた吐息が耳裏をくすぐり、鼻を押し付けられた。 「なんで、俺じゃ、七海を幸せにできないんだ…」  嗚咽を奥歯で噛み締めながら震える大きな身体をさらに力をこめて抱きしめる。 「ありがとう…佳純と出会えて、幸せだったよ…」  彼の首筋にキスを落とすと、佳純は首を伸ばし、僕のうなじに吸い付いた。涙を流したせいか、気持ちのせいか、身体が苦しくて、意識が遠のいていく。瞼を降ろしながら、僕は、子供の僕に謝った。  ごめんね。  君が端正こめて編んでくれたのに。  シロツメクサのかんむりに込めた思いは、僕じゃ、成就できなかったよ。  ごめんね…

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