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第5話

 目が覚めて、今朝はいつもより空が低いのだと気づいた。音もなく小雨が降っていて、塔の周囲は真っ白な霧に包まれている。  雨の日は太陽もスヴェルもお休みだ。  軟禁された初日と比べて、ものが増えた。生活用品の倉庫だった場所が、今ではハウの部屋のようになってきた。というのも、枕や毛布、本やお菓子といった細々したものを、スヴェルがせっせと貯蔵塔へ運び込んでいるからだ。  「くるまれ」「読め」「食え」という短い指示(?)を出しては、ハウがそれに従うのを見て、厳つい面持ちを和らげている。天狼様のお考えは理解が及ばない。  今日は沸かしたての湯を入れたポットを塔まで持ち込んで、摘みたてのハーブでお茶を淹れてくれた。湯を豪快に注ぐ様は、ハウには真似できないサーブ方法だ。見ていてはらはらするが、緑のいい香りがテーブルにふわりと立ち上った。 「飲め」 「い、いただきます」  ソーサーすら使わずに置かれたカップを手に取り、ふうふうと冷ましながら飲んだ。 「おいしいです」 「ふん」  スヴェルは、ちびちびと熱い茶を啜るハウの隣にぴたりとくっ付いて座り、湿気で膨らんだ黒髪をわしゃわしゃとかき混ぜている。  てっきり出奔の一件で激しく嫌われて、ミイラになるまで塔に囚われるのだと思っていたが、なんだか今まで以上に構いにやってくる。  スヴェルが小さな存在を慈しむのは、天狼としての性なのかもしれない。つまりこれは、子どもや野うさぎを愛おしむのと変わらない行為なのだ。けれど、まだハウに自由を与える気にはならないらしい。スヴェルの中にある、許す/許さないの境界線がまったく見えないのだった。  ハウが塔に閉じ込められて神殿守りの仕事ができなくなっても、スヴェルはそれなりにやっていた。昨夜は焼いた川魚とネギのスープ。今朝はふかし芋とチーズのコケモモソース添え。ハウの用意する食事より簡素だったが、温かい食事を作る技量があったのかと驚愕する。  自分の存在意義を自問自答せずにはいられず、ハウは深々と嘆息した。 「子犬」 「……はい?」  隣から、むっつりと眉間に皺を寄せたスヴェルが見下ろしている。 「何を考えていた?」 「特に、何も」  目を伏せて、首を横に振った。  いつか『子犬』から脱却できる日は来るのだろうか。 (この先も……私は『哀れな子犬』のままなのかな)  考えても詮無いことだ。ハウの気持ちは報われない。スヴェルにはもう、フィンがいるのだから。  うつむいたままでいると、いきなり頤に手をかけられ、顔をぐいと上向きにされた。鼻と鼻が触れ合うほど間近な距離で、訝しげな眼差しがこちらを見下ろしている。 「おまえの目は黒いガラス玉だな。何を考えているのか、俺にはわからん」 「……スヴェル様。昔、私がリス族と木登り勝負をしたこと、覚えてますか?」  それが何だという顔で、スヴェルが無言のまま頷く。  雨の日はなんだか昔の話をしたくなるのだ。  神殿にもらわれてきてすぐ、リス族の子どもに挑発されて木登り勝負に挑んだ。結果、見事に惨敗したハウは、手の皮を擦りむいて大泣きした。  怪我のせいで翁の手伝いもできなくなって、『神殿に身を置く者がそのような情けない姿を晒すとは、なんたる不忠義か!』と叱られた。  痛いやら恥ずかしいやらで、しくしくと泣いていたら、スヴェルが様子を見に姿を現した。 『犬に木登りは向かん』  ぽんぽんと、励ますように頭を撫でてきた。 『木登りでリスに挑むのは愚かだが、負けん気があるのはいい。俺の暮らしにも張り合いが出るな』  そう言ってもう一度頭を撫でると、懐から砂糖菓子を取り出した。『あーんしろ』といって口を開けさせ、手ずから菓子を食べさせてくれた。菓子は口の中でほろほろと溶けた。  離れたところから拝んでいた天狼様がこんなに優しいひとだとは思わなくて、ハウはびっくりしていた。なにしろ当時のハウは不安でいっぱいだった。いつ『要らない』と言われて次の家へ送られるのかと、震えながら毎日を過ごしていた。  本当は、誰かに甘えたかったのだと思う。  その心を満たしてくれたのが自分が仕えるべき主人であったのは意外だったが、口に放り込まれた菓子の甘みと頭を撫でてくれたぬくもりのおかげで、その夜は怖い夢も見ずにぐっすりと眠れた。 「……俺の暮らしにも張り合いが出ると言ってもらえて、嬉しかったんですよ。ここにいれば、弱い私のままでも、何かできることがあるのかなと思えて」  話し終えたハウの首を引き寄せ、スヴェルがべろりと舌を這わせた。薄い皮膚の上には歯形がくっきりと残り、首飾りのように取り巻いている。  これはスヴェルがハウに付けた首輪だ。 「あっ、あ、あぅぅ……」  か細い声が喉から漏れる。くすぐったいだけではない、ぞくぞくとした震えが走ってたまらず、スヴェルの腕に縋りついた。  スヴェルは切れ長の目を細めて、ハウを舐め続ける。親犬が子犬の毛づくろいをするように。捕食者が獲物に自身の証を刻むように。何度も何度も。  四日間降り続いた雨が上がり、元気な太陽が島の空に戻った。スヴェルは渋々といった様子で空へ昇っていった。  ハウは今日も塔から出られない。乾いたハーブや薪の数をぼんやりと数えて時間を潰すほかに、何もすることはなかった。  ──とんとんとん。  突然、扉をノックする音が響いた。びくりと体が跳ねる。本来、この塔は誰も訪うはずのない場所だ。さらに言うなら、スヴェルはノックなど絶対にしない。  では、いったい誰が?  体中の毛が警戒して逆立った。  ノックが止んで、がちゃりと鍵穴が回る。 「──こんにちは。可哀想な子犬ちゃん」  柔らかな声と、黒と青の鮮やかな翅。一度この目に焼き付けた相手を見間違えるはずはない。  扉を開けたのはメネラウスのフィンだった。  驚きすぎて挨拶すら返せず、壊れたおもちゃのように口をはくはくと動かした。ハウの首元に目を留めたフィンが「おや」と僅かに目を見開く。 「天狼様のお相手は大変だね?」 「……スヴェル様でしたら、留守ですが」  首に残る噛み傷をさりげなく手で隠しながら切り返す。思ったより刺々しい声が出て、自分でも驚いた。 「あ〜、留守なら留守で構わないよ。僕はちょっと散歩に来ただけ。君のお見舞いもしたかったし」 「お見舞い? あなたが、私を?」  不信感を剥き出しにして問い返す。  フィンは貯蔵塔の鍵をくるくると弄びながら、言葉を探すように部屋の中を見回した。なぜこのひとが塔の鍵を持っているのか。疑問というより不安を覚える。 「ほら、あの子……えーっと、なんて名前だっけ。鹿族の男の子が君のこと、すごく心配してたよ。まだスヴェルに許してもらえなくて、会いに行けないって落ち込んでた」 「ユールが……?」 「そうそう。はいこれ。パン屋さんからの差し入れ」  胸に押し付けるように、腰に下げた紙袋を渡された。ユールの作るスパイス入りのパンの匂いだ。思わず鼻をくっ付けて吸い込んで、頬を緩ませる。フィンを前にして感じていた心の重さが、少しだけ軽くなる気がした。 「今、ちょっとパン屋さんが大変みたいでね」 「……え?」 「石窯に泥を詰められたんだって。よその島から来た、ならず者の仕業じゃないかって話だよ」 「大変じゃないですか! パンが焼けない……?」 「しばらくは別の窯を使うみたい。お店に問題はないってさ。そういう状況だから、子犬ちゃんも気をつけてほしいって言ってたよ。そいつら、鉄の武器を持ち込んでるって話だから」  フィンは手近な椅子を引き寄せて、ちょこんと腰を下ろした。 「じゃあ、お店は開けてるんですね? よかった……」 「君は優しい子だなぁ」  足を組み、探るように前屈みになって、ハウを見つめる。笑みを湛えた顔は優しげだが、視線は鋭い。 「ねえ。最近、心臓の調子はどう?」  思いがけないことを訊かれて、とっさに何も返せなかった。 「もうすぐ新しい薬蜜が完成するんだ。外つ国から移植した株がようやく定着したの。胸の病に効く蜜が摂れるから、完成したら飲んでみてほしい」 「……私の、心臓のこと」 「うん、よーく知ってる。なんでだろうねえ?」  妖艶さを帯びた笑顔で、小さく首を傾げた。大人の男がするには少々あざとい仕草だが、この蝶にはよく似合う。  愚問だと思った。スヴェルが話したに違いない。たとえば、「今の神殿守りは体が弱くて困る。早く次の世代を育てたい」とか、そういった話を……。  ネガティブな思い込みが加速しそうになって、ぎゅっと膝の上の拳を握った。  フィンがスヴェルのことを語るたび、ちくちくと腹の底を針で刺されているような不快な気分になる。ハウが知らないスヴェルを、フィンは知っている。そう思うと、腹立たしいような、寂しいような、複雑な気持ちが湧いてくるのだ。 「それは、信頼されている証ではないですか。あなたは、スヴェル様の大事なひとですから……」 「うん?」  たっぷり十数秒ほど、不自然な沈黙が続いた。  その間、瞬きを数回。フィンの金細工めいたまつ毛が扇のように上下する。  ハウが気づかないとでも思ったか、それほど舐められていたのかと、苛立ちを覚えた。 「あなたとスヴェル様が手紙で交流していたことは、私も知ってます」 「子犬ちゃん……なんか君、面白いこと想像してるだろ」  フィンはやや呆れ気味に口を開いた。 「僕、あの狼とは根本的に相容れないよ? そりゃ確かに体つきは好ましいし、過去には恋に近い感情を抱いたこともあったけど」  はっきりしない言い方は、ひとの想像力を刺激するだけ刺激する。耳を塞ぎたくなったが、なんとか堪えた。 「天狼って重いんだよねぇ」  話しながら軽く肩をすくめた。  スヴェルは神殿を離れられない。彼は太陽から生まれた聖なる狼だ。この地に降り立ったその瞬間から、島民の生命を一身に背負い、太陽とともに歩む使命を泰然と受け入れる。 「なんていうか、存在が重い。島をひとつ背負ってるわけだしね。ひとつの場所に縛り付けられて、その不自由を不自由とも思わず、平然と受け入れている。そういう考え方はさ、翅ある者には理解できないんだよ」  フィンはちらりとハウの首に視線を移した。 「君は耐えられるの? あの狼に理不尽に束縛されて、嫌じゃない?」 「……束縛? あの、フィン様、何のお話を」 「答えて、子犬ちゃん。あいつと生きるってことは、この島と運命を共にするってことだ。それでもいいの?」  激昂はしていないのに、毅然とした声で問われた。 「耐えるも何も私は……スヴェル様のお傍にいられたら、それだけで」  半分は本当で、半分は嘘。ただの綺麗事だ。  この居場所を誰にも譲りたくない。自分だけが、スヴェルのいちばん近くにいたい。美しい蝶でさえ、締め出したいくらいに。 「子犬ちゃんは熱烈だね」  組んでいた足を解いて、美しい蝶は、困ったように笑った。 「だけど、おばかさんだ」  ふたりともしばらく黙り込んだ。 「似た者同士お似合いかな……。出るも出ないも自由だけど、この鍵、渡しておくよ」  フィンは前髪をかきあげると、腰を上げた。 「力に自信があるやつほど、防犯意識がお留守だよね。入口の鉢植えの下に隠すなんて、古典的すぎる」  ハウの手のひらに塔の鍵を残して、フィンは帰っていった。

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