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 サイドテーブルにあるラジオから、ビリー・ホリディが低く歌い始めた。  ダブルベッドでうたた寝していたトラヴィスは、淡々と強く語りかける歌声に誘われるようにして、寝返りを打つ。うっそうと開きかけた瞼の隙間から飛び込んできたのは、自分を見ている恋人の姿だった。 「……何だ、どうした」  トラヴィスは眠気半分に欠伸をした。 「……モーニングコールの時間か?」 「いや、あと四時間猶予がある」  ジェレミーは枕に肘をつき、手の甲に顔を傾けた姿勢で、トラヴィスの方を向いていた。 「……眠れないのか?」  トラヴィスはまた寝返りを打って、ラジオの隣にあるクロックに目をやった。時計の針はぼんやりと光っていて、深夜の二時をまわっている。 「眠れないなら、子守唄でも歌ってやろうか?」 「それより、お前とセックスした方が眠れる」  ジェレミーは恥ずかしげもなく言う。 「もう少し、うまく誘えよ」  トラヴィスは笑った。二人とも裸である。この数時間前にベッドの上で熱く愛しあっていた。 「お前、セックス中毒だろう。そのうち死ぬぞ。そばに棺桶ぐらい用意しておけ。それが俺に対する親切ってもんだ」 「心配は無用だ。私の心臓が止まる前に、お前が甘い天国へ行く。安心していい」  二人は楽しそうに軽口を叩きあう。 「それじゃ、眠らせてやろうか」  トラヴィスはジェレミーの方を向いて、同じく枕に肘をつき、少し顔をかしげながら挑発する。  ジェレミーはその甘ったるい挑戦状に目で笑った。 「そうさせてもらおう」  ラジオからはニュースが流れてきている。ビリー・ホリディは歌い終わった。ジェレミーは上半身を起こして、腕を伸ばしラジオのスイッチを切る。 「BGMはいらないのか?」 「お前の声だけでいい」  ジェレミーは体を動かし、トラヴィスの上から屈みこむ。 「……リクエストに応えてやる」  トラヴィスはジェレミーの背中に両腕を這わすと、強く引き寄せた。  二人はついばむようにキスをしあう。 「……トラヴィス」  ジェレミーは恋人の頭を両手で抱き寄せると、その耳元に唇を寄せた。 「……気をつけろ」 「……何だって?」  あまりにも小さい囁き言だったので、トラヴィスはよく聞き取れなかった。 「気をつけるんだ、トラヴィス」  ジェレミーは、今度ははっきりと囁いた。  トラヴィスは怪訝な顔をした。だがどういう意味だと訊く前に、恋人の唇によってその疑問は塞がれた――  テキサス州ペコス郡フォートストックトンにあるカウンティー空港の入り口そばに停車している車は、着いてから一時間以上は経過していた。 「もううんざりだ」  運転席に座るカート・グライナーは、シートの背もたれに苛々しながら背中を押しつけた。 「きっと、こっちへ来る途中で墜落したんだ。事務所に帰って、ニュースを確認しよう。大ニュースになっているさ」 「そうかもな」  助手席のロイド・フローレスは、シートを押し倒し、カウボーイハットを顔にのせて腕枕をしながら休んでいた。 「絶対にそうだ。テキサスのどこかに墜落していたら、俺たちにも捜索要請が来るかも。ここで寝ている場合じゃないよ、ロイド」   カートは握り拳をつくって力説する。空港に着いた当初は明るいジョークを振りまいていたが、いい加減にその舌が麻痺したようだった。 「俺たちはセレブを待っているんだぞ、カート」  カウボーイハットの下から、ロイドはのんびりと言う。 「こんな辺鄙な田舎に、一生に一度来るかこないかのセレブリティがやって来るんだ。一時間も二時間も待たせるのは、お手のもんだ。落ち着いて待っていよう。さもないと、犬でも待てるのに、それができないテキサスの田舎者は犬以下かって言われるのがオチだ」 「呼ばれてもいないセレブなのにな」  カートは空港の玄関口を睨みつける。 「いっそ、レッドカーペットで出迎えてやればよかったんだ。こんな田舎にわざわざやって来て、寝ぼけている副保安官と、苛々している保安官助手の歓迎を受けなきゃならないんだからな」  遠慮なく毒を撒き散らしている保安官助手に、副保安官の肩が笑うように揺れた。 「いい歓迎ができそうだ」 「俺もさ」  カートはハンドルを軽く叩くと、一時間以上見続けている空港から目をそらして、シートにどっぷりと寄りかかった。  ペコス郡の副保安官であるロイドと保安官助手のカートは、上司の保安官レイフ・ウォーレンから、朝早くカウンティー空港へ向かうよう命令された。そこでワシントンDCからやって来る客を出迎えるように言われたのだが、時間が過ぎてもその客は全く現れないでいた。フォートストックトンの外れにあるフォートストックトン=ペコス・カウンティー空港は、大型旅客機のフライトはなく、個人の軽飛行機などが離着陸できる規模の小さいものだ。件の空港のように利用客が多く出入りしているわけではなく、入り口で待ち始めてから、いまだに人影一つ見当たらないという始末である。ロイドは早々にお休みモードに突入し、職務熱心なカートが引き受けたが、さすがに痺れを切らしていた。  車のカーラジオは少し前からニュースを流している。二人ともいつ緊急無線がかかってきても対応できるようにはしているが、犯人を追っているわけでもないのに、張り込みもどきの待機をしなければならないという状況に、心底うんざりしていた。 「……おい」  しばらくして、カートが身を起こした。 「ついセレブ登場か?」  ロイドはそれでもカウボーイハットをどけようとはしない。 「いや……」  カートはフロントガラスに身を乗り出す。空港内には小さな建物が建っているが、そこの出入り口用のドアが開いた。 「起きてくれ、ロイド」  カートは視線を離さないまま、手でロイドの腕を叩く。その緊張した声に、ロイドはようやくカウボーイハットを掴んで頭へ戻した。 「どうした」  カートは顎で指した。 「あいつ、見てくれ」  ロイドは起き上がってシートを戻した。カートが振った先には、一人の男が見えた。 「何かおかしい奴じゃないか?」  カートは犯罪者を見つけたかのような厳しい口調になっている。  ロイドはよく見えるように、カウボーイハットのつばを指で押し上げた。その男はこちらへ向かって歩いてきた。黒いサングラスをかけ、グレーのトレンチコートを着ている。遠目でも、コートのボタンは締めておらず、中に白いワイシャツとダークスーツを着ているのがわかったが、スーツもボタンをかけておらず、ワイシャツも胸まで開いていた。ネクタイはない。ブラックの髪はトレンチコートとスーツに不釣合いなほどぼさぼさで、そのだらしなさは、一見すればアルコールで酔って暴れた後のような格好である。右手でアルミ製のアタッシュケースを持っていて、どこかふてぶてしい足取りで歩いていた。 「妙な奴だな」  ロイドは胡散臭そうに顔をしかめる。 「犯罪をやって、高飛びしてきたような感じだ」 「俺もそう思う。何だ、あの格好は。ただのビジネスマンじゃないぞ」 「ここはメキシコとの国境にも近いからな」  ロイドは考えるように黙る。 「どうする? 保安官事務所へ連絡しようか?」  カートは近づいてくる男をずっと睨んでいる。  ロイドは決断した。 「ちょっと話を聞いてみよう」  二人は頷きあうと、銃を確かめてから車を降りた。

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