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第2話

 陽が高く昇ったのを見届けると、ハウは森に繰り出した。  島を覆う森は恵み豊かだ。ここが緑の島と呼ばれる所以である。太陽の恩恵をたくさん受けているから、年中、キノコやコケモモ、様々な種類のベリーが豊富に獲れる。  右手に籠を持ち、目線を低く落として道なき道を歩いていたハウだったが、足裏に違和感を覚えた。ふわふわの落ち葉の下に小さな枝木が敷き詰められていて……と思った瞬間、がくんと目の前の景色が揺れて、足場が崩れた。 「わっ!?」  あがく間もなく体が下降して、どすんと強い尻もちをついた。手首と尻尾にも鈍い痺れが走る。  どうやら、森に落とし穴を仕掛けた輩がいるらしい。落ち葉と小枝はその穴を隠す蓋だったのだ。周囲の薄暗さに目が慣れると同時に、湿った土の匂いが鼻の粘膜をツンと刺激した。  両手を広げられるほどの直径はないが、空は遠い。小柄なハウには十分すぎる深さがある。這い上がるのは容易ではない。困ったことになったと眉をしかめた。 (こういう悪戯をするやつらには、心当たりがあるんだよな……)  案の定、穴の上から顔を覗かせたのは、猪族の若者たちだ。背中に投石器をくくり付け、腰にロープを巻いている。彼ら猪族には力自慢の猛者が多く、森を中心に生活を営み、自主的に森の自警団を買って出ていた。 「なんだ、引っかかったのはクズ拾いか」  しらけた顔で穴の中を見下ろしている。クズ拾いというのは猪たちがハウに付けた呼び名だ。籠を持って茂みから茂みをうろちょろしていたら、いつの間にかそう呼ばれていた。 「クズ拾いじゃない。私は神殿守りだ!」  毅然と反論するが、猪はこちらをばかにするように嘲笑った。 「今日もお顔がホコリだらけだぜ? ちゃんと顔洗えよな、クズ拾い」  ハウの顔にそばかすがあるのを知っていて、当てこすりを言うのだ。怒りで頭がカッとなる。  あるときは背中を押されて水たまりに突き落とされ、またあるときは木の上から毒蛇を投げつけられた。本当にろくなことをしない連中だ。強いものにはおもねり、弱いものは徹底的にこき下ろす。力を持たぬ者には何をしてもいいというのが彼らの主義信条なのだ。 「ホコリなんか付けてない! 早くここから出せっ!」 「おーい、子犬ちゃんがなんか言ってるぜ」 「もとから薄汚え犬っころなんだからよ、土でも食ってろって!」  穴の上から土くれを投げ落とされた。土に混ざって、枯れ葉や小枝、小石がどさどさと降っててくる。 「うっ、やめっ……」  粒の細かな土が鼻や目に入ってきて、咽せながら頭を腕で庇った。弱々しく丸まったハウを見て気が済んだのか、猪たちのうるさい笑い声が遠ざかっていった。  腕が小刻みに震えている。このまま埋められてしまうのではないかと思って、恐怖で喉が詰まった。あんなやつらに怯んだ姿を見せたのが悔しい。怒りを逃すように、きつく奥歯を噛み締めた。  体にくっ付いた土や木の葉を振るい落とし、頭上を窺った。木々の緑の合間から僅かに木漏れ日が落ちてくる。ため息をつこうとしたら、呼吸が急に苦しくなった。  ばくばく、ばくばくと鼓動が激しく重たくなって、たまらずしゃがみ込んだ。内側から胸を破る勢いで心臓が飛び跳ねている。 (早く、外の空気を浴びたい……太陽が、恋しい……)  土の中は暗く、ひんやりとして冷たい。差し込む陽の光は僅かで、外界から遮断された閉塞感が症状をさらに加速させる。  迷った末、ハウは獣形に変化した。  体が縮んで丸くなり、四肢は短く、毛深くなっていく。小柄なポメだから人型でいるときより不便になるが、爪が鋭くなるのと脚力が強くなるのがいいところだ。土の壁を爪でえいやと引っ掻きながら、どうにか穴を脱出できた。  島の住民はみな、人と獣の姿を行き来しながら暮らしている。しかしハウにとって変身は、体への負荷が大きい。  ごろりと草むらに寝そべって、呼吸が落ち着くのをじっと待った。吸った息が体を十分にめぐるまで、視野が霞んだり、微かに耳鳴りが聞こえたりする。穴に落ちた際、手首を捻ったかと思ったが、確認してみるとどこにも怪我はなかった。  猪たちは、丸太ひとつ満足に運べないようなやつが天狼の傍でデカい顔をするな、と言いたいのだろう。自分が非力であることは、この世界に生まれ落ちたときから誰よりもよく知っている。  ハウの心臓の弱さは生まれつきだ。  猪どものせせら笑いを思い出したら怒りが蘇ってきた。ふーっふーっと鼻息が荒くなる。 (私がもっと巨体だったら、あいつらの毛を禿げるまで毟ってやるのに!)  煮えたぎる怒りは容易に引っ込みそうになかったが、ふいに何か光るものを視界の隅で捉えた。落ち葉の隙間から、小さな黄金色の突起が、ぽこぽこと頭をのぞかせている。ほんの指先ほどの大きさのリボンにも見えるそれは、アンズタケというキノコだ。 (猪のやつら……損したな。こんなごちそうに気づきもしないで)  溜飲が下がっていく。こういうのも怪我の功名というのだろうか。  アンズタケは油でさっと炒めて、スープやシチューに加えると最高なのだ。今夜の献立が頭の中で組み上がった。仕込んでおいた豆があるから、それと合わせてスープをつくろう。優しくてコクのある、絶品メニューになるはずだ。  太陽の相手を終えて帰ってくるスヴェルの疲れが、少しでも癒されるといい。  ハウは草の上に寝転がったまま、空を見つめた。  太陽の近くを回る、小さな青い光。あれがスヴェルだ。天に昇って太陽を追いかけ、時を刻む。島でたったひとりの特別な狼。 「……眩しいなぁ」  誰よりもいちばん近くにいるはずなのに、今はこんなにも遠い。  少しの間まどろんでいたら、太陽が傾きはじめていた。陽射しはまろやかな橙を帯びている。  ハウは起き上がり、ふたり分のキノコを摘んだ。のろのろしていたらすぐに夕暮れだ。陽が沈む前に家路を急いだ。  夕餉を済ませ、野花のお茶を淹れていると、スヴェルが訊ねた。 「おまえ、泥臭いな。何かあったか?」 「すみません。美味しそうなキノコを見つけて、獲るのに夢中になってしまって……」 「そうか。ならいい」  キノコと豆のスープがよほどお気に召したらしい。よかったよかったと、こっそり胸を撫で下ろした。猪との件は言いたくなかった。 「おい、毛を梳いてやるから近くに来い」 「結構です。私に近づいたらスヴェル様まで泥臭くなりますよ」 「構わん。いいから早く来い」  足を開いて、ここだ、ここへ座れといって、椅子の座面を叩く。声は穏やかだが、こちらを射抜くように見つめる目が怖い。逆らえば、もっと危ない目に遭わされそうだ。  そもそも仕える分際でハウに否やはない。促されるまま、素直にスヴェルの足の間に収まった。  スヴェルがハウの髪に指を滑らせる。こうしてわざわざ従者の世話を焼きたがるのは、昨日今日に始まったことではない。毛づくろいのつもりなのか、スヴェルは頻繁にハウを呼び寄せては、頭に鼻をくっ付けてスンスン匂いを嗅いだり、髪や首筋、耳を舐めたり揉んだりしてくるのだ。  斜め上からぬっと顔を近づけたスヴェルは、じっくりとハウの顔に散ったそばかすを見つめていた。時折、指を伸ばして数えるように触れている。  ハウはぐっと奥歯を噛んで羞恥を堪えた。胸がそわそわするし、変な顔をして奇声を発してしまいそうだ。いっそのこと、顔ごとプイッと横に逸らしたかった。けれどそれは許されず、おとなしく頬をつんつん突かれている。 「そばかすを見ても、つまらないと思うんですけど」 「小さな星みたいで、俺は好きだが?」 「星?」 「そうだ。おまえの顔には、星が散らばっている」  猪には土だホコリだなどと言われ揶揄われてきたが、スヴェルにはそんなふうに見えるのか。 (まるで正反対だ……)  虚をつかれて、瞬きもできずにスヴェルを見つめ返していると、大きな口がぱかりと開いた。鋭い犬歯が真白く光って、とっさに身を小さくする。 「ひょぉっ!?」  舌の先端が、ハウの顔をぺろりと舐めた。  頬骨の高い部分から鼻柱、その隣の頬にまで、スヴェルは貪欲に舌を伸ばしていった。砂糖の粒をひとつひとつ拾うみたいに、ハウのそばかすの数だけ、舌の刺激は続く。 「菓子ほどではないが、子犬の顔は甘い気がする」 「ひ……やぁっ!」  いやいやと上体を捻るが、大きな手が腹に回っていて離してもらえそうにない。なぜならこれから仕上げの工程があるからだ。  仕上げは耳揉み。ハウの小ぶりな犬耳はすっかり萎えて、内巻きに丸まっていた。この形が昔からコンプレックスだった。触れられるのも本当は好きじゃない。  それなのに、スヴェルに揉み揉みされると、はじめは恥ずかしくて堪らないけれど、どんどん気持ちよくなるのだ。ズボンの下に隠れている尻尾までぷるぷると震えてしまう。  耳の輪郭を確かめるように、大きな手が耳を包んだ。 「ひゃん!」  スヴェルにの胸に身を預けながら、悲鳴をあげてしまった。犬耳が指で揉み揉みされていく。 「あう〜、スヴェル様ぁ……離してぇ……気持ちよすぎてだめになりますぅ……」 「こら。逃げるな」  座面から尻を浮かせれば、スヴェルの両足が腰をがっしりと掴みなおし、椅子へ押し戻した。  この状況、正直、困っている。  里子に出されて以来、ハウは他者とのスキンシップをほとんど知らずに育った。 (毛づくろいって……成人同士でもするのかな?)  養い親の翁は、ハウをまったく子ども扱いしない人だった。  彼は養父というよりも教師だ。自身の引退の時期を見据えながら、後を任せるための教育をみっちり仕込んでくれた。  時間は有限だからと、むやみに甘えることは許されなかった。課題をこなせないと定規で手を叩かれたし、かといって褒められた記憶もなかったが、感謝している。神殿にハウの居場所を作ってくれたのは養い親の翁だ。  ただ、家族や親しい者との距離、許される甘え方というものが、ハウにはわからない。  友人のユールに訊いても、「鹿族はあんまりベタベタしないから参考にならんと思う」と困った顔をされた。  町を歩いていると、たびたび親子連れとすれ違う。迷子にならないよう手を繋ぎ、母が子の毛並みを撫で、大事そうに頬をすり寄せていた。ハウにはとうの昔に失われた、馴染みのない光景だった。  毛づくろいは、親が子にするもの。  だけどスヴェルは、ハウの親でも親代わりでもない。 (……私が頼りないから、子ども扱いされるんだ)  たいして身長も伸びなかったし、成長著しいとは言い難い姿だけれど、ハウだってすでに一人前の男だ。 (なんだか嫌だな。もう、子どもじゃないのに……)  何とも形容しがたい切なさを感じた直後、左胸が疼痛を訴えはじめた。  ──どっどっどっどっ!  心臓がハウの胸で暴れだした。脈拍のコントロールが効かなくなることは、しょっちゅうだ。鼓動が早まるたび、苦しさと不安で溺れそうになる。シャツの胸元を掻きむしるように掴んで、前屈みになった。 「うぅ……」 「おい?」  スヴェルが心配そうに顔を覗き込んで、強張った背をさする。肺を広げるように前に屈んだ上体を起こして、自分の胸にもたれさせた。 「心音が早いな……深呼吸はできるか? 息を吐け。全部だ。そうだ。吸うときもゆっくりと。そう、よくできている。いい子だ」  ハウの胸に手を当てて、大丈夫だと宥めるように耳元で囁き続ける。  呼吸が安定しはじめた。  症状が落ち着いたところで、横抱きにされて部屋まで連れて行かれた。スヴェルに寝かしつけられるのは久しぶりだ。  毛布を首まで掛けられる。そのあと、お腹の上を三回ぽんぽんぽんと優しく叩かれるのは、もう休みなさい、の合図だ。催眠術にかかったように静かに瞼が落ちてくる。 「……なあ、子犬。生き急ぐなよ」  ゆっくりと沈んでいく意識の下で、優しい声が鼓膜を小さく揺らした。

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