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第7話(R-18)
夢を見ていた。
懐かしい匂いがする。昔の夢だ。
ハウは寝台にいた。体中にうっすら汗をかいているが、寒くて寒くてたまらない。近くには翁が控えていて、熱い額に冷たい手拭いを当てている。
『子犬の具合は?』
『熱が……いっこうに下がらないのです』
部屋にスヴェルがやってきて、ハウの容体を訊ねた。
実はこれは珍しい風景ではない。
神殿にもらわれてきたばかりのハウは、しばしば高い熱を出しては寝込んだ。幼獣のとき、十分な量の母乳を吸えず、大人になるための力が育たなかったのだと聞かされた。
『無理に仕事をさせたのではないか?』
『……そうかもしれませんな。この子は、何も言いませんから』
『こいつなりの気遣いだろう。まあいい。今夜は俺が寝ずの番を代わる』
『いけません。スヴェル様は明日もお勤めがある身。ハウのことはお任せください』
『俺にも少し譲れ。傍についていてやりたいんだ。一晩寝なくても俺は倒れん』
強く言われて、翁はしばらく黙った。
『……スヴェル様。あたしは近頃、膝がいけなくなってきました。まもなく引退です。この子をどうか、よろしくお願いします』
『手放したりなどしないさ。この子は俺の──』
スヴェルがとても優しい顔をして、ハウの髪を長い指で静かに梳いた。
どう考えたって、やっぱり夢だ。
そう思いながら重い瞼を持ち上げると、広くて明るい部屋に横たわっていた。寝台のまわりを薄いレースのカーテンが覆っている。
鼻先に香る瑞々しい野花の匂い。耳を澄ませば、聞き覚えのある話し声が入ってくる。
「だから、なぜ連れて帰れないのかと聞いている!」
「神殿だと子犬ちゃんがゆっくり休めないでしょ?」
「だったら必要なものを寄越せ!」
「ねえちょっと、声が大きい。これだから狼は……!」
壁一枚を隔てたところで、スヴェルとフィンが言い合いをしている。体を起こそうとして、なんだか力が入らないことに気づいた。自分の体が自分のものではないみたいだ。うう、と唸りながら身じろぎをすると、声は途絶えた。
がちゃりと扉が開けられて、我先にとフィンが飛び込んできた。後ろからスヴェルも続いて現れるが、フィンが扉を閉めたせいで入ってこられなかった。
「あ、あの、私……」
「まだ無理しないで」
ひどく優しい声で、起こそうとした体を押し留められた。
「君が急いで知らせてくれたおかげで、みんなが助かった。スヴェルも助かった。君は自分を誇っていいんだよ」
ハウが眠っている間に、すべては終わっていた。
「天狼様がお迎えに来てる」
そこでようやく扉が開かれた。
迷子のような顔のスヴェルがぽつんと突っ立っていた。何か言ったら、と背中を押されて、ハウの元までしおしおと近づく。寝台にかがみ込み、ハウの手首を握った。
「……また俺から逃げようとしたのか」
「こら、凶悪な顔をするな。子犬ちゃんが泣いちゃうだろ」
フィンがぷんぷんと怒る。
まるまる一週間、ハウはメネラウスの屋敷で寝込んでいたそうだ。なかなか意識が戻らず、スヴェルも顔面蒼白のまま、通い詰めていたらしい。
「目が覚めたのなら心配はないはずだな? 子犬、神殿に帰るぞ」
「……い、いやです」
掠れた声で首を振れば、スヴェルが硬直した。狼耳がしゅんと萎れる。フィンが面白そうな顔をして首を傾げた。
「どうして帰るのが嫌なんだい?」
「わ……私では、ダメだから……」
「それ、どういう意味?」
「毒で魘されていたスヴェル様は……一心にフィン様を呼んでいました。私のこともわからなくなっていて……何もできなかった」
思い出したくない光景だった。スヴェルの中からハウの存在だけがかき消えたような気がした。
「俺が求めたのはフィンではなくて、フィンの薬蜜だ。あいつに対して恋だの愛だの甘いものは感じない」
「でも……私を近くに置いたのも、フィン様と離れ離れになったお心を慰めるためだったのでは?」
「そんなわけないでしょ。スヴェル、この子にちゃんと話しなよ。おいこら、好かれて当然って顔をするんじゃない!」
フィンが喚いている内容が、ハウには何のことやら判然としない。
「子犬、おまえが何を感じてどう考えたのか。ちゃんと話せ」
「私……おふたりの手紙を見たんです。消印が三月前の」
もちろん中身を読んだりはしていない旨を、必死で言い添えた。
「手紙がどうした?」
「おふたりは、その、良い仲なのだなって……」
「えーと、待って待って、子犬ちゃん。僕たち本当に付き合ってないよ。一度も寝てないし」
「おい。下世話な言い方はやめろ」
「ホントのことじゃん。こういうことは、はっきりさせておかないと。ていうか、君が責任持って説明しなさいよ」
スヴェルがそれもそうだなといって、がしがし頭を掻いた。
「……俺とフィンは長い間、連絡を取り合っていた。メネラウスは風に乗って島を移動しながら暮らす種族だ。俺よりも『外』に詳しいし、薬学への知見も深い」
島の外海には、大小さまざまな島が点在している。それぞれの島ごとに気候や民族も異なり、暮らしも違えば信仰する神々も違う。そういった異文化に興味を持ち、観察と研究を続けてきたのがメネラウスだ。蜜の収集から始まった彼らの生業は、やがて薬学として大成した。
「そこで、おまえの心臓に効く薬蜜を探してくれと打診した。メネラウスならば期待できると思ってな。家にあったのは手紙というか、調査報告の束だ」
「ちなみに、新しい薬蜜の精製には十年かかったよ。この狼、すっごく蝶使いが荒いんだ」
「フィン!」
「十年? そんなに前から……」
「君の心臓を治すためにスヴェルは、淫乱で気まぐれな蝶とお友達になってくれたってわけ」
「……そういうことだ。前任の翁からは『翅持つ輩を信じるな』と常に苦言を呈されたが」
「私もそう言われてました。メネラウスは危険な一族だから神殿に入れないようにと」
「えっ、なにそれ、ひどくない!? 僕って今回のいちばんの功労者なんですけど!?」
子犬ちゃん褒めておくれよ〜、とやんわり手を握られた瞬間、間髪入れずにスヴェルがその手を叩き落とした。蝶というより蠅の扱いだ。フィンの細っこい手が折れないか心配になる。
「あのさ……この際だし、他にも我慢してることがあったら言っちゃえば?」
スヴェルに叩かれた手をさすりながら、フィンが促した。
我慢してることなど別に、と思ったが、ふたりを見ていたら、あれこれと思い悩んでいたことが脳裏をよぎった。
「……私はずっと、スヴェル様に認めてほしかった」
弱くて非力で、他者に誇れるものなど何もない。こんな自分でも傍に置く価値があると、他でもないスヴェルに認めてもらいたかった。
「もう、子犬じゃありません……『哀れな子犬』じゃなくて、『ハウ』って呼んでほしい!」
泣きたくなかったけれど、言葉にしたら胸から迫り上がる感情が肥大して、盛大にしゃくりあげた。だけど視線はスヴェルから離さない。自分の心を隠して黙り続けるのは、終わりにしたかった。
「私……スヴェル様が、好きなんです……」
尻すぼみになりそうな声だったが、一世一代の大告白だ。
やや呆れ顔になったスヴェルは、両手でハウの手を包み込んだ。
「おまえのことは、とっくに認めているし、好いている」
「好い……えっ?」
「好きだよ、ハウ。いや、好きでは足りないか。おまえを離したくない……愛してる」
握られた手のひらから自分のものではない体温が伝わってくる。
「ハウ」
もう一度、名を呼ばれた。
「ハウ。俺の可愛いハウ」
スヴェルが頬に手を添えた。大事な宝物に触れるみたいに優しく撫でる。鼻の奥がつんと痛んで、また涙が出てきた。
「何か言いたげだな?」
「あ、愛してるって、そんな……私はフィン様みたいに容姿がよくないです。大人なのにちんちくりんのままだし、そばかすだってあるし……フィン様みたいな美人といる方がドキドキするんじゃないですか?」
ぽろぽろと幼な子に戻ったように泣き言を零した。だが、スヴェルは鼻を鳴らして一蹴する。
「俺は俺の好きなやつと一生を共にする。嫌いなものをわざわざ傍には置かない」
ハウは、ふえ、と間の抜けた声を漏らした。
「これでもう、何も問題はないな?」
「えっと……」
「他に言い訳は?」
「な、ないと、思います」
スヴェルは狩りでもしそうな目つきで、ハウの様子を窺っている。
「神殿はいつも、おまえの匂いでいっぱいだった。今は匂いが薄くなってさみしい」
甘えるように顔を近づけたかと思えば、首に鼻先を擦り寄せた。
「帰るぞ、ハウ」
わしわしと頭を撫でられては、もう嫌だとは言えなかった。というより、判断力が戻ってこなかったのだ。
「やだぁ、僕、蜂蜜吐きそう。おふたりさん、イチャイチャは帰ってからだよ〜。おととい来やがれですよー」
フィンが拗ねたように言って、調合した薬を瓶に詰めてくれた。
「ハウちゃん、これ持っていきな。分量は毎日ワンスプーンずつだよ」
心臓に効く蜜薬だという。
スヴェルにもたれかかりながら、おずおずと礼を言った。窮地を助けられただけでなく、持病に効く薬まで開発してもらったのだ。ちょっとやそっとのお礼では到底足りないだろう。これからどう返していけばいいのかと狼狽していれば、気にすることないよと微笑まれた。
「スヴェルと仲良くね!」
世話焼きな蝶は、とびきりチャーミングなウインクを寄越した。
ハウはスヴェルに抱えられて、無事神殿に帰還した。
まだ傷が痛むので、自室の寝台に足を伸ばして座っている。左足首の傷は深くて、すぐには治らない。分厚い包帯が巻かれた足首を、スヴェルはじっと見つめている。時々、やるせなさそうな表情を浮かべて。
「大丈夫ですよ。見た目ほど酷いものではありません」
気に病まないでほしいと思って明るく言うと、光る粒がはらはらとスヴェルの瞳から零れた。
スヴェルが泣いている。
あのスヴェルが。尊大な顔をしていつも鼻でフンと笑うスヴェルが。強くて大きくて怖いものなど何もないはずのスヴェルが……泣いているのだ。
天狼の頬をつたう涙に、ハウは何事かと驚いた。
「スヴェル様? お体が痛むのですか?」
常ならば凛と屹立しているはずの狼耳は見る影もなく、へなへなに萎れている。がくりと頭を垂れる姿はまるで飼い主に叱られた大型犬だ。
「……痛かっただろうに」
スヴェルがぽつりと言って、ハウの足を手で包み込んだ。壊れそうな宝物を必死で守っているようなその姿に、胸の奥が締めつけられた。
(スヴェル様……まさか、私のために泣いてるの?)
それはいくらなんでも思い上がりが過ぎるかと、おろおろしていると、スヴェルは声を詰まらせながら言葉を継いだ。
「おまえが傷つくのは悲しい。献身は嬉しいが、痛い思いはしてほしくない。俺の腕の中で笑っていてほしい」
「痛くなかったと言えば嘘になりますが……」
ハウは言葉を探して、視線をさまよわせた。
「走ることに集中していたので、痛みを感じる暇がなかったと思います。それだけ余裕がなかったということでもありますけど、スヴェル様のことを考えるだけで、力が湧いて出ました」
ごまかすように笑って手を差し伸べ、スヴェルの頬の雫を拭った。指に掬い取った涙を、ぺろりと舐める。
(……しょっぱくて、苦い)
ハウの涙と変わらない。誰かを想って流す涙は、きっと同じ味がするのだ。
「おまえは昔から変わらないな。島を出たいかと訊ねたときもそうだった……覚えていないか?」
いつの話だろうかと首を捻れば、スヴェルが僅かに口の端を持ち上げた。困ったものだと言いたげに苦笑する。
「八つくらいのおまえに、俺は訊いたんだ。『もし、その背に翅があったら?』と」
スヴェルは切なげに目元を歪めた。
翅があれば自由に飛べる。『外』の世界には、おまえにとってもっと住みやすい国があるかもしれない。その背中に翅があったとしたら、おまえも外へ飛んでいきたいか? とスヴェルは訊ねたらしい。
ハウは曇りのない顔で、はきはきと答えたそうだ。
『いいえ、スヴェルさまとずっといっしょにいます。ハウはスヴェルさまが大好きだから』
そのとき、気づいた。手元に置いた子犬が、かけがえのない宝だということに。ハウの存在は、孤独に倦み疲れたスヴェルにとって何よりの救いとなっていた。
「俺は、おまえに選ばせてやりたかったんだ。成長したら好きな道を進ませてやろうと……だが、もう離せない」
ぎしりとベッドが軋む。スヴェルが膝を乗せ、身を乗り出した。手が伸びてきて、ハウの頬が包まれた。
「スヴェル様」
「ハウ、おまえは俺の小さな星。俺が帰る場所だ」
頬に熱が昇って、瞳まで潤んできた。
スヴェルの顔が近づいて、互いの鼻先がぶつかる。たまらなくなって目を瞑ると、唇をそっと柔らかなものが掠めた。それがスヴェルの唇だと理解するより先に、今度は唇の間をぬるりと舌が這う。
「んんっ……」
思わず身を引きかけたら、腰に回った手が体の動きを封じる。驚いて口を開けたら、分厚い舌が薄い隙間を割って侵入した。すでに涙目のハウは、せめてもの抵抗でスヴェルの胸を押し返すが、猛攻は止まらない。むしろ煽られたように何度も口づけをして、ハウの唇を甘噛みし、舌は縦横無尽に口内をいたずらして回った。
這々の体で顔を離してもらうと、胸が太鼓のようにうるさく高鳴っていた。せっかく処方されたメネラウスの薬蜜の効果も、秒で消え失せそうだ。
ハウは潤んだ瞳で、きっとスヴェルを睨んだ。
「心臓に悪い、です!」
「それは大変だ」
「ひゃ!?」
スヴェルは心音の調子を確かめるように、ハウの左胸に手のひらを当てた。しばらく探ったのち、差し迫った異変はないと判断したのか、甘ったるく耳元で囁いた。
「今夜は付きっきりで看病してやろう」
薄い唇が緩やかな円弧を描いて近づいてくる。天狼様は、それはそれはあくどい笑みを浮かべた。
寝台の上に座ったまま、抱き枕のように後ろから抱きしめられる。自分よりも大きくて無骨な手のひらが腹に回り、体を支えた。
ハウの髪に頬擦りすると、丸く萎れた犬耳をかぷりと甘噛みした。硬く尖った感触で首を噛まれたときの記憶が蘇り、背筋をぞわぞわした興奮が駆け抜ける。ハウの腰をしっかり押さえ込んだスヴェルは、歯の先端を櫛のように使って耳周りの毛並みを扱いた。
「あ、あの……毛づくろいはやめてください」
子どもではないのだと身を固くして不服を表明する。ささやかな抵抗で頭へ伸ばした手は、途中で優しく握りしめられた。
「毛づくろいなどしていない」
「……へ?」
「恋人同士でも、こういうことはする」
「そうなんですか!?」
驚いて問い返せば、呆れたものを見る目で見下ろされた。
「これは求愛だ」
「きゅうあい」
ぽかんとしていたら下穿きをずるずると脱がされて、細い腿と小さな尻が晒された。
「ぴぇっ? な、何を……」
「疲れてるだろう? 揉んでやる」
ふくらはぎから足の付け根に向かって、スヴェルの手が丁寧に肌をたどった。萎えかけた足の筋がほぐされていく。だが、あまりにも執拗に揉まれると体の芯が火照って、ひどく喉が渇いた。
ごくりと唾を呑む音が届いたのか、スヴェルの狼耳がぴくりと揺れる。
「暑そうだな」
「いえ、そんな、あ……」
最後の砦だったシャツに手をかけられ、あっけなく脱がされる。上着でギリギリ隠れていた場所が露わになった。
下腹部にスヴェルの視線が注がれる。
「触っていいか?」
「あの、そこは……やっ」
声が羞恥を帯びた。ハウの雄の器官は日頃めったに反応を見せないのに、今はしっとり濡れた頭をもたげて脈動を繰り返していた。
「こういう熱は、吐き出した方が体にいい。力を抜いていろ」
「あぁっ……」
返事も待たず、やんわりと握られた。ひときわ敏感なところをひとの手で愛撫されて、熱が高まっていく。
腹の上を撫でていた手が胸まで伸びて先端の尖りを抓んだ。指先でいじられるとほのかに甘い痺れが走り、勝手に腰が揺れた。
「はっ……あぁん……っ!」
弓なりに背がしなる。ハウは痩せた腹を震わせて、スヴェルの手の中で果てた。体はくたりとして重いが、頭だけは霧が晴れたようにすっきりとしていた。
尻には硬いものが当たっている。それが何かは訊かなくてもわかる。肌と肌で得られる悦びを知った今、ハウも何かしてあげたかった。
(スヴェル様も、苦しそう……)
体をずらし、労わるように大きな昂りに触れると、スヴェルが愛おしげに目を細めた。潤んだ眼差しを浴びると何でも言うことを聞いてあげたくなる。
「……少し、いいか?」
切なげに求められて頷いた。
二本のスプーンが隙間なく重なるように、スヴェルは横向きに寝かせたハウにぴたりと寄り添った。膝裏に手を入れ、片足を持ち上げる。内腿に先ほどハウが吐き出した精を塗って、自身の屹立をその隙間に挿し入れた。
熱くて硬いものが閉じた足の間を行き来する。揺さぶられているとハウの慎ましげな性器も刺激され、ふたたび疼き出した。
「ハウ、……ハウ」
熱に浮かされたような声は甘く優しい。しかも口にした言葉が自分の名だから嬉しさも倍だ。どくんと弾けた欲はハウの股を白く濡らした。
腕の中から抜け出してスヴェルの顔を覗き込み、ちょこんと唇を重ねる。と、威嚇するような低い唸り声がした。
「……スヴェル様?」
「俺を煽るとどうなるか、覚えていろよ」
「お手柔らかに」
拗ねたように睨むスヴェルに、はにかんで、えへへと笑う。
長いような短い夜。ふたりは溶け合うように眠った。
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