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第3話

 ──カシャン!  悲鳴のような音がして、陶器が砕け散った。 「あちゃあ……割っちゃった」  長く愛用していた陶器の水差しだった。高価な品ではないと思うが、ハウが来るずっと前から神殿で使われてきたものだ。  散らばった陶片を泣く泣く掃き集め、濡れた床を雑巾で拭った。  原因はハウの左手だ。  落とし穴で捻った手首が、今日になって傷みだすとは思わなかった。水を入れて重くなった陶器を運ぼうと片手で持ち上げて、取り落としてしまったのだ。 「新しいもの、探しに行かないと……」  ハウは神殿の外を覆う森を抜け、町の広場を目指した。広場には市が立つし、食料だけでなく陶器の店も出ているはずだ。  期待して出かけてはみたけれど、壊れた道具に愛着があるせいか、ハウの目に適うものはなかなか見つからなかった。心が惹かれないし、手にも馴染まない。しょんぼりと肩を落とした。  それでも諦め悪く市のまわりをうろついていると、屋台にいた熊獣人たちの話し声が耳に入った。 「……それって、あのメネラウスか?」 「そうだよ。メネラウスの若いやつら、帰ってきたんだって。土産話でも聞きに行こうぜ」 「なにが土産話だ、どうせ女目当てのくせに」 「あったりめーよ。後腐れなく遊ぶんなら断然、蝶族だろ。蝶族なら女でも男でも構わないね。来るもの拒まずだ」  連れの男たちは串焼きを頬張りながら、「そもそも来るわけねー」「おめぇは一度、鏡見ろ」と笑ってけなし合い、話題は別の事柄に移っていった。 (……メネラウス)  口の中で小さく呟く。その家名には聞き覚えがあった。  昔、スヴェルが恋をした男。  恋する天狼をすげなく袖にして島を出た、蝶族の名だ。  スヴェルが蝶族の男とどういう関係を築き、どんなやり取りをして別れるに至ったか。ハウはほとんど知らない。知りたいとも思わない。  神殿守りの翁がまだ現役だった折、それはもう憎々しげに零したことがある。 『蝶風情に弄ばれるとは情けない。今代の天狼はまだまだ未熟だ』  メネラウスの者が訪ねてきても取り次いだりしないように気をつけなさい、と、翁は口を酸っぱくして言い聞かせた。 『蝶ほど尻軽で信用のならない者は他におらん』 『蝶のひとたちは、わるものなんですか?』 『翅を持つ者は総じて気まぐれだ。中でもメネラウスは外つ国に詳しく、貴重な薬蜜を独占している。天狼への崇敬の念も足りん。あやつらに良いところなど一つもないわ』  それから数年後、翁は神殿守りを引退し、スヴェルはハウを重用するようになった。常に自身の傍に置き、翁には許さなかった部屋への立ち入りも許し、何くれとなくハウの世話を焼く。  今から思うと、フィンとの恋が破れて、ひと恋しくなっていたのかもしれない。  それでもよかった。命の恩人とも言えるスヴェルのために尽くせるのなら、誰の代わりであっても構わなかった。  しかし、もし当時の恋人が帰ってきたと知ったなら。 (スヴェル様は……どうされるだろう?)  過去の恋を思い出して、フィンに会おうとするかもしれない。  そのときハウの居場所は──まだ、あるのだろうか。  新しい水差しは結局決められなかった。  長年手に馴染んだ道具への愛着は諦め難く、ハウは悩んだ末、首を振って引き上げた。スヴェルも神殿に帰っているかもしれない。  いそいそと門を潜り抜けたところで、神殿の一角から誰かの話し声がした。どうやらスヴェルに客のようだ。 「あのねえ、僕は慈善事業をするつもりはないんだよ」  柔らかな響きを持った男性の声。  話を遮るのは憚られて、そっと庭木の合間から部屋の中を窺う。カーテン越しにひらひらと黒い羽衣のようなものが揺れていた。  いや、あれは羽衣というよりも……。  そのとき、少し強い風が薄いカーテンをぶわりとめくりあげて、客人の全貌がハウの視界に入った。 (──翅だ)  花びらのようにふわふわと揺れる翅。黒と青の鮮やかな色彩は、翅が揺れるたび、虹を帯びて豪奢に光る。  蝶族だ。蝶の青年が、軽やかな金の髪を風になびかせ微笑んでいた。  中性的な容姿に、細くて長い手足。眩しくて目を細めないと耐えられないような美しさ。まさに花の化身と呼ぶにふさわしい。そんな優雅な人が、スヴェルの前に嫣然と佇んでいる。  ハウは瞬きも忘れて見入った。  直感でわかる。この人がメネラウスだと。 「金の無心に来たのか、フィン。俺にどうしろと?」 「こわ〜い。そんなに睨まないでよ。僕はただ新しい温室を作りたいだけ」 「今のままでも設備は十分だと思うが?」  フィンと呼ばれる美しい蝶は、よりを戻しにきたのだろうか。  ふたりのやりとりを聞いてはならない。そう思ったけれど、ハウの体は動くことを拒否していた。 「外つ国で手に入れた種があるんだけど、目覚めさせるには太陽の力が必要なんだ。この花の蜜を利用すれば新薬も開発できる。栽培規模さえ広げられたら、救える命が増えるんだ。君の力を貸してほしい」 「協力はする。だが、神殿には来るな。おまえの相手をするのは精神的に疲れる」 「え〜、君だって僕を消耗させるじゃないか」 「人聞きの悪い言い方をするな」  フィンがスヴェルの背に抱きついた。背中から胸に手を回して、体温を確かめるように手のひらを這わせる。 「ふふっ。相変わらず、いい体してる」 「……フィン、やめろ」  誰かが付け入る隙など、どこにもない。  ハウは目も耳も塞いでしまいたかった。  長身の美丈夫と華やかな美男子。正反対なふたりだが、飾らない言葉のやり取りに、過去を共有する者同士の絆を感じる。頭のてっぺんからつま先まで文句なしに美しいフィンに対して、スヴェルはいつもどおり飾り気のないシャツを着ているけれど、それでも見劣りなどしない。  もしかして、とハウは思った。  ふたりとも、お互いに未練があるのでは?  巻きつけた腕をあっけなく剥がされたフィンが、口を尖らせた。 「十年ひと昔って言うけど、可愛い子犬ちゃんのためとはいえ健気だねぇ。孤独な天狼様は父親気取りかい?」 「うるさい。あれは……哀れな子犬だ」  ──哀れな子犬。  穏やかな天気なのに、胸がひやりと冷たくなった。よく切れる刃物を心臓に直接押しつけられたような、ひどい気分だ。  ずっと、そんなふうに思っていたの?  哀れまれる対象でしかなかったの?  ハウは叫び出しそうになるのを必死に抑えた。 「神殿に迎えた頃のあれは痩せていて小さかった。胸に抱くのもおっかなびっくりで、俺が頭を撫でようものなら首がもげそうだった。耳も小さくて、目はくりくりで……」 「なぁーにが哀れだよ。そういうのは可愛いって言うんだ。可愛い子にはちゃんと可愛いって伝えないと愛想尽かされるよ?」  フィンは話の続きを強引に中断させ、刺々しい口調でまくしたてた。  「あ、ちょうどいい風が吹いてる。僕、そろそろ帰るわ」  窓枠につま先を乗せると、ふわりと風に乗って宙に舞い上がった。  空を見つめていたフィンの瞳が、つと、庭木の隙間を見下ろす。そこにいるのは室内の様子に耳をそば立てていたハウだ。  瞬きひとつほどのごく短い間、ハウとフィンの視線がばちりと交錯する。  ──見つかっ……た!?  突然の事態に硬直するハウだったが、フィンは子犬の覗き見など見咎めるつもりもないらしく、驚きの表情は一瞬で優美な微笑みに変わった。蝶はそのまま何も言わず、しなやかな翅で風を捉えると、東の空へ消えていった。  スヴェルとフィンの密会を目撃した後悔と罪悪感、見てはいけないものを見てしまった動揺とが、胸の中でひしめきあっている。  立ち上がると目眩がしそうで、しばらくの間、庭に蹲って膝に額をくっ付けていた。さっきまで信じていた世界が一瞬にして黒焦げになったような、最悪な気分だ。 (哀れな子犬……)  ハウは夕闇に紛れて森を駆けた。  あのまま神殿に戻るのは嫌だった。  黒目黒髪という地味な容姿は、夜を味方にできるのがいい。  帰りが遅いと言われたら、買い忘れたものを探していて遅くなった、とでも言えば許してもらえるだろう。スヴェルに嘘をつくのは心苦しいが、ぐらぐら揺れる心を鎮めたいだけなのだ。  町を当てもなくぶらついて、気づいたときには夜市場で羽衣を手にしていた。  黒と青の糸で織られた幾何学模様の薄い生地。錦糸も混ざっているのか、角度を変えて見れば光が浮かぶ。  色、艶、模様。どれをとってもフィンの翅に似ていた。 (安物だろうけど、きれい……)  フィンが空を舞う姿を思い出し、その面影を羽衣に重ねた。あれほど美しいひとがスヴェルの恋人というのなら、ハウはそのへんの石ころだ。  突っ立って惚けたように売り物を見ていたら、店の人に押し切られて言い値で買ってしまった。新しい水差しを買うつもりでポケットに入れておいたお金がすべて消えた。  店主は最後までハウのことを猿族の子どもだと勘違いしていた。萎れて丸くなった耳が髪に埋もれていて見えなかったのだろう。  お母さんへの贈り物かい? 偉いねえ坊主、と褒められて、ちょっと笑ってしまった。 (こんなの買っちゃうなんて、どうかしてる……)   落ち込みながら神殿まで帰り、まずは羽衣を隠さねばと思った。  もしスヴェルに見つかれば、間違いなく変な目で見られる。こんなものを買って、哀れな子犬のくせに身の程も知らず、いったい何を期待しているのだと指を差されそうで怖くなる。ハウにしかわからない場所に、少しでも早く押し隠してしまいたい。  スヴェルが使わなさそうな場所はどこか? と考えて、調理場の戸棚を開けた。たいしたものは入っていない。椅子に乗って上の棚を整理していると、手が何か硬いものを探り当てた。 「ん……なんだろう。小物入れ、かな?」  取り出してみると、それは枕ほどの大きさの寄木細工の箱だった。ハウには見覚えがないから、おそらくスヴェルのものだろう。あるいは、引退した翁が忘れていった私物の可能性も否定できない。  中を開けて、確かめよう。  上の棚に入れた道具類は普段使わないものばかりだ。頑丈そうに見えるこの木箱も、今はガラクタ同然ということか。品が良さそうなので少しもったいないと思った。  蓋は閉まっておらず、紙の束がはみ出ていた。手紙をしまう文箱のようだ。  一通だけ、何気なく手に取った。  折り畳まれている中身まで引き出したりはしなかったが、宛名や差出人の名は封筒の端からでも目に飛び込んできた。  ──親愛なるスヴェルへ  消印は三月前だ。意外にも新しい。  差出人の部分には流麗な字体で、フィンの名が記されている。  箱の中の封筒は、経年変化で黄ばんだものもあれば、まだ新しいものも紛れていた。蓋が閉まらないほどの、手紙の束。それが示すものは……。  ふたりの交流は今までずっと続いていた。  知らずにいたのはハウばかりだったのだ。  なぜならハウは哀れな子犬。取るに足らぬ者に、誰がわざわざ自分の恋愛事情など語ったりするだろうか。  箱を手にしたまま、その場にぺたんと座り込んだ。  この手紙は、スヴェルもフィンも互いを想い続けてきたという証拠だ。それは喜ばしいことのはずだ。それなのに……。  どうしてこんなに苦しいんだろう?  理由はわからないけれど、手紙を見つける前の自分にはもう戻れない。気持ちがひどくざわめく。嵐の海でどうにかひっくり返らず揺れている船みたいだ。船酔いとは違うけれど、胸がむかついて気分が悪い。  反射的に左胸をぎゅっと押さえた。いつの間にか呼吸が浅くなっていたようで、何度か深呼吸をしてみたが、不快感はいっこうに収まらない。  そうか、とハウは気づいた。これは心臓の病ではなくて、もっと別の現象なのかもしれない。 (とはいっても……これはおふたりの問題で、私には何の関係もないこと)  理解できない感情が胸を焼く。自分には関わりようのないことなのに、心が砕けそうになるなんて。 (……内緒にされていたのが、悲しいのかな)  そうだ。いちばん近くにいたのに、スヴェルは何も教えてくれなかった。木箱をふたたび戸棚の奥へ押し遣りながら、ぼんやりと瞬きを繰り返す。  ハウは神殿守りだ。主人であるスヴェルが黒と言うものは黒だし、白と言うものは白になる。それに異論はない。ないけれど、フィンの存在だけはどうしても受け入れたくなかった。納得できないし、嫌だと言って抗いたい。  ハウが抱くこの気持ちは、神殿守りの使命とは逆をゆく邪念だ。  自分だけを傍に置いてほしい。  自分だけを見てほしい。  スヴェルを────独占したい。  自分の内側に途方もなく甘ったれた気持ちがあるとわかって、やや失望した。精神的にまだまだ幼いということだ。ならばこれは、幼な子が母を求めてむずかるのと同じ気持ち……? そこまで考えて、かぶりを振った。  そうではない。スヴェルを親だと思ったことは一度もない。並々ならぬ愛情は感じているが、親へ向ける感情ではなくて……だとすると、この気持ちの正体は──。 「私は、スヴェル様が、すき」  ぽつりと呟いた途端、体の内から震えが走った。  恋? 劣情?  認められない、認めたくない。神殿守りごときが抱いていい想いとは思えない。 「だめだ……出奔しよう」

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