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ダル・セーニョ①

「誰」 背後から声が掛かり、響はびくりと身体を揺らした。 誰か来た! けれど、さっきのスーツの人の声じゃない…… 響はピアノから手を離し、心臓をドキドキ鳴らしながら声の方に振り返った。 そこには一人の青年が立っていた。 華奢で、響と同い年くらいに見えるその青年は 一目見て、それが誰であるかを理解できた。 しかし—— 「……そんな、まさか」 そんなはずがない。 目の前にいるこの人が、如月奏であるはずがない。 顔は如月奏の若い頃にそっくりだ。 綺麗な整った顔立ちで、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出している—— でも、如月奏じゃない。 だって彼は死んだんだ。 つい数ヶ月前に、43歳で。 だから如月奏が生きているわけないし、こんなに若いはずがない。 じゃあ……この人は誰だ? 青年は、怪訝そうにこちらを見つめている。 だが、響の返答を待っているのだろうか、それ以上口を開こうとしない。 じっと見て来るだけの青年に対し、響は状況を理解しようと必死で考えた挙げ句に ある一つの可能性に行き当たった。 「あなたはもしかして——如月奏の、隠し子……!?」 「は?」 短い戸惑いの声が返って来る。 ち……違うのか? でも、こんなに如月奏に似ていて若い男なんて、他にどんな可能性が考えられる? 「……如月奏の甥っ子……とか?」 「は?」 再びそう返って来る。 ええ……? じゃあ、この人はいったい……。 ——そういえば、あのスーツの人はいつになったら戻って来るんだろう。 それに、競売に掛けられているこの邸宅に 不動産屋と内見客以外の人が入って来れるのだろうか? 確かスーツの人は玄関に鍵をかけて、内見中に他の人が入って来れないようにしていたはず……。 じ、じゃあ、想像するのは怖いけれど……この人は…… 「……如月奏の幽霊!?」 思わず響が叫ぶと、青年はぴくりと身体を揺らした。 青年はゆっくりと目線を下に降ろし、自分の足元をじっと見つめた後、再び正面を向いて響を見据えた。 「……ちゃんと足があるから、幽霊じゃないよ」 「えっ?あ——それは……良かったです……?」 「それから——俺は如月奏の息子でも、甥でもない。 俺が、如月奏だから」 「う……嘘だァ」 思わず響は気の抜けた声で返した。 「如月奏な訳がない……。 だって如月奏は——」 「……」 青年は、無表情のまま腕を組んだ。 怒ってしまったのだろうか? 響が不安になっていると、青年がぽつりと口を開いた。 「俺が俺であることを証明する——難しい問題だね」 そうして口元に手を当て、何やら難しい顔で考え込んでいるのを 響はただ呆然と見守っていた。 本当に如月奏? ……そんなはずがない、よな? でも、この人がこんなに真剣に考え込んでいるのを見ると なんだか嘘をつかれている感じはしない。 響も青年も、互いに困惑したまま時が流れた。 うう……気まずい。 こういう時はどうしたらいいんだ。 あのスーツの人、早く戻って来てくれないかな…… 響が冷や汗を流すと、青年は弾かれたように顔を上げた。 ずんずんと響の方へ歩いて来たため、響が驚いて固まると、 青年は「どいて」と涼しい表情で言った。 「えっ!あ——ハイ」 青年が、自分の後ろにあるグランドピアノに座りたいのだと察したら響は 慌ててピアノから一歩距離を取った。 青年は椅子に腰掛けると、隣に立っている響を見上げて言った。 「——好きなもの、教えて」 「へ?」 「何でもいい。単語で答えて」 「っ……ええと、じゃあ……バニラアイス」 咄嗟に、今食べたいものを挙げると 青年は少しだけ考えた後、両手を鍵盤の上に置いた。 そして奏で始めたメロディに、響は目を見開いた。 今までに聞いたことのない音楽。 クラシックもそれ以外もひと通り齧った響にとって、 聴き馴染みのない旋律はかえって珍しかったため、それだけでも新鮮だったが 息を呑んだのは、その旋律から膨らんで行く世界観だった。 頭の中に、夏の風景が広がる。 うだるような暑さの中、コンビニまで自転車を走らせて 冷房のきいた店内でお気に入りのカップアイスを物色する。 また外に出て、ぎらつく太陽にうんざりしながらも カップの蓋を開けると、ふわりとバニラビーンズの芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。 木べらのスプーンですくって食べると、喉から胃へとひんやりした液体が流れ込んで行くのを身体が実感する。 夏に、家の近くでバニラアイスを買って食べる自分の姿が浮かんでくる。 それも手軽な棒付きアイスではなく、すくって食べるカップアイス。 夏の暑さも、アイスの冷たさも、バニラの甘い香りも ピアノの音色から浮かび上がって来る。 この青年は、響からもらったお題に沿って 即興でひとつの音楽を創り上げたのだ。 予め構想を練っていたものとは違う。 これは間違いなく、皐月響がバニラアイスを買って食べるという、皐月響を現した音楽だ。 それに気づいた響は、こんな芸当ができるのは——少なくとも響の思う限り——この世で一人しかいないと直感した。 「……きさらぎ、そう……さん」 気付くと、響の瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちていた。 「……」 青年はピアノの蓋を閉じると、 「信じてくれた?」 と尋ねて来た。 「はい……っ。 あなたは、間違いなく如月奏——さんです……!」 大の大人が啜り泣くなんて情けない、とも思ったが、 それよりも尊敬する作曲家と対面し、即興の生演奏を聴かせてもらえたという感動で胸がいっぱいだった。 「分かってもらえて良かった。 で、俺も訊きたいんだけど」 青年——如月奏は椅子から立ち上がり、響の顔をじろじろと覗き込んだ。 「あんたは誰なの? ここ、俺の家なんだけど」 「……っ、あー……」 何と言えばいいのやら。 この家を内見していた——いや、内見といっても競り落とすつもりはさらさらなくて—— あれ?というか、如月奏が生きてるなら家が売り出される訳ないじゃないか! だいたい、この人が如月奏だと俺は自分で認めておきながら、なんで彼が生きていて、そしてこんなに若々しい姿をしているのか未だ分かってない。 とりあえず、自分の素性だけは先に話しておくべきか。 「……俺の名前は、皐月響と言います」 「サツキキョウ」 「23歳の、音響機器メーカーに勤める会社員で——あっ、そうだ! 前にも一度、仕事でこの家にお邪魔したことがあります! 購入者へのアフターケアとして御宅訪問をさせて頂いたんです」 「音響機器メーカー?あんたの会社から、俺何か買ったっけ」 「カワハってブランドを出してるメーカーです。……ご存知ないですか?」 「……聞いたことはある……けど、そこの製品を買った覚えはない。 あんたに会った覚えもない」 「俺が訪問した時に応対されたのは執事の御老人でした。 屋敷の主人——奏さんは不在だから代わりに、と」 「俺、執事なんて雇ってないよ」 ことごとく話が噛み合わず、奏の表情から疑念の色が見え隠れしている。 響は歯痒さを覚え、今度は奏について尋ねた。 「あのっ……奏さんって、43歳ですよね? テレビで見た時も、もう少し、こう……歳を重ねた感じの姿だったというか……」 「俺ハタチだよ。あんたより歳下」 「えっ?えっ?」 「どうやったらそんなに老けて見えるの?俺のこと」 奏がむっと唇を尖らせる。 「す、すみません、今目の前にいるあなたは全然老けてないです!」 響は慌てて謝りつつ、 「ええと……俺と同い年ってことは、平成××年生まれですよね?早生まれでなければ」 と確認した。 「え?」 奏が眉をひそめる。 「平成××年って、来年の年度だけど?」 「え?いやいや、23年前ですよ! それに今はもう平成から令和に変わったじゃないですか」 「レイワって何」 「え——」 響が固まっていると、奏は腰に片手を当て、小さく息を吐いた。 「さっきから、あんたの話は要領を得ない。 ——とにかく、俺が聞きたかったのはなんであんたがここにいるのかってこと。 それから、どんな理由にせよ出てってくれない? 通報はしないから、作業の邪魔をしないで欲しい」 「……待って、ください……」 響は声を震わせると、顔を真っ青にして言った。 「この家にテレビはありますか……?」 「?あるけど。隣の部屋に」 「ちょっとテレビ点けてもいいですか!?」 響が食い入るように頼むと、奏はその勢いに押されたのか 「それで出てってくれるなら、まあいいよ」 と仕方なさそうに呟き、隣の部屋へ響を案内した。 先ほどまで居た部屋には、白いグランドピアノしか置いていなかったが、隣の部屋にはテレビのほかソファやテーブルなどの家具家電が置かれていた。 とはいえ、こちらの部屋も必要最低限しか存在しておらず、装飾の類は一切ない殺風景なものだった。 「はい」 奏にリモコンを渡された響は、そのリモコンが自分の家のものより一回り以上小さいことに気がついた。 ボタンの数が少ないからだ。 続けてテレビに目をやると、これまた小さめな画面で、こんな大豪邸には不似合いとも思えた。 何よりテレビ本体に厚みがある。 家電屋で売っている格安のテレビでも、こんなに分厚いものは目にしたことがない。 既にこの時点でいくつか違和感を覚えていたが、テレビをつけた時に違和感は確信へと変わった。 現在世間を騒がせている事件。 世界の情勢、街頭インタビューに答える人々の服装、新機種の携帯電話のコマーシャル…… まるで馴染みがないものばかりだった。 強いて言うならば、全部『古い』。 連続殺人犯の事件は、最近見たテレビで『風化させてはいけない平成の残虐事件』として報道番組で特集されていたのを目にした記憶がある。 二つ折りの携帯電話なんて、使っている人をほとんど見かけない。 少なくとも、自分と同じ世代が欲しいと思うようなデザインや機能ではなかった。 そして極めつけは、大御所として活躍しているコメンテーターや俳優と同姓同名の人たちがテレビで紹介されていたのだが、彼らは揃って容姿が『若返って』いた。 おかしい。何もかもがおかしい。 「もう一度聞いてもいいですか。 今、何年と言いましたっけ——」 「平成××年」 「平……成……」 響は膝から崩れ落ち、床に手をついて項垂れた。 なんでだろう。 理由はさっぱりわからないけれど……時が巻き戻っている——? それも平成××年って、早生まれの俺が産まれる前の年だ。 俺は、俺が産まれるより昔の時代にタイムスリップしてしまったというのか……!? 「ねえ」 響が項垂れていると、後ろから声が掛かった。 「テレビ見たなら、帰って」 奏の言葉に、響はどくりと心臓を鳴らした。 帰る……? 帰るったって——ここはまだ俺が存在しない時代なのに。 今住んでるアパートも築10年だからまだ建っていないだろうし、実家に助けを求めたところで、俺の両親は俺が息子だってことを受け入れられないんじゃないか? ……じゃあ、どこに帰ればいいんだ。 「……帰れない……」 「え?」 「帰る場所が……ないんです」 響は声を震わせながらも、思い切って言った。 「俺……っ、この世界に存在しない人間だから……っ! だから帰る場所がないんです!! 俺も、どうしたらいいか分からないです……ッ」 瞳にうっすらと涙を溜めて見上げると、 奏は困惑した表情を浮かべた。 そりゃ、そうだよな。 突然自分のうちに現れて、帰る場所がないからどうしたらいいかわからないなんて泣きつかれて—— 俺だって同じことを言われたら、こんな表情になるだろうな。 響がそう考えて沈んでいると、不意に奏の口が動いた。 「……ってことは——あんた、幽霊?」

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