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天才作曲家の死①
『作曲家の如月奏さんが亡くなりました。43歳でした』
普段ならば、付けっ放しにしているテレビの音声なんて耳に入って来ない。
箱の中から聞こえてくる言葉に身体が反応したのは、
アナウンサーが話す後ろで流れている音楽が、自分のよく知る旋律だったからだ。
『如月さんは中学生時代に発表した楽曲で一躍脚光を浴び、その後は映画やドラマなど様々な作品に楽曲提供するようになりました。
天才作曲家として如月さんは高い知名度を誇り、国際的にも活躍——』
そんなことはどうだっていい。
そんなのは彼のファンならば誰だって知っている。
どうして如月奏は亡くなってしまったんだ?
享年43歳。
死ぬにはまだ早過ぎる年齢じゃないか。
これから先の30年、40年、あるいはもっと先の未来で——
彼が生み出すはずだった音楽を聞くことは、もうできなくなるのか?
テレビ画面に、如月奏の生前の写真が映し出される。
顔立ちは人形のように整っているけれど、どれも無機質で無愛想な表情をしている。
如月奏という人物は、メディアに自身については一切語らないことで知られている。
私生活はもちろんのこと、どんな思いでその音楽を作ったのか、どんな風に作曲をしているのかといった話もしない。
だけど、彼の作った音楽を知らない人はいない。
著名な作曲家の早過ぎる死は、それから暫くの間、連日メディアに取り沙汰されることとなった。
——数ヶ月が経ち、テレビでの報道が落ち着いて来た頃。
皐月響は、未だに如月奏の死を受け止めきれないまま暮らしていた。
如月奏がどんな人間だったのか、俺はよく知らない。
会ったことも話したこともない。
だけど俺にとって如月奏は特別な存在。
彼の音楽が、俺の人生を作ったといっても過言ではないからだ。
——皐月響、23歳。
彼はピアノ教室を開いていた母親の影響で、幼い頃からピアノに触れる生活を送ってきた。
小学生の頃、周囲でピアノをやっている男子は響だけだった。
クラスメイト達が放課後集まってサッカーをしたり、野球クラブで汗を流したりといった時間を過ごす中
響はまっすぐ家に帰り、ピアノを練習する日々を送った。
本当は自分も他の男子と同じように
何でもいいからスポーツクラブに入って、思いっきり汗を流して、仲間と笑い合いたいと望んでいた。
ピアノの前では、いつも一人。
自分とピアノ。自分と楽譜。
譜面と見つめ合い、譜面の指示の通りにピアノを弾く。
面白くなかった。
譜面に書いてある旋律を、書いてある通り弾いていくことに
何の楽しさも見出せなかった。
そんな響の価値観を180度変えるきっかけとなったのが、如月奏という存在だった。
母親のピアノ教室では年に一度、ピアノの発表会を開いていた。
その発表会で演奏する楽曲は、生徒たちの力量に合わせて母親が決める。
響もまたこの発表会に参加しており、楽曲は母親が選んでくれていた。
そして小学校6年生の時、響に与えられた発表会用の楽曲が
如月奏作曲『2月のセレナーデ』だった。
同名の映画のために作られた楽曲で、
映画自体は観たことのない響だったが、
『2月のセレナーデ』という名前だけは耳にしたことがあり、有名な作品だという認識は持っていた。
この『2月のセレナーデ』は映画業界では絶賛される一方で、観る人の好き嫌いが大きく分かれる内容らしい。
しかしテーマ曲が「人の心を揺さぶる名曲」として一躍有名になったことで
映画を観ておらずとも『2月のセレナーデ』という音楽は聴いたことのある国民が多くいるという奇妙な現象が起きていた。
響も、響の母から「映画の内容は子どもが理解するには難しすぎる」と言われ、映画を観せてはもらわなかったものの
楽曲のCDを買い与えてもらったため、楽譜を読み込む前にそれを一度流してみたところ、
聴き終わる頃には大粒の涙を溢していた。
音楽を聴いて泣く。
こんな経験は初めてだった。
心をぎゅっと掴み、激しく揺さぶり、強く訴えかけてくるような旋律。
こんな音楽に出会ったのは生まれて初めてのことだった。
『2月のセレナーデ』を聴き終えた時、響の心に
『弾きたい。この音楽を奏でたい』
——そんな強い思いが芽生えていた。
たくさん練習して臨んだ『2月のセレナーデ』を発表会で見事に弾き切った響は母親から絶賛され、そして母親が発表会に招いていた音楽関係者たちからも称賛された。
『響にはピアニストとしての才能がある』
周囲がそう口を揃えて言い、響もまた、自分には特別な才能があることを自覚した。
才能というのは演奏の技術ではなく、楽曲に対してのめり込み、寄り添い、共感できる能力に長けているということだった。
『2月のセレナーデ』で音楽の素晴らしさを知った響は、そこから能力を開花させていった。
この楽曲はどんな風に弾いて、どう魅せれば
聴いている人の心に届くのか。
作曲した人の意図を汲み取り、聴く人の心に刺さるであろうツボを分析し、
その音楽の魅力を最大限に引き出した演奏を自分の指先で再現することができる。
『皐月響が弾くと、その音楽の良さがより伝わってくる』
響のピアノはそう揶揄され、中学では様々なコンクールの賞を総なめにした。
音楽科のある高校に進学し、日本有数の音大に進んだ響は、大学を卒業した暁にはプロのピアニストとして活躍する未来を確信していた。
響はどんな楽曲でも難なく演奏できる技術を持っていたが、中でも特に如月奏が作曲した音楽を演奏することに定評があった。
小学6年生で『2月のセレナーデ』に出会って以来、作曲家としての如月奏に関心を持った響は彼の作った音楽を片っ端から聴き、演奏した。
そのどれもが響の心に刺さるものばかりで、
彼の音楽はまるで自分の代弁者でもあるかのように錯覚していた。
そんな響に転機が訪れたのは、大学1年生の冬だった。
寒波の来ていたある夜、走らせていた自転車が凍った路面で転倒し、右手の指を骨折してしまったのだ。
バイトの帰り道だった。
一人暮らしをしているアパートに徒歩で帰るには遠く、バスも通っていない時間帯。
タクシーを使うようなお金の余裕はない。
だからその日も自転車に乗っていた。
危機管理能力が無かった。自己責任。自業自得。
誰に言われずとも、悪いのは自分自身に違いないことは理解していた。
主旋律を奏でるために必須の、右手の親指、人差し指、中指を骨折した響は
治っても元のように自由に指を動かせるようになるのは不可能だと医師に告げられ——
「プロのピアニストになる」という夢は絶たれた。
だが響はめげなかった。
自分は人の心を掴む演奏をすることができる。
だから人の心を掴む音楽を生み出すことも出来るはずだ。
そう希望を見出した響は、ピアノ科から作曲科に転籍し、作曲の技法を学んだ。
しかし響の作った音楽は、人の心を掴むことが出来なかった。
音楽を組み立てていると、どうしても進行形態やアレンジに如月奏の片鱗が入ってしまう。
演奏して誰かに聴かせると、
『如月奏っぽい音楽だね』
という感想が返ってくるのが何よりの証拠だった。
思い切って、如月奏が作らないようなテイストの音楽を作っていた時期もあったが、
それらはあからさまに周囲の不評を買った。
如月奏に寄せた音楽は評価されるが、如月奏を超えることはできない。
如月奏を意図して遠ざけた音楽は評価すらしてもらえない。
響は初めて、自分には作曲の才能は無かったのか——と気付いた。
ピアノが弾けず、作曲家としての活路も見出せないとなった響は
大学3年生の時、プレイヤーやクリエイターとして音楽と生きることを完全に諦めたのだった。
そこから響は必死で就職活動をし、都内のとある音響機器メーカーから内定をもらった。
母親からは、地元に戻って来てピアノ教室を継がないかと言われたが
響は地元に戻るつもりはなかったため、そのまま上京して音響機器メーカーに入社した。
ピアノ教室の先生になっても自分が満足に演奏できない以上
子ども達の手本になれるとは思えなかったからだ。
そして会社員として、東京で働き始めて一年が過ぎた頃——
テレビから流れて来た『2月のセレナーデ』に身体が反応し、
次いでアナウンサーの読み上げる『如月奏逝去』の言葉に全身を震わせたのだった。
ピアニストとして、作曲家としての夢を諦めた後も、音響機器メーカーの社員として音と関わる仕事をしていた響は、音楽への情熱を完全に捨てた訳では無かった。
自分で演奏出来なくなった後も、気になる音楽があればすぐにチェックしていたし、
クラシックコンサート、ジャズ喫茶、ライブハウスなどの音楽と触れ合う場所にもよく足を運んだ。
けれどもどんなに沢山の音楽に出会っても、如月奏を超える作曲家を響は知らなかった。
自分にとって、自分の才能を開花させてくれた『2月のセレナーデ』は特別な音楽なのだ。
その一曲に留まらず、如月奏の作るすべてが響にとって心地良く病みつきになる音楽ばかりで、如月奏は響にとって音楽の神様とも言える存在だった。
その神様の死。
神は死んだ——
ニーチェの言葉が、ふと頭をよぎった。
如月奏には家族がいない。
両親についての情報は公表されていないが、どちらも既に他界しているという噂だった。
兄弟も、配偶者もいなかった。
これは如月奏自身がメディアに明かしている事実である。
だが、楽曲制作によって得た莫大な資産があったため、
都内にある大きな邸宅でお金に不自由なく暮らしていたことは、いつかの音楽雑誌で取り上げられていたことがあり響も知っている。
そして遠い親族が、主を失ったこの邸宅を競売にかけているらしいことを、ここ最近テレビで紹介していた。
社会人1年目の響には、防音室付き、庭付きで四方を囲む塀まで付いたこの豪邸を競り落とす金など当然ないため、自分には無縁なニュースだとスルーしかけた。
だが、ふとテレビ画面に映った邸宅を見て
響は「ん?」と動きを止めた。
ここ……知っている場所かもしれない。
響の勤め先では、自社の音響機器を購入したユーザーへのアフターケアの一環で
ユーザーの自宅へ出向き、使い方で分からないことはないか、故障していないかなどを伺サービスをしている。
新入社員は研修の一環で、この御宅訪問業務を全員が経験する。
各部署に配属された後も、ユーザーの目線に立って業務にあたれるようにという会社の理念によるものだった。
その研修時に、響が回った邸宅の一つがここだったのだ。
閑静な高級住宅街の中で、他の家々とは少し離れた場所にぽつんと建てられており
室内には一際目を引く白いグランドピアノが置かれていたことから、嫌でも記憶に残る豪邸であった。
まさかあの家が如月奏の住居だったとは!
確か俺が訪問した時は、屋敷の主人が仕事で不在だとかで、執事だという初老の男性が応対したんだっけ。
響は半年ほど前の記憶を思い出していた。
そうか。あそこで如月奏が暮らしていたんだな。
そしてその家が競売にかけられてて、いつかは見知らぬ成金のものになってしまうんだな……。
……。
……なんか、嫌な気持ちになる。
如月奏の死を未だに乗り越えられていなかった響は、
彼の邸宅が誰かに競り落とされ、白いグランドピアノが撤去されて
がらんとしていたリビングに成金趣味のインテリアが敷き詰められるのを想像し、思わず眉間に皺が寄ってしまった。
そして、そんな変わり果てた邸宅になってしまう前にもう一度、如月奏の生活していた形跡を目に焼き付けておきたい——そんな欲が湧いてきた。
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