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ダル・セーニョ②

「……ええ!?」 「この世界に存在しないんでしょ? 帰る場所もないんでしょ」 「……そう、です」 「じゃあ幽霊だ」 「……そうなのかな……?」 「でも足があるから、やっぱり人間か」 「……なら良かったです……」 響がほっと胸を撫で下ろしたのも束の間だった。 いや、幽霊なわけないけど! でもそうじゃないなら、なんで俺がこの時代にいるんだ!? 「——俺、自分でも何が起きたか分かってなくて……」 響は腹を括り、奏に経緯を話すことにした。 「さっきまで、空き家になっていたこの邸宅で 白いグランドピアノを弾いていたんです。 如月奏の曲をこのピアノで演奏して—— 弾き終わった時、背後にあなたが立っていました」 「俺が住んでるから空き家じゃないし。 ……ちなみに俺の曲ってどれのこと?」 「それは——ええと……」 あれ? 俺はさっきまで、何という曲を弾いていたんだっけ? どんなメロディーだっただろうか? そもそもタイトルが付いていたかどうかも覚えていない。 ……えっ。なんで。 なんで思い出せない——?! 「……すみません。タイトルも……どんな曲だったかも忘れてしまいました。 でも、凄く聴き心地が良くて、演奏しているだけで幸福に包まれるような……そんな旋律でした。 俺の大好きな、如月奏だから作れる曲なんだろうなって——そう思った記憶があります」 「あんた、俺のファンなの?」 響の言葉を聞いて奏が尋ねた。 「ファンだからって、人んちに勝手に忍び込んで、ピアノを弾いていいと思ってるの?」 「違います!!」 響は慌てて否定した。 「あ、いや、ファンなのは本当です。 でも勝手に忍び込んだ訳じゃなくて、不動産屋さんと一緒に入って来たんです。 ……この家が売りに出されていて、内見できるようになっていたから……」 そう。家主を失ったこの家は、23年後の世界——俺がさっきまでいた時代には売りに出されていた。 なぜなら如月奏が死んだからだ。 「俺が住んでるのに、勝手に売りに出されてたのは知らなかった。 不動産屋に言って取り消してもらわないと」 奏が冷静な態度で言う。 「いや!それは出来ないと思います!」 「なんで?」 「だって売りに出されるのは、23年後——あぁ……」 なんて説明すればいいんだ。 俺が未来からタイムスリップしたらしいことを、まず信じてもらえるかわからないけれど。 それより問題なのは、 23年後、43歳の若さで亡くなるということを 本人に伝えて良いものか—— 「あんたの話は、俺にはさっぱり理解できない」 奏が呆れたようなため息をついた。 「そう……ですよね。すみません……」 響が力無く謝ると、奏はふと顔を上げた。 「お腹すいたな」 「え?」 「お腹が空いた」 「……すみません。食事の時間に邪魔しちゃったみたいですね。 じゃあ——俺、帰ります……」 「帰る場所はないって、さっき言わなかった?」 「でも……ここに居られるのは迷惑なんでしょう? とにかくここを出て、それから今後のことを考えてみようと思って」 「出て行くのは後でいいよ」 「……え?」 奏が付いてくるよう仕草で合図したため、響はぽかんと口を開けてついて行った。 奏はキッチンまで歩いてくると、冷蔵庫を指差し 「なんか作ってくれない?」 と響に頼んだ。 「料理できる?」 「えーっと……できますけど……」 「じゃあ、よろしく」 奏はそれだけ言い残し、さっきのテレビがあるリビングへ戻って行った。 何がどうなってるんだ……? でも、とにかく今すべきことは、とりあえず…… 「作るか。ご飯……」 響はまだ混乱が続いていたが、とにかく 腹を空かせた憧れの作曲家のために手料理を振る舞うことにした。 「——う」 冷蔵庫の中は、ほとんど空だった。 調味料の類もほとんどない。 これで何を作れるって言うんだ。 もしかして、俺の料理スキルを試してるのか? 「……やってやろうじゃん」 奏が去り、一度冷静さを取り戻した響は 冷蔵庫のありったけのものを使ってみることにした。 音楽科のある高校に通うため、高校生の時からずっと一人暮らしだった響。 元々楽器だけでなく手先が器用で、ピアノを弾くのと同じように、レシピ通りに料理を再現するのが得意だった。 それに作曲と同じように、自分なりのレシピを考えたり、冷蔵庫にあるもので即興でアレンジするのにも慣れていた。 ——暫くして、響が料理を乗せた皿を持ってリビングに戻ると、奏はソファの上で眠っていた。 ええ?! 腹が減ったと言ってたのに、今度は寝てるし…… 響は呆気に取られながらも、ソファの近くの机に料理を置いた。 「ご飯、できましたけど……」 呼びかけてみたが、返事がない。 「あのー?冷めちゃいますよ」 今度は軽くゆすってみたが、まるで起きる気配が無かった。 「……はぁ」 響は小さくため息をつくと、起こすのを諦めて辺りをキョロキョロと見渡した。 家具はともかく、家電製品はやっぱりどれも時代を感じるなあ。 こんな若くして豪邸に住める財力があるんだから 最新の良い家電を揃えられそうなものだけど—— 23年前の時代では、これが最新式なんだろうか? ……。 一時間前くらいまでは、如月奏の死に深く落ち込んでいて、 彼の遺したピアノを触れたことに感無量だったのに、 今は如月奏本人のマイペースぶりに若干引いてしまっている。 ファンなら、生きてる如月奏本人に会えるだけでも嬉しいと思うはずなのに—— いや。っていうか、もっと考えることがある。 如月奏のことより、自分の今後のことを心配しなければならない。 知り合いもいない、住むところもないこの時代で これから俺はどうすればいいんだろう。 どうやったら、元の時代に帰れるんだろう。 響が暫く頭を悩ませていると、突然はっとひらめいた。 そうだ! さっき俺は、如月奏の家で見つけた譜面を弾いた後にこの時代に来た。 だったらもう一度あの曲を弾けば—— 響はいそいそと、白いグランドピアノのある部屋に向かった。 あの人、至近距離で呼びかけても、ゆすっても起きなかったくらいだから 別の部屋にあるピアノを弾いたくらいじゃ起きないだろ。 文句を言われる前に、例の曲を弾ききって元の世界に帰ろう! ……あ。 響はピアノの前の椅子に腰掛けた後、ようやく気がついた。 そうだ。俺、ここに来てから何故か急に どんな曲を弾いていたのかを忘れてしまったんだ。 でも確か……俺の知らない、つまりは未発表の曲だったような気がしている。 だけどその譜面も、ピアノの周りには見当たらない。 それもそうだろう。 だってあの曲を作ったのが、今俺が対面している『ハタチの如月奏』なら もうとっくに世の中に発表しているはずだ。 きっと亡くなる直前に完成させた曲で、 発表しようとしていた最中に非業の死を遂げたのだろう。 ——結局、如月奏はどうして死んでしまったんだ。 病死なのか、事故死なのか、それとも—— テレビでは如月奏の死を大々的に報道していた割に、死因について触れているニュースを見た記憶がない。 俺の記憶が無くなってしまったのか、それとも死因は伏せられていたのか。 タイムスリップしてまだ一時間しか経っていないはずなのに、 自分の弾いた曲の記憶が消えてしまっているくらいだから、他の大切なことまで忘れてしまっている可能性は否めない。 響は自身に起きている異変に苦悩しつつ、あの曲を忘れてしまった代わりに ダメ元で別の曲を弾いてみることにした。 あわよくば、ピアノを弾くことがタイムスリップのトリガーになるのではないかという期待を込めて。 選んだのは、自分が作曲家になる夢を抱いていた頃に作ったオリジナルの楽曲だった。 この曲は、『如月奏っぽい音楽だね』と揶揄されてしまい、世に出すことはしなかったものだ。 でも、音楽で生きていくという想いを抱いていた頃の自分が、精一杯情熱を込めて作った楽曲でもある。 それをこのピアノで演奏してみたいと思った。 この曲は冬の山をイメージし、ストーリーを立てて作ったものだ。 最初に、雪がちらちらと降り始めたかのような繊細な音で幕が上がる。 使う鍵盤のほとんどが右側——高音に集中し、 優しいタッチで雪の降り始めを再現する。 中盤はメインテーマとなる旋律を繰り返し、鍵盤の端から端までを使ってダイナミックに表現する。 広大な土地に一面雪が降り積もったような、大自然のパノラマが脳裏に浮かび上がってくる。 終盤には鍵盤の左側——低音を打ち付けるように鳴らし、 クライマックスに向かって激しさを増していく。 冬の寒さに抗うように火を起こし、 その炎があたりの木々にまで燃え広がっていくかのような不穏さを感じさせる。 そして最後は、全てのものが焼け尽くされ、 木々も生き物の気配も消えてしまった無の世界で 再び静かに雪が降り続ける—— そんな静寂を思わせる旋律で幕を閉じる。 自分の想いが詰まった音楽を、身体いっぱいに表現して弾き切った響の額からは、気付けば大粒の汗が流れ落ちていた。 「——驚いた」 背後からかかった声に、響は再びびくりと肩を震わせた。 この声——如月奏…… 起こしてしまった……! 寝ている奏を起こし、勝手にピアノを弾いていたことがバレた挙句 結局元の時代にも戻れていなかったことが分かり 散々な思いで響は後ろを振り返った。 「ごめんなさい——」 そう謝ろうとした時だった。 「それ、なんて曲?」 「え……?」 「俺、その曲知らない。誰が作ったの?」 恥ずかしい—— 咄嗟に響が感じたのはそれだった。 この曲は、如月奏に憧れていた自分が作り、結果『如月奏っぽい』と揶揄された、二番煎じのような音楽だ。 俺にとっては、熱い想いをたぎらせて書き上げた自信作だったけれど、 如月奏本人ならば、これは如月奏を意識した作曲だとすぐに気付いたことだろう。 響が言葉を返せずにいると、奏が再び尋ねてきた。 「もしかして、あんたが作ったの?」 「……ええと……はい」 響は言葉を濁そうとしたが、奏の瞳が先程会った時とは打って変わって輝いているのが分かり息を呑むと同時に、思わず正直に答えていた。 なんてキラキラした目なんだ—— 「あんた、ただのサラリーマンじゃ惜しい才能持ってるね」 「……今の、俺が作った曲のこと……ですか?」 「うん。それに、ピアノの演奏も見事なものだった」 「っ、そう……ですか? 指を怪我してから、ピアノの腕はめっきり落ちてたんですけど……恐縮です」 あれ? そういえば、ピアノを弾いている時、全然指が痛まなかったな。 指を骨折してから思うようにピアノが弾けなくなって ピアニストを挫折したというのに—— まるで怪我をする前の頃に戻ったかのように、思い通りに指が動いた。 響がハッとして手のひらを見ると、なんと怪我をしていたはずの指を滑らかに動かすことができた。 「っ!?指が治ってる——」 響が思わず声を上げると、奏はそんな言葉を意に介さず、自分のペースで話を続けた。 「それから、ご飯も美味しかった。 こんな良い曲が作れて、俺より上手にピアノが弾けて、ご飯が作れて—— あんたのこと、やばいファンだと思ってたけど、ちょっと見直した」 そして、未だ戸惑いを隠せない響に近寄ると、 息のかかる距離まで顔を近づけて言った。 「帰る場所が無いって言ったっけ。 ——ここに住めば?」

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