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第46話(終)

 オメガとして、身体が正常になることは、待ち望んだことのはずだった。  彼が隣にいた、あの時は。  いざ、健康な状態に戻ってきて、僕は漠然とした大きな不安に打ちのめされようとしていた。あの苦しい発情期をどう過ごせばいいのだろうか。何よりも、佳純以外のアルファに組み敷かれてしまうことを考えると、身体は大きく震え、その場でうずくまりたくなってしまう。  そんな冷たい身体の僕を他所に、世界は春を迎えていた。外に出れば、温かな日差しがすべてを包み込み、野花は幸せそうにたゆたう。草も虫も、すべての生命が活気づき、輝いて見える。どこからか花の甘い匂いが漂っている。まるで、あの人の香りのようだと思うと涙がにじみ、急いで首を振る。  自室のカーテンを開けると、懐かしい風景が見える。昨晩、実家を出て、寮に帰ってきた。いつまで居てもかまわないと両親は言ってくれたが、学費を思うとうなずくことがためらわれ、戻ってきた。なんとか進級はさせてもらえた。だからこそ、頑張らなければならないと自分を奮起させた。大丈夫。今日から、もう高校三年生だ。一人で生きていくためにも、少しでも有名大学に入学し、良い企業に就職できるよう努力しようと深呼吸して、自分の頬を叩いた。今日から勉強漬けだ!と気合いを入れて、制服に袖を通した。クリーニングに出されていたらしき制服は、自室のクローゼットにビニールに包まれてかかっていた。誰が用意してくれたのだろうか、と考えると、どうしても脳裏にはあの人が浮かんでしまい、昨晩は制服を抱きしめて、一人で涙を流した。  もう泣くのは終わり。と昨晩決めたはずなのに、また涙がにじんできてしまう。  たくさん後悔もした。自分で勝手に期限なんかつけなければよかった。あのまま、佳純に甘えて、佳純のいう通りに体調が戻るのを待てばよかった。何度も後悔に苛まれ、涙を流したが、それでは佳純が本当に幸せになのかの自信が持てない。佳純を解放してあげることが一番の幸せなのではないかと自分で結論づけて選んだ道なのだ。  何度も、何度も自分に言い聞かせた。  もう、振り返らない。振り返ってはならない。それぞれの道を歩んでいかなければ、お互い幸せにはなれないんだ。  身体が、順調に回復していた。一晩だけ発情の兆しが見え、おそらく、次はちゃんと発情期が来るだろうと言われていた。発情期と言われると、二人のアルファに囲われたあの日々を思い出して、背筋が冷たくなる。それでも、腹部をさすりながら、大丈夫、もう僕は強くなった、大丈夫。と目を固くつむり何度も唱える。  大丈夫。  いつもより早く寮を出る。学校に行って勉強をしようと思ったのだ。遅れた分を取り返さなければならない。  目の端に、佳純に抱きしめられた寮の入口が見えて、瞼を降ろす。思いを通じ合わせた公園を背に、早足に校門へ向かう。さわさわと柔らかい風が吹くと、ひらりと目の前を淡い色の小さなものが横切る。足元に落ちたそれは、花びらだ。足を速めると、校門越しに立派な桜並木が見える。  わさわさとたわわに小さな花をつけ、風に合わせて踊るように揺れ、吹雪を散らす。幻想的な美しい光景に、思わず感嘆の溜め息が漏れる。この風景が決め手で、僕はこの学園を選んだのだ。  初めてここを歩いた時、隣には陽介がいた。そして、秀一と出会った。去年は、三人でここを歩き、懐かしいね、と微笑み合った。遠い過去の風景に、忘れていた心の傷が熱を持ち、ずきずきと痛みをもった。大好きな桜並木が、悲しい思い出になるなんて、思いもしなかった。頬を思い切り叩き、よし、と気持ちを入れて、校門をくぐる。  こうして、あの二人の事を心を痛めながらも冷静に思い返せるようになったのは、良い兆候だと思う。少しずつ、僕の中で整理できているのだ。だから、笑っていいんだ。  今年、本当はこの風景を、あの人と見たいと思っていたことも過去なのだ。もう、過去なのだ、と心の奥でそっとつぶやいた。  見上げると、ピンクの靄が空を埋め尽くす。風が吹くと、その隙間から、遠くに淡い青空が見える。はらはら舞う花びらが、僕の頬をかすめた。温かくて優しいそれに、うっとりと瞼を降ろす。すぅ、とゆっくり大きく呼吸をする。春の甘い匂いが立ち込めている。ざ、とまた大きく風が吹き、木々が揺らぐ音がすると、ふわりと鼻をかすめる甘い匂いがあった。 「七海」  忘れようと何度も心の中で念じた。それなのに、何度も心に頭に浮かんでこびりついて離れない愛しい人の声が聞こえた。  瞼を上げて、ピンクの世界から視線を動かすが、彼は見当たらない。自嘲気味に、バカだな、と一人笑う。頬がくすぐったくて、手の甲でこすると、涙で張り付いた花びらがくっついていたようだった。ぼう、とその手の甲の湿った花びらを見つめていると、ふわ、ともう一度、あの匂いがした。  いけない、とわかっているのに、身体は勝手に、匂いを追っていってしまう。  通慣れたあの道を通り、静かで少しひんやりとした校舎の階段をあがる。重い錆びた鉄の扉を開けると、ぶわ、と勢いよく春風が舞い込んだ。それと同時に、強く、恋焦がれた甘い匂いが僕を包む。  鉄の柵の先に芝の緑がまぶしく光る校庭が見えて、その脇にピンクの美しい柔らかそうな塊が見える。そして、その手前に、柵に寄りかかりながらそれらを見つめる、彼がいた。後ろ手に鈍い金属音がして、扉が閉まると、ゆっくりと彼は僕に向き直った。  いけない、何度も頭の中で反芻されていた言葉は、彼を目の前にして、溶けるように消えてしまった。  全身が、佳純との再会を喜び、心が震え、指先までじりじりと焦げ付くように熱いのだ。  捕らえられた瞳は動かすことが出来ない。風が彼の長い前髪を揺らし、花びらをこんな遠くの屋上まで届ける。  言葉を紡ぎたいのに、喉の奥でつぶれて、呼吸するのが精いっぱいだった。 「俺、決めたから」  佳純は、ゆっくりと声を出す。その一言一言に、心臓が痛いほど締め付けられている。一歩、また一歩と佳純が近づく。その度に、足はじりつくばかりで動くことが出来ない。 「俺、あんたの言うことなんか、聞かないから」  あと一歩で飛び込める距離に彼がいる。告げられた言葉に、ひゅ、と息を吸い込んで止まってしまう。名前すら、呼んでもらえないのか。じわ、とまなじりに湿り気が帯びる。僕を見下ろす切れ長の瞳の色は深く、何を考えているのか読めない。 「俺、あんたに、散々傷つけられたから」  佳純が何を言い出すのかわからなくて、言葉の冷たさに全身がどくどくと脈打つ。この瞳は、怒りで揺らいでいるのだろうかと思うと、目線をそらしたいのに、身体は目の前のアルファに支配されているように動かない。 「だからもう、あんたが俺のせいで傷ついたとしても、関係ないって思うことにした」 「ご、ごめ…」 「俺の思うままに、やりたいことをしてやるって決めた」  そうか、散々な目に合わせてしまって怒った彼が、僕に仕返しをしに来たのか。甘い匂いにおびき出されて、最後までバカなオメガだ、と笑おうとしているのか。謝罪の言葉もままならない情けない自分に、改めて呆れてしまい、涙が溢れそうになるが、彼にこれ以上、引け目を負わせてはならないとなんとか堪えようと努力する。  大好きな彼に、こんなにも憎まれてしまったのか。頭ががんがんと痛み、膝が笑い始める。ぬ、と長い腕が伸びてきて、思わず目をつむってしまう。肩がすくみ、身体をこわばらせる。  しかし、僕を襲ったのは痛みではなかった。柔らかく温かい大きな身体に包み込まれて、鼻からは甘く果実のような匂いが身体に流れ込んでくる。 「か、すみ…?」  突然のことで、頭が理解できずにいて、こわばった身体はそのまま硬直している。ぎゅ、と力強く抱きしめられると、涙が一粒、頬を滑り落ちた。  好きだ。  触れ合う身体から、分け与えられる体温から、漂う匂いから、すべてが、彼を愛しいと、欲している。  耳元で深く呼吸する音や湿度を感じると、身体が甘く痺れる。風が吹き、花びらが舞う。 「結婚しよう」  目の前を舞い降りる花びらがスローモーションのように揺れている。飲み込んだ息が、ずっと喉元で固まっている。さらに押し寄せられた胸元からは強い匂いと、速い心音が大きく聞こえる。 「ていうか、結婚するから」  決定事項として告げられても、頭が処理できずに固まっていると、佳純は僕の肩をつかみ少し距離をとり、恐る恐る顔を覗き込んできた。その瞳は柔らかく揺らいでいて、またひとつ涙がこぼれた。 「な、んで…僕たち、別れた、のに…」 「俺、別れたつもりないし」  佳純は肩眉を下げて、ふ、と微笑むと、大きな手のひらで僕の涙を拭った。その反動で、またひとつ涙があふれる。 「ぼ、く…オメガとして、不完全、かも、しれない…」 「だったら、俺がアルファやめるから」  火照った頬を冷たい手のひらが包み、こぼれる涙を長い指が払う。その腕をつかんで、だめだよ…と小さくつぶやくが、彼は呆れたように笑って、僕の唇に吸い付いた。 「言っただろ?俺、もう嘘つきの七海のいうこと聞かないから」  いきなりの出来事に目を見張ったままでいるが涙があふれて止まらない。 「それに、俺の匂い、追ってこれただろ?」  唇を親指が優しく撫でると、キスされたことを頭が理解しはじめる。  身体は、佳純のキスを喜んで受け入れている。 「ぼくじゃ…佳純を…し、あわせに、できない、よ…」 「俺の幸せを勝手に決めるな」 「んっ…」  頬を包まれたまま、唇を食らうように、湿ったそれで覆われる。思わず肩が揺れ、鼻から息が漏れる。じっとりと唇が触れ合い、長い睫毛がぶつかるほどの距離で見つめ合う。 「俺の幸せは、七海が隣にいることだ」  角度を変えて、もう一度、唇と唇が触れ合う。 「俺しか、七海を幸せにはできない」  強い意志を持った眼差しが、まっすぐ僕を貫く。名前をかすれながらつぶやくと、かがめていた身体を起こし、彼は藍色のベルベットの小さな箱を取り出した。ぱか、とそれを開けると、中から細いシルバーの指輪を手にした。  それ、と口に出す前に、彼は頬を染め甘く微笑んでから、僕の左手を掬いあげた。 「ずっと、一緒にいよう」  す、とひんやりとしたそれは、あっという間に僕の薬指に馴染む。 「絶対に俺たち、幸せになれるよ」  ばらばらと涙がこぼれて頬を湿らす。佳純は、僕だけを見つめている。  佳純のため、と言いつつ、結局、僕は、僕自身が傷つくことから逃げていた。  大好きな彼に、いつか言い渡されるのではないかという別れの瞬間におびえて、僕が先に逃げた。  それでも、佳純は僕を追いかけてきてくれて、優しい彼は、僕が逃げ出さないように周りを囲んでしまった。  強い瞳だが、奥では不安げに揺れていて、その愛おしさに胸がつぶれてしまいそうだ。言いよどむ僕を見つめながら、眉根を柔く寄せ、左薬指に唇を押し当てて、熱い吐息と共に名前を囁かれた。 「ぼ、く…こわい…」  やっと紡いだ言葉に佳純は顔をあげ、僕を見つめるが、さらに眉間にしわが寄り、真意を探ろうとしている。 「僕、本当に…佳純に捨てられたら、生きて、いけないよ…?」  淡い花びらが僕たちの間を急いで舞い抜けるように風が吹き、僕はまた胸元に押し付けられてしまった。 「…俺もそうだよ」  やっとわかったか、と強く抱き寄せられながら、耳元で佳純が苦し気につぶやく。  ようやく、僕は腕を動かして、彼を抱きしめ返せた。 「佳純…っ、ごめ、ん、ごめんね…っ」  ずっと待っていてくれた。  佳純は、僕が一歩踏み出すのを、ずっとずっと、辛抱強く、傷ついた表情を見せるときもあったけど、それでも、僕の気持ちを尊重してくれた。 「ごめんじゃないだろ…」  ちゃり、と胸元のネックレスが揺れると、瞳と瞳がぶつかる。何度も頬を撫でられ、存在を確かめるように僕も佳純の顎や頬を撫でた。目線は、じっと僕の言葉を待っている。 「僕だけの、アルファになって、くれる…?」  震える睫毛を何度かまばたきさせながら、小さく囁くと、佳純は微笑み、ゆっくりと唇を合わせた。ちゅ、と音を立てて離れると愛しくて、僕がその唇を追いかけて吸い付いてしまう。 「今、人生で初めて、アルファで良かったと思ってる」  熱のこもった声がそうつぶやくと、こんなに優秀なアルファなのに、おかしくて、何それ、と笑ってしまった。  抱きしめられている身体は沸騰しているかのように熱いのに、彼の冷たい手のひらが溶けることはない。目の前をはらはらと淡いピンクが舞い散り、遠くでは青空が見える。  いつも雨に翻弄されていた僕たちは、今、底のない真っ青な空のもとでピンクに祝福されながら愛を誓った。

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