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第6話

 ひねくれた気持ちで、スパイス入りのねじり揚げパンをひとくち齧った。ユールが差し入れてくれたものだ。爽やかな香りと優しい甘みが口いっぱいに広がる。  鍵を見つめながら、ハウは考えた。  フィンの話をするのはあまり気が進まない。  だけど、あとでスヴェルが鍵に気づいたら、フィンが鍵を持ってきたのだと正直に話して返却してしまおう。  夕刻。地上に戻ったスヴェルが、塔を訪れた。  ハウはまだ、フィンの話も鍵の話も切り出せずにいる。スヴェルはどこか気だるげな調子で、何も訊いてこなかった。 「あの……ならず者が町を荒らしてる話って、どうなったんでしょう?」  ユールの家の実情を知りたくて、遠回しに世間話をするように水を向けてみる。スヴェルは眉を寄せ、険しい顔をした。 「なぜ知っている?」 「町に買い出しに行った折、小耳に挟んだので」 「……今はどこも、その話で持ちきりだ」  舌打ち混じりにスヴェルが現状を話してくれた。 「この数日で活動が本格化したらしい。上陸の目的は盗みのようだが、破壊行為のおまけ付きだ。まったく、厄介なことをしてくれる」 「早く解決してほしいですね」 「おまえはもう休め。俺は周囲の森に少し目を光らせる」  簡単に夕餉を済ませると、スヴェルは時間を惜しむように塔を出て行った。 「お気をつけて」  背中に向かって、そっと声をかけた。  こういうとき、何もできないのが悔しい。 (……スヴェル様、鍵のこと何も言わなかった)  出ていく際、扉に鍵を掛けもしなかった。来たときだって、扉が開きっぱなしだったにも関わらず。 (疲れた顔してたもんな……)  ハウの出奔騒動を許したのではなく、他に集中すべき問題があったために失念したのだろう。「力がある者ほど防犯意識に欠ける」というフィンの言葉を思い出し、なるほど一理あると頷いた。  スヴェルが戻るまで二刻半ほど待った。  待つしかできない身はもどかしい。時の流れが常より長く、ゆっくりに感じる。 「……あ」  犬耳がぴくぴくと動く。  風の揺らぎを感じて、天狼が神殿に帰還したのを察知した。  しばらく待ってみたが、塔へは戻って来ないようだった。疲れている様子だったし、もう眠ってしまったのだろうか。  ハウは神殿まで降りていくことにした。塔に軟禁されて以降、スヴェルの暮らしぶりが気になっていたのだ。  足音を忍ばせてそっと階段を降りていく。仮に見つかったところで、そのときはそのとき。噛みつかれるほど怒られることはないだろうと楽観的に構えることにした。  神殿の内部は異様に濃い闇が広がっていた。  スヴェルがいるはずなのに、灯りさえついていないのが気になる。 「──グルゥゥゥッ!」  静々と歩んでいくと、スヴェルの部屋の前から大きな唸り声が聞こえた。驚いて扉の隙間から中を覗けば、闇に浮かんだ白いかたまりが見えた。音を立てないようにして中へ入る。時折震えては上下するそれは、獣の姿で丸まったスヴェルだった。 「これは……いったい、どうされたのです」 「ウゥゥゥ、グゥゥゥ──ウオオオオオン!!」  闇を切り裂くのは咆哮。  そっと触れようと手を差し伸べれば、全身の毛がぞわりと逆立った。手負いの獣特有の圧に呑まれそうになる。  闇雲に触れるのはやめて、燭台に火を灯した。  部屋を照らして発見したのは、スヴェルの体に突き刺さった黒い矢だった。深々と白銀の毛並みを穿っている。出血量が少ないのは刺さったままだからだろう。しかしこの苦しみ様は尋常ではない。  おそらく、矢毒だ。 (解毒薬を持っているとしたら、メネラウスしか思い当たらない)  矢羽に独特の縞がある。この島にはいない鳥の羽根だ。  鏃はおそらく鉄製。よその島から持ち込まれた武器だ。  緑の島で狩りをする者は投石を使う。猪も狐もみんな、石を使って生計を立てている。鉄の武器は禁製品だ。鉄は森を傷つける可能性があるためだ。島の森は恵みをもたらす財産であり、森から得られる恵みは島民みんなのもの。森こそが島の宝なのだ。  スヴェルが、うう、と喉の奥で呻いた。汗がひどい。ハウは苦しげに魘される顔を覗き込んだ。 「スヴェル様」 「……っ、フィン」 「え?」  意識朦朧としたスヴェルが呼びかけたのは、フィンの名だった。 「そこにいるのは誰だ……フィンは不在か? メネラウスに遣いを……フィンを……急げ」  苦しみの中で一筋の光を見出すように求めた名は、ハウではない。その事実に胸の芯がひび割れそうになる。だが、小さな胸の葛藤は一瞬で消え去った。 「すぐにお連れいたします。お任せください!」  胸に手を当てて、部屋を後にした。  外へ飛び出せば、白いものが宙を舞っていた。  手のひらに掬ってみると、それは小さな氷の結晶で、すぐに溶けて消えた。空に渦巻くのは暗澹とした雲。吹きつける風は腕を刺すように冷たい。  常春の島にはありえない異常事態だ。 (……天狼の力が、衰えている)  スヴェルは島の太陽だ。彼がこのまま目を開かなければ、島は闇に閉ざされ植物は枯れ果てて、みな死に絶えてしまう。  フィンの元へ急いだ。  闇がどれほど深くても、森のことならよく知っている。蟻しか通れぬような、獣道ならぬ虫の道まで見て知っている。  今できるのは、スヴェルのために助けを呼びに行くこと。それだけを考えろ。必ずメネラウスの館まで辿り着け。そう自分を叱咤しながら、漆黒の森に突進した。  ハウの髪と目は、夜に容易に溶け込める毛色だ。自分の地味な容姿に今ほど感謝したことはない。  走りながら胸を押さえた。  不規則に高鳴るこの心臓。もっと早くに死んでいたっておかしくない、長寿の望めない体だ。不出来な心臓を押し包むこの体にも何らかの使命があるのだとしたら、それは──。 (私は、スヴェル様のために走る。あのお方のために、この心臓を燃やすんだ)  それこそ、自分が生まれた理由。ここにいる意味。  弱い自分を脱ぎ捨てるように、ハウは森を突き進んだ。  まもなく森を抜けようというところで、つま先が硬いものを踏んだ。こんなときにまた落とし穴か? しかしハウを襲ったのは落下の衝撃ではなかった。足元で何かが跳ねる。 「────ぐぁっ!」  鋭い痛みが足首に走った。立っていられず、どうと地面に倒れ込んだ。  熱いぬめりが足を流れる。呻きながら恐る恐る左足を引き寄せて、罠にかかったのだと悟った。  鉄の罠、トラバサミが、ハウの左足首をガチガチと食い締めていた。  挟まれた箇所には尖った歯が刺さり、灼かれるように痛んだ。激痛で頭が働かない。暴れれば暴れるほど鋭い歯が食い込んで、左足首の肉が削げていく。  血の匂いに誘われて、木々の上から梟が爛々とした目を光らせている。  手で隙間を作ろうにも鉄の部品は頑強で、体力だけが消耗していった。寒空の下、ハウの息だけが白い。手はかじかみ、体温も奪われる一方だ。 (こんな、ところで……)  焦りで奥歯を噛み締める。手負いのスヴェルをひとり残したまま、何のお役にも立てていない。  心臓が激しい鼓動を刻みはじめた。脈動するたび、胸に重い痛みが走る。  時間の猶予はない。  手足を地面に着いて、喉の奥で低く唸った。口が裂け、体が縮んで、走獣姿に変化する。足に食い込んでいた罠が緩んだ瞬間、黒い球になって鉄の輪から飛び出した。  それからはひたすらに走った。  走って走って、四肢がばらばらになりそうだった。肺も腹も痛い。体の内側から壊れそうだ。  胸の真ん中が熱くて苦しい。火の玉になって燃えているみたいだ。燃え尽きる前に、辿り着かねばならない。  スヴェルを助けるには全身全霊で走ること。息を吸って、霞みそうになる視界に目を細める。  ハウは闇に溶け、見えない流星になって島を駆けた。  森を出て東にひた走ると、小高い丘が現れた。  ゆらゆらと燈が揺れている。門扉をよじ登り、温室と薬草園をふらつきながら通り過ぎた。時折、凍えるような風が吹きつけて体の熱を奪っていく。  体が石のように重くなり、足がもつれた。誰かが駆けつける気配がした。 「……メネラウスの、フィン様にお取次を」 「子犬ちゃん!」  胸に倒れ込んだハウに、フィンは言葉を失った。 「スヴェル様を、助けて……」  掠れた声で、矢傷を受けていること、毒が塗ってあったようで譫妄が出ていること、どうにか最低限の症状を伝えた。  胸がきりきりと痛んで、肺が軋みをあげる。耐えきれず、その場で血を吐いた。 「君、なんて無茶を!」 「はやく……スヴェルさまのところへ」 「わかった。わかったから、まずは君の治療だ。天狼はすぐにはくたばらない」  その言い様に目を剥くが、喉に苦いかたまりがつかえていて、何も言い返せない。 「きちんと休む。今はそれが君の使命だと思いなさい」  こんなことをしている暇はないのだと目線で訴えるも、フィンは取り合わず、ハウを暖かい寝台に横たわらせた。 「……薬湯を飲むのは無理だな。悪いけど、少しチクっとするよ」  指先から細い管を伸ばしてハウの腕に突き刺した。こぽこぽと音をたて、腕から体の中に温かいものが流れ込んでくる。 「安心して。すぐ終わるから。これは点滴といって、飲み薬より早く効くんだ。君に何かあったら、僕はスヴェルに合わせる顔がない」  優しいひとだ。だけど、そんなことを言わないでほしい。スヴェルが求めているのはフィンだった。ハウでは無理なのだ。これ以上惨めな気持ちを味わわせないでほしい。  意識を失いかけているハウの額を宥めるように拭い、てきぱきと処置を終えると、フィンは仲間に指示を出した。防水外套を羽織った後ろ姿に、ハウは小さく声をかける。 「護衛を連れて、警戒を……森に罠があります」 「うん、ありがとう。行ってくるよ」  大丈夫だからねと安心させるようにフィンが微笑む。 「早く回復させないと僕らのガーデンも台無しだ。そしたらメネラウスの者たちは死に絶えてしまう。力を尽くすよ」  華奢な体躯に見合わぬほど逞しく見える背中を見送って、ハウはことりと意識を失った。

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