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天才作曲家の死②
早速思い立った響は、次の休みに邸宅のある住宅街へと向かった。
電車を乗り継ぎ、駅から暫くの距離を歩いて行くと、研修時代にも見た懐かしい景色が見えて来た。
すると邸宅を囲む高い塀の前に、スーツを着て立っている男の姿を見つけた。
「ああ、御予約のお客様ですか?」
「御予約?」
響がきょとんとすると、スーツの男はすぐに人違いに気付いたらしく謝って来た。
「失礼しました!
てっきり、本日内見の予約をされているお客様が到着されたのだと思ってしまいました」
「内見——あ、競売の……」
「ええ。テレビの紹介を見た方々が、ぜひこのお屋敷を見てみたいと、我が不動産に連絡をくださいまして。
昨日も二組、内見のお客様がいらっしゃいましたよ」
「そうなんですね」
そうかぁ。
こんな豪邸を買い取れる財力のある人間が世の中に居るんだな。
響がそう思っていると、スーツの男がじっとこちらを見つめて来た。
顔や服装から、響が若く、まだそれほど金を持っていない——つまり内見の客ではないことは判別できたようだが、
ならばなぜここで立ち止まっているのだろう?と知りたげな様子であった。
「何か、ここに御用が?」
「……ええと。俺、この家の主人——如月奏のファンなんです」
「なるほどなるほど……!著名な御方ですものねえ。
あなたのような若いファンもいらしたとは、さすが世界にも名の通じた作曲家ですよね!」
「はい。俺の人生を変えてくれた、俺にとっては神様のような人だったので——
誰か知らない人の持ち物になる前に、如月奏が暮らしていた跡を見納めしたいなと思って来てみたんですが……。
よく考えたら、競り落とす意思も金もない人間が彷徨いてたって、迷惑なだけですよね。
すみませんでした」
響が小さく会釈をしてその場を去ろうとした時、スーツの男のスマホが鳴った。
「はい!お電話ありがとうございます——あ、これはこれは。
……えっ?左様でございますか……。
それでは、また後日ということで——」
スーツの男は電話を切ると、既に歩き始めていた響を慌てて引き留めた。
「お待ちください、『お客様』!」
「え?」
響が不思議そうに振り返ると、スーツの男がこう話しかけて来た。
「これから内見予定だった方から、キャンセルの連絡が来まして。
午後の内見の枠がちょうど空いたので、良ければ中を見て行かれませんか——お客様?」
スーツの男の言葉に、響は目を輝かせた。
響はスーツの男に感謝し、連れ立って塀の中に足を踏み入れた。
塀の中に入ると、途端に別世界へ来たかのように辺りが静まり返った。
まだ外であるのに、防音室に通されたかのように周囲の音が消えてしまった。
不思議な感覚と、半年前にもここへ来た懐かしさを噛み締めながら邸宅に足を踏み入れると
廊下を歩いた先にあるリビングで、あの白いグランドピアノとの再会を果たした。
響は思わず言葉を失い、黙って部屋の中を眺めた。
余計な家具は一切置いていない、だだっ広いリビングの中央に鎮座する、優しい色合いのピアノ。
如月奏はこのピアノを前にして、様々な曲を生み出していたのだろうか。
響が想像を馳せていると、スーツの男は気を遣ったのか、
明日の客が来る前に、各部屋の埃を落とすなど軽く清掃をして来ると言いリビングを去って行った。
会ったばかりの若者を一人にして、あの人は平気なんだろうか?
俺が金目当ての悪い奴で、部屋の中のものをくすねたり——なんて考えたりはしないのだろうか。
……いや、その心配がないからか。
響は室内をぐるりと見渡して思い直した。
部屋の中には何も無かった。
調度品はもちろん、ソファやテーブルといった家具類も既に持ち出されていたため、何かを盗られるという可能性がそもそもないのだと響は納得した。
それにしても、アフターケアで訪問した時には唯々見惚れるばかりだったけれど、
このグランドピアノ……触ってみたいな。
響は、かつてピアニストを目指していた頃を思い出した。
グランドピアノは自宅のピアノ教室にも置いてあったが、色はベーシックな黒だった。
それも、これはただのピアノではない。
如月奏が作曲のために弾いていたピアノだ。
如月奏が弾いたピアノを、俺も弾いてみたい……
そんな更なる欲が湧いて来た響は、ゆっくりとピアノの前に近づくと、
恐る恐る鍵盤をひとつ叩いてみた。
ポーン……と、美しい音色が響き渡る。
コンサートホールでもないのに、綺麗に反響するピアノの音に響はすっかり心を奪われてしまった。
現役の頃のようにはいかないが、骨折した指でもピアノを弾けない訳ではない。
ぎこちなくはあるが、僅かに動く指を使って
響は『2月のセレナーデ』の一節を奏でてみた。
脳まで届くような深みのある音がリビングに充満する。
ああ……。
俺は今、如月奏と同じ場所で、同じ音楽を弾いているんだ!
そんな感動を噛み締める響だったが、スーツの男が戻って来たときに夢中でピアノを弾いていたのでは、さすがに厚かましいと思われるだろうと考え、それ以上弾くのは堪えた。
そうしてグランドピアノから離れようとした時、響はふと、譜面台の影に紙が置いてあるのが目に留まった。
……なんだろう?
思わず手を伸ばして取ってみると、それは譜面だった。
五線紙上に、直筆の音階が描き込まれている。
最初の何節かに目を通した時、響ははっと息を呑んだ。
如月奏の楽曲をすべて聴き込んできた響だからこそ分かった。
この曲は、まだ世に出ていないものだ。
過去に聴いてきた如月奏のどの楽曲とも合致しない、つまり未発表の音楽だと理解し、響は背中をゾクゾクと震わせた。
如月奏は、死の直前までこれを作っていて、発表する前に事切れてしまったということだろうか。
だとしたら、さぞ無念だっただろう。
これ——譜面からある程度のメロディーは読み取れるけれど、実際に演奏したら、どんな音楽になるんだろう?
……弾いてみたい。
そんなうずきが全身を駆け抜け、響はいてもたってもいられない衝動に襲われた。
スーツの男はまだ戻って来ない。
ピアノの音は聞こえていたと思うが、慌てて駆けて来ないところを鑑みるに、
響がピアノを弾くことにも目を瞑ってくれているのではないか——そんな自分に都合の良い解釈をした響は、そわそわしながらピアノの前に置かれた椅子に腰掛けた。
楽譜を譜面台に載せ、ざっと最後まで目を通す。
大丈夫、そこまで難しい曲じゃない。
俺の右手でもなんとか弾けそうだ。
如月奏が遺した最期の楽曲。
俺なんかが勝手に弾いてごめんなさい。
どうか、この曲を俺が弾くことを許してください。
俺はあなたの音楽を心からリスペクトするファンです。
大切に、大切に弾かせて頂きます。
響は心の中でそう唱え、ピアノに向かって一礼すると、指先を鍵盤に乗せた。
——繊細で美しい旋律が室内に反響する。
優しい音色に包まれると、ここが邸宅の中ではなく、どこか遠い異国の、手付かずの自然の中にいるかのような清々しさを感じた。
かと思えばどこか懐かしく、例えるなら故郷を恋しく思うような、胸に刺さる音色にも化ける。
掴みどころのない、不可思議で甘美な音の並び。
言葉に形容し難い多幸感に満たされながら、最後の小節を弾き切ったとき——
気付くと響は、23年の年月を遡っていた。
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