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フィーネ②(最終回)
それから暫く、作曲の仕事をセーブし、これまで以上に家の中に引き篭もる暮らしを送っていた奏。
心配した早苗や速水が奏を気晴らしに外へ連れ出そうともしたが、奏は「一人になりたい」と言った。
だが、ある日早苗と速水が差し入れを持って如月邸を訪れると、部屋の中で奏が倒れているのを見つけた。
生きてはいたが、意識が朦朧として今にも死んでしまいそうな様相の奏を見て、早苗は慌てて救急車を呼んだ。
——暫く食事をしていなかったことによる栄養失調だと診断され、数日入院することとなった奏。
見舞いに来た早苗と速水は、身体を動かすこともままならないほど弱っている奏のために世話を焼き、着替えや身体を拭く作業も二人が手伝いたいと申し出た。
「——あれ?」
他者が服を脱がせることに抵抗する気力すら失っていた奏。
速水が奏の入院着を脱がせようとすると、奏の裸を見てふとその手を止めた。
「あっ、あのね!これは——」
乳首とへそのピアスが、母親の虐待によって開けられたものである経緯を知る早苗は
速水にどう説明しようかと悩みながら口を開きかけたものの、速水は目を輝かせてこう言った。
「響とお揃いだったんだ!」
「え?」
早苗がきょとんとすると、速水は奏の身体を蒸しタオルで拭きながら続けた。
「響が居なくなる少し前、皆で島根に旅行したじゃん。
響と温泉に入った時、へそにピアス付けてるのが見えてさ。
そーいうの付けるタイプだと思ってなかったから、ちょっとびっくりしたのを覚えてる。
あの時たしか『最近開けた』って言ってたけど、なるほど、奏さんとお揃いで開けたのかぁ」
「そーちゃんのは、昔からだけど……」
「え?」
「あ、ううん!——サツキくんが開けてるのは知らなかったわ!」
二人が話していると、それまでされるがままに身体を拭かれていた奏が口を開いた。
「……俺が響に穴を開けた」
「え?」
速水と早苗が奏を見ると、奏は目元にうっすらと涙を浮かべていた。
「……響が突然いなくなっても、俺と響が繋がってる証を身体に残したかった。
響が元の時代に帰っても、俺のことを覚えててくれるようにって。
——そんな未来は来てほしく無かったけど……いつかその日が来てしまうんじゃないかって不安が常にあった。
響と居て幸せだと感じるほどに、離れ離れになるのが怖くなって——
響の身体に俺との繋がりを刻めたことは嬉しかった。
でも……結局、離れ離れになってしまった」
皆が黙りこくり、奏の啜り泣く声が部屋に響いた。
——だが暫くして、速水が顔を上げると、ニカッとした笑みを浮かべた。
「響は奏さんのこと、ずっと忘れないってことだな!」
「……」
「奏さん。大丈夫、響は奏さんのことを絶対に忘れないよ。
たとえ二人が対面することは叶わなくても、お互いずっと繋がってる証は消えないんだから」
「……違う誰かに心が揺らいだらピアスを外すかもしれない。
そしたら——俺のことも、響の心から忘れ去られてしまうかもしれない」
「そんなことしないと思うよ。だって響、俺にこう言ったから。
『これは俺が開けたくて開けた穴だから。
きっとこれからも、開けたことを後悔したりしないよ』って。
——ピアスを外してたって、痕はずっと残るんでしょ?
響は身体に一生、奏さんと繋がってる証が残ることを覚悟して開けたわけで……
響にとっての奏さんは、ピアスを外しただけで忘れてしまえるような存在では絶対に無いって断言する」
「……励ましてくれるのは有り難いよ。
だけどもう会えない相手のこと、一生同じ気持ちで思い続けるなんてこと、できるかな。
響は——死ぬまでずっと俺のこと、覚えていてくれるかな」
「まあ、恋愛って両思いになることがゴールではないもんな。
たとえ結婚したって、そこから何年も互いの気持ちが変わらないようにするには、確かに継続した努力も必要だね。
俺も早苗さんに飽きられないよう、これからも頑張ろうと思ってるし」
「その継続した努力というものは、響に会えない以上、どうしようも——」
「奏さんも努力できるよ!!
——それに奏さんには、奏さんにしか出来ないやり方があるでしょ?」
「俺の、やり方……?」
奏がきょとんとすると、早苗は閃いたように言った。
「そうよ!作曲!そーちゃんには作曲があるじゃない!」
「……!」
奏の目が見開かれた。
「曲を作り続けるのよ、そーちゃん。
サツキくんがこの世界に生まれて大きくなる時、側にそーちゃんの音楽があれば、サツキくんはそーちゃんを身近に感じながら大人になる。
そして23歳になった時、そーちゃんの元へ会いに来る。
元の時代に戻った後も、そーちゃんの作った音楽が側にあるわ。
——音楽が二人を繋げ続けてくれるのよ」
早苗が励ますように言うと、奏の頬に涙が伝った。
「……響のために、曲を作らないと」
「その通りよ、そーちゃん!」
「響が元の時代でも寂しくないよう、そして奏さんのことをずっと忘れずにいられるよう、沢山音楽を作りましょう!」
——退院してからの奏は作曲の仕事を再び受けるようになり、精力的に曲作りに取り組んだ。
あまりに曲作りにのめり込むため、早苗が心配して如月邸に住み込んで食事作りなどサポートしようかとも提案したが、奏はそれを断った。
早苗にはマネージャーとしての仕事があることと、速水と婚約し、同棲する話が出ていることを知っていたためだ。
早苗には早苗の幸せを掴んで欲しい、それを邪魔するようなことはしたくないと奏は言い、尚も心配する早苗を安心させるために身の回りのことは自分でこなすようになった。
掃除洗濯、料理、お金の管理まで、響がしていたのを横目に見ていた記憶で自分でも再現できるよう努力した。
一通りの家事を一人でこなせるようになった奏の姿を見た早苗は、安心したように速水との結婚式を挙げた。
二人の式では奏がオリジナルの祝福曲をピアノで演奏した。
——奏が家のことを一人で済ませ、自分で体調を管理しながら作曲家としての活動をするようになってから10年ほどの月日が流れた。
すっかり自立した生活をするようになった奏からは幼さは消え、年相応の落ち着いた30代になっていた。
同時期、役者を引退した速水は一般企業に就職した。
新しい役者が次々と現れ、以前ほど俳優業で稼ぐことが難しくなった速水は
早苗との安定した暮らしを送るために会社員として働く道を選んだのだった。
元々人当たりが良く、タレントとしての知名度もあった速水は運良く大手企業に入社し活躍を重ねていった。
だが、ある時に海外への出向を命じられる。
海外駐在を経た者が昇進することが定番ルートだったこの企業で、速水も同じように海外へ行くことを選び、早苗はそれに着いていくと言ってマネージャーの仕事を辞めた。
この頃の奏は生活も精神的にも自立しており、早苗以外の事務所関係者ともそれなりの人間関係を築くようになっていたため
『マネージャーが離れても問題なく仕事はできる。マネージャーは速水さんについて行ってあげなよ』
という奏の後押しもあって、早苗は速水と共に海外へ渡ったのだった。
それから更に10年の月日が経った。
40代になった奏は、国際的にも著名な作曲家になっていた。
早苗と速水は相変わらず海外での生活が続いていたが、そこでも『世界のソウ・キサラギ』と奏の活躍がニュースで流れていたため
奏がその後も作曲家として音楽を作り続けていることを二人は安心して遠くから見守っていた。
だが、40代になった頃から奏は身体の不調に悩むようになった。
連日のメディアの取材や事務所関係者との食事、家事もやりながらの曲作り。
自ずと睡眠時間、運動の習慣、栄養のある食事を取ることが難しくなっていった。
早苗は一時帰国した時に、不調に悩む奏を心配し、やや強引に執事を雇った。
誰かが奏のそばにいて身の回りのことをしてくれなければ奏の生活はとても持たないように思えたからだ。
奏は、この歳で今更他人と暮らすのは……と抵抗を示したが、執事は平日の日中だけ来てもらう、それ以外の生活には介入させないと早苗が約束し、初老の男性を雇った。
執事を付けてから、暮らしにやや余裕が出てきた奏だったが、家事の時間が空いた分を曲作りに回すようになった。
一曲でも多く、この世界に音楽を残すために。
響が自分の音楽を聴いて、自分を側に感じてくれるようにと。
曲を作っていると、響のことが頭に浮かぶことが何度もあった。
普段の暮らしの中では、仕事で人と関わったり、早苗や速水とも頻繁に電話をしているため人恋しいと感じることはない。
むしろ、元々一人が好きだったため、誰かにそばにいて欲しいという寂しさを感じることはほとんどなかった。
だが響のことを思い浮かべると、無性に寂しさが湧いてくる。
響に会いたい。会ってまた話をしたい。
響はいつか誰かと結婚するんだろうか。
知らない誰かと永遠を誓い、子をもうけ、温かい家庭を築くのだろうか。
響には幸せでいてほしいけれど、響の側に居られない自分では響を幸せにすることはできない。
だから響が幸せになれるなら、自分の知らない誰かと一緒になることを祝福しなければとも思う。
——嫌だ。
嫌だ、響。そんなのは嫌だ。
どうか俺のことを忘れないで。
もし俺以外の誰かに恋しても、せめて俺の音楽だけは愛し続けて。
奏は響のことを思って作業の手が止まるたび、へそのピアスに指を乗せた。
そして何度か深呼吸をした後、『5月のコンチェルト』を演奏する。
すると寂しさが紛れ、幸せな気持ちに包まれた。
そうやって自分の心を保ちながら、響のために音楽を作り続けた。
——しかし、奏が43歳になった時。
奏は執事が不在の夜、ピアノの椅子に座ったまま息絶えた。
過度の疲労によって心臓に負荷が掛かり、奏が気付かないうちに身体はとうに限界を迎えていたのだった。
——奏は死の直前、心臓に激しい痛みを感じた。
経験したことのない痛みと、どんどん視界が暗くなっていく感覚に、奏は死を直感した。
そしてその瞬間——自分がもう43歳になっていたことを思い出した。
そっか。
あれからもう、23年も経っていたのか。
この23年間でどれだけの曲が残せただろう。
『2月のセレナーデ』以外にも、響が気に入ってくれる曲が一つでも多く残せたなら良いけど。
——いつか響たちと出雲大社へ旅行した時、俺はお参りをしなかった。
神様にお願いをしなければ響との絆を深められないなんて馬鹿みたいだと思った。
そんなことしなくても、俺と響の関係は続いていくはずだって。
今は少し後悔している。
もし神様にすがっていたら、俺はもっと響と一緒にいられたのかもしれない。
もし今からでも間に合うなら——神様、お願いします。
生まれ変わって、響が俺と出会った後の世界で、もう一度響に会わせてください。
もう音楽は作れなくたっていい。
響と居られるなら、他には何もいらない。
だから、どうか。どうか——
……
「——メディアで死因が伏せられていたのは、過労死だと報道したら余計な勘ぐりをされてしまうのではと事務所が考えたから。
そーちゃんのキャパを遥かに超えた量の仕事を与えていたって思われたら、事務所のイメージが悪くなるから。
……ほーんと、保身しか考えてない事務所なんて辞めて主婦になったのは正解だったわあ!」
長い話を終えた早苗は、ハーブティーに口をつけた。
「でも、私たちがあと数ヶ月で日本に戻れるって時にそーちゃんの訃報を聞いて、本当にショックだった。
もし執事さんを一日付けていたら?私が日本に残っていたら?って、たらればを何度も考えてしまったわ……」
早苗が当時を思い出したせいか暗い表情で言うと、代わりに速水が明るい笑顔で言った。
「だから俺たち、二人が揃って会いに来てくれた時には本当に驚いたし、嬉しかったんだよ。
奏——翔さんが大学を卒業してすぐ、翔さんの勤め先がある都内に二人でマンションを借りたと聞いた時には、二人の恋が実って本当に良かったって思ったよ。
もちろん俺なんかより、翔さんと響が再会した時の方が、喜びも感動も大きかったとは思うけどさ」
すると響も、翔から奪い返したコーヒーを口に含んで頷いた。
「……奏が奏の姿のまま生まれ変わって会いに来てくれた時は本当に驚きました。
嬉しいより先に衝撃の方が大きくて、暫く動揺したけれど——
『5月のコンチェルト』を弾いてくれたことで、間違いなくあの『奏』だって確信できて——
それからようやく喜びが湧き上がってきた感じでした。
奏が大学を卒業するまでの間に、俺も東京で仕事を探したり、ピアノ教室を畳んだり慌ただしく過ごしてきて……
最近やっと二人で落ち着いて暮らせるようになってきたばかりなんです」
一方の翔も、再び響からコーヒーを奪って言った。
「俺、全国のピアノ教室を片っ端から回ってたから、お金も体力も使い果たしてた頃だったんだよね。
あの時は大学生だったから、学校に通いながら旅してた感じだったし。
でも響の家に着いて、インターホン越しに声を聞いた時にピンと来て。
レッスン部屋で顔を合わせた時には間違いなく響だって確信したけど、
まずは俺が如月奏だって信じてもらうために順を追って話さなきゃと思った。
本当はすぐにでも飛びついてやりたかったけど、そんなことしたら不審がられて追い出されるかもって思ったし……
もしかしたら響にもう奥さんや子どもがいる可能性だってあったからさ。
響に独身かって聞いた時は——あれが人生で一番緊張した瞬間だったな。
あの時の緊張を思い出すと、未だに喉がカラカラになるくらい」
奏がそう言ってコーヒーを飲み干すと、響は奏が元々自分で注文して手をつけずにいたアイスティのグラスを取った。
「あっ、それ俺の……」
「奏は俺のコーヒー飲んだでしょ。
そのくせ自分で頼んだアイスティは一口しか手をつけなかったし——どうせ口に合わなかったんでしょ?」
「……酸っぱいの嫌いなのに、お店の人が勝手にレモン入れたから……」
「相変わらず好き嫌いばっかり。
今日だって俺の作ったサラダのトマト残してたし」
「っ、もっとドレッシング沢山かけてあったら食べれた」
「健康に悪いからダメ。奏にドレッシングを渡すとえげつない量をかけるんだもの」
「ほんと響は健康オタクなんだから」
「当たり前だろ。俺は響より歳を取ってる分、早く死んじゃうかもしれないから
一日でも長生きできるように頑張ってるし、俺が死んだ後に奏が真っ当な食生活をできるよう味覚の習慣を付けてあげてるんだよ」
「だからいい加減、先に死ぬって話はしないでよ。
響が死ぬ時は俺も一緒に死んであげるからさ」
「そっちこそ、死ぬとか言うなって何度も言ったろ」
二人が言い合っていると、早苗は
「本当に仲良しねぇ、こっちまで心が温かくなっちゃう」
と微笑んだ。
「——って、そろそろコンサートの時間じゃない!?」
ふと腕時計を見た速水が弾かれたように席を立った。
「あっ、いっけなーい!もう12時半!?
やだ、9時からそんなに喋ってたの、私たち!?」
早苗も慌てて荷物をまとめ始める。
「仕方ないから、コンサートが終わってからお昼食べに行きましょ。ねっ?二人とも」
早苗が響と翔に視線を向けると、響は「そうしましょう」と答えた。
「——ほら、奏も行くよ」
先に会計に向かった早苗と速水の後を追うように響も立ち上がると、翔は席に座ったまま、響の飲み残したアイスティを見つめていた。
「……奏?」
響が話しかけると、翔はグラスの中身を思い切ったように傾け、一気に飲み干した。
「……はぁ」
翔は息を吐いて立ち上がると、響に視線を向けた。
「——好き嫌い、ちょっとずつ克服するよ。
響と長生きするために頑張るから。
……だから、これからもずっと一緒にいてくれるよね?」
「……当たり前」
「あと、頑張ってレモン入りのアイスティ飲んだご褒美もちょうだい」
「ご褒美?」
「キスして。今ここで」
翔が響を見上げると、響はくしゃりと頭を掻いた後、「仕方ないな」と困ったように微笑んだ。
周囲に多くの客がいる店内で、翔に口付けた後、響は少し恥ずかしそうに頬を染め
「行くよ、奏」
と言って手を差し伸べた。
「——うん」
翔はそう言って笑みを浮かべると、響の手を握り、早苗と速水の元へ歩いて行った。
完
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