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フィーネ①
それから二年後——
「サツキ先生、ピアノ教室やめちゃったんだって」
「結婚して、東京に引っ越しちゃったんだってね」
「あーあ。サツキ先生、アラフォーだけどイケメンで優しくて憧れてたのになぁ。
永遠の独身貴族だと信じてたのにぃ」
ピアノ教室の看板が撤去された家の前で、女子高生たちが噂話に花を咲かせる。
「でもさ。結婚して自分の仕事を辞めるって珍しいね。
奥さんが東京に住んでるから向こうに引っ越したってことだよね?」
「それがさ……正確には、先生がしたのって結婚じゃなくてパートナーシップ制度ってモノらしいよ」
「何それ?」
「知らない?同性同士でパートナー証明書をもらうこと。
夫婦に近い制度で、いわゆる同性婚って呼ばれるものだよ」
「え!?じゃあ相手って——」
「そう、男の人!!——しかも20歳以上歳下なんだって!」
「ええーっ!?同性同士なの!?加えて歳の差もエグい……」
「でも、これでサツキ先生が今まで彼女や奥さんを作らなかった謎が解明されたよね」
「ね!まあ性別や年齢はさておき、長年の仕事を辞めて地元も離れるくらいだから、よっぽど相手に惚れ込んでるんだろうね——」
——都内、朝8時。
「やっと起きてきたのか!」
響は朝食の準備をしているところに寝癖をつけたままやってきた翔を見て愕然とした。
「おはよ、響」
「おはよ、じゃないよ!何時だと思ってるの?
今日は加納さん達と一緒にコンサートへ行く日だって言ってただろ」
「知ってるけど……コンサートは午後からでしょ?なんでそんな慌ててるの」
「待ち合わせの時間に間に合わないからだよ!」
響は、ゆっくりテーブルに腰掛けた翔の前に朝食を置くと、
「食べたらちゃんと寝癖治して出かける支度して!」
と呼びかけた。
翔は味噌汁を啜りながら、はあとため息をついた。
「あの人たちさ、朝早過ぎなんじゃない?
1時開演のクラシックコンサートへ行くのに、なんで9時待ち合わせなわけ?」
「コンサートの前にお茶したいんだって」
「ふうん。ま、年寄りは朝が早いって言うしね……」
——9時過ぎ。
「あーっ、そーちゃん、サツキくん!
こっちこっちー」
「遅れてすみません!加納さん、右京」
待ち合わせをしていたカフェに着くと、先に来ていた早苗と速水がゆったりとお茶を飲んでいた。
「いいのよぉ。早めに待ち合わせてランチしてからコンサート行こうって言い出したのはこっちだし。
そーちゃんが寝坊助なのは昔からだから」
「こないだも、奏さんを叩き起こすのに時間がかかったって謝ってたよなぁ。
15分の遅刻なんて、年寄りにはなんてことないから気にしなくていいのに」
初老の風貌をした早苗と速水は、申し訳なさそうに謝る響に対して微笑んだ。
「っていうかさ」
遅刻の原因である翔は、特に反省するそぶりを見せず席に座ると、アイスティを注文し、それから飄々とした態度で言った。
「何度も言うけど、今の俺の名前は翔だから。
いい加減間違えないでよ。
ほんと、じいちゃんばあちゃんなんだから」
「ごめんねぇ。でも、私にとってそーちゃんはそーちゃんなのよね」
早苗がニコニコと謝ると、速水はこう続けた。
「ほんと、二人と再会した時には驚いたもんだよ。
出会った当時は四人とも20代だったのにさ、
今は俺と早苗さんが60代、響が40代、そして奏——じゃない、翔さんが20代なんだもの」
「ほんとですよ。はたから見れば、親子三世代でお出かけしてるようにも見えますよね、俺たち」
響が苦笑すると、翔は響の注文したアイスコーヒーを横取りし、ミルクを足したものを飲みながら言った。
「響さ、俺が一番歳下みたいに思ってるようだけど。
俺、前世での43年と合わせれば、65年生きてることになるんだよ。
響より人生経験積んでるんだよ?」
「でも実年齢は22歳だろ。
っていうか、精神年齢的にも奏の方が幼いと思うよ。
朝起きられないし。人のコーヒー勝手に飲むし」
「……」
翔がムッとしたまま黙り込むと、速水がくすりと笑った。
「そういえば、響が翔さんを『奏』って呼ぶことには怒らないんですね、翔さん」
すると響はこう答えた。
「一応、奏のご両親がいる場では『翔』って呼んでるんですよ。
でも二人きりの時には『奏』って呼ばれたいみたいで」
「はぁー?俺がいつそんな要求したわけ?」
それを聞いていた翔がコーヒーのグラスを置いて反論した。
「俺、別に『奏って呼んで』なんて言ってない」
「いや、言ったよ。再会した当日にも言われたし。
パートナーシップの手続きをした時にも『戸籍上は翔だけど、響からはずっと奏って呼ばれたい』って言ってた」
「……言ったかも」
翔が大人しく引き下がると、早苗がおかしそうに笑った。
「うふふっ!見た目の年齢に差はあっても、二人の息は変わらずぴったりよねぇ。
——それにそーちゃん、しょーちゃんとして生まれ変わってからは前より明るくなったし」
「そう?」
「そうですか?」
翔と響が同時に尋ねた。
「俺、奏って前からこんな感じだった気がしてるんですけど。
むしろ、65年生きたって豪語する割には幼い部分が変わらな過ぎて不気味なくらいです」
響が言うと、早苗は笑いながらこう言った。
「確かに、今のしょーちゃんは、前世でサツキくんと暮らしていたハタチの頃のそーちゃんそっくり。
ちょっとふてぶてしくて、甘えん坊なところとか。
でも、サツキくんが消えてしまってからのそーちゃんは違ったかな。
——サツキくんがいなくなってから、そーちゃんが亡くなるまでの23年間、色々なことがあったからねぇ」
早苗は、響が元の時代に戻ってしまった後の出来事を話して聞かせた。
「サツキくんが消えた!?」
サツキが『5月のコンチェルト』を弾いてから数日後、
仕事の打ち合わせにやって来た早苗は、抜け殻のようにピアノの前に座っている奏を見つけて話を聞いた。
「消えたって、喧嘩して家出した……とかじゃなくて?」
早苗が、何があったのかを尋ねると、奏は目の前で響が姿を消したことを話した上で
「多分、元の時代に戻った」
と口にした。
そこで初めて、早苗は響が23年後の世界からタイムスリップしてきた人間であることを知り愕然とした。
確かに話していて、少し感覚のズレを持つことはあったが、響は常識的で人当たりも良かったため、そこまで違和感は感じていなかった。
響がタイムトラベラーだったと分かり驚くと同時に、それを響も奏も自分に話してくれなかったことに寂しさを覚えた。
だがそんな衝撃よりも、すっかり気力を無くした様子の奏が心配でならなかった。
自分がここへ来るまでの数日、食事もとらず、ほとんどの時間をピアノの部屋で過ごしていたらしい。
響が消えた後、ピアノの上には『5月のコンチェルト』の譜面が残されていた。
奏は期待を込めて譜面を奏でてみたが、響が戻って来ることはなかったとも。
その日以来、仕事にも身の入らなくなった奏を本気で心配する早苗だったが、ふとあることに気づいた。
「……サツキくんって、もう間も無くこの世に生を受けるんでしょう?
だったら、サツキくんが産まれてから会いに行けばいいんじゃない?」
すると奏がこう言った。
「赤ん坊の響に会ったところで、俺のこと、誰だかわかんないでしょ」
「まあそうだけど……時間はかかるけど、サツキくんがもう少し大きくなってからなら——」
「無理だよ。俺、響の地元がどこか聞いてない。……それに」
どうにか奏に希望を持ってもらおうとしている早苗に対し、奏はこう言った。
「……俺と響が初めて出会ったのは一年前。
23歳の響が、ハタチの俺と出会うんだ。
だからそれより前の響と会ったところで、響は俺を俺として認知できない」
「そんなことないわよ!
サツキくんは元々そーちゃんのファンなんでしょ?だったら——」
「そうじゃない。作曲家としての俺は知っていても……
恋人としての如月奏を認知してもらえないと思う……」
奏は深く項垂れ、息を吐き出した。
「……俺が出会って恋に落ちて、想いが通じ合えた響は、数日前までここで暮らしていた響に他ならない。
それ以前に出会ってしまったら、響は俺を好きになってくれないかもしれない。
——響が23歳の春にタイムスリップをして俺の元に現れる、という出来事自体が無かったことになってしまうかもしれない」
奏は、あくまでも響が自分のことを好きになってくれたのはこの家で生活を共にし、互いに会話を交わし、そして自分の過去のトラウマや隠していたものを見せたことで響の心が動いていったためだと確信していた。
だから二人が出会った以前の響をなんとか探し出して会えたとしても、
自分は一作曲家の如月奏としか認知されないだろう。
突然、初対面で同性の相手から「好きだ」「また一緒に暮らそう」と言われても
響は困惑し、自分を拒絶するかもしれない。
ここで暮らしていた頃の響と違って、帰る場所があり、自分の誘いを断る選択肢を持てる立場であれば、簡単に逃げられてそれっきり会えない可能性だってある。
出会い方が変わり、それによって縁が途切れてしまえば、本来辿るはずだった道——響と奏が暮らした一年間も無かったこととなってしまうかもしれない。
「俺はこの一年が無かったことになるのは嫌だ。
二人の思い出が、二人にとって共通の思い出じゃなくなってしまうくらいなら、会わない方がいい」
「——どうしても、出会いをやり直したくないと言うなら……
頑張ってあと23年待てば、そーちゃんと出会った後のサツキくんと再会できるはずだわ!」
早苗は尚も励ますように言った。
「きっと23年後の世界に戻ったサツキくんが、43歳になったそーちゃんと再会するためにここへ来てくれるわよ!
そーちゃんがこの家に住んでることは知ってるし、そーちゃんずっとここに住むつもりでしょう?」
すると奏は静かにかぶりを振った。
「23年後に再会することは叶わないよ」
「どうして!?」
「……そんな予感がするだけ」
23年後——響が元の時代に戻った後の世界には、もう俺はいない。
23年後、俺は死ぬらしい。
理由はわからないけれど。
響も、話せないんじゃなくて「わからない」と言っていた。
でも、俺が死ぬと予知されたなんてマネージャーに言ったら動揺させてしまうだろう。
奏はそう考え、それ以上のことは何も話さなかった。
話したところで回避できる問題だとは思わないし、それに——
仮に俺がその先も生き延びたとしたら、響が作曲家・如月奏に会いに来るという未来——俺にとっては過去になるけど——がやっぱり無かったことになってしまうかもしれない。
だとしたら、俺が好きになった皐月響、そして俺を好きになってくれた皐月響という存在を残しておくためには
俺は響に会いに行ってはいけないし、あと23年で死ぬ必要がある。
……死ぬことより、響にもう会えないことが辛い。
俺を好きになってくれた響を幻にしないためには、俺が響に二度と会えないという現実を受け入れるしかない。
——幼い頃から、俺には音楽しか無かった。
苦しい現実から目を逸らすかのように、母親の逮捕後は記憶を失って、
そのあと自分が何者なのかまともに思い出せなかった中でも
音楽だけは自然と浮かんでくることに何の疑問も抱かなかった。
きっと記憶があった頃から俺はこれが得意だったのだろう、と思って
思いつくままに音楽を作り続け、ピアノを奏でた。
それ以外、やりたいこともなかったから。
欲求は昔から少ない方だった。
食欲も、睡眠欲も、性欲もあまりない。
物欲だとか承認欲求だとか、そういうのも無くて、日常のあらゆることに無関心だった。
学校で、ただなんとなく「友達になりたい」「デートしたい」と言ってくる人たちと連れ立って、
彼らが「美味しいクレープ食べに行こう」って誘ってきたり、「遅くまでゲームしてたから眠いわ」ってぼやいたり、「この前ついに彼女とエッチした!」って騒いでいたりするのを、口では適当に返事をしつつも
自分にはそういう欲がまるでないことに内心戸惑っていた。
俺は曲を作ること以外に関心がなくて、その曲作りにしたって
好きで続けているというより、頭に浮かんでくるから形にしているだけで——
そんな自分に落胆することは無かったけれど、他人の気持ちが理解できないことには難儀した。
みんなで美味しいと評判の店に行っても一人だけ真顔で食べていたらしく、「もしかして美味しくなかった?」と気を遣われてしまったり。
作曲をしていると集中しすぎるせいか眠いと感じることがなく、数日徹夜をしたら学校で突然気絶して、そのまま寝てしまったり。
友達と遊ぶのと同じ感覚でデートの誘いは受けるけれど、好きじゃない相手と長く時間を共有するのは苦痛に思えて
交際したいという申し出をすべて断っていたら、『気を持たせるようなことをされた』『裏切られた』と周囲に吹聴されて非難されたり——
そういう実害はあった。
普通の感覚というものが分からなくて困ることが何度もあった。
困ってはいたけれど、自分の生き方を変えようだなんて発想自体が出てくることはなかったのに——
全部、響にひっくり返されてしまった。
響と一緒に美味しいものが食べたい。
響が作ってくれるご飯は、俺が苦手だと思い込んでいた食べ物すらも「食べたい」って思わせてくれるから。
響と一緒の時間がなるべく欲しいから、夜はちゃんと寝て、頭をすっきりさせて響と話したい。
響が望むような反応や返事をできていたかは分からないけど、俺としては響の話は全部聞いて、ちゃんと考えて答えていた。
響とセックスしたい。
虐待されていた記憶が戻った後、セックスなんて痛くて辛いものでしかないと身体が認識していたはずだったのに
響を見ていると触れたい、繋がりたいって欲求が勝手に湧いてくる。
そして響のことを理解したい、響の気持ちに寄り添える自分になりたいという欲求も生まれて——
響に出会うまでの自分は、欲がなくたって生きていけるんだから問題ないだろうと思っていたのに
今じゃもう、欲がどんどん溢れ出して、響がいないことに耐えられないと感じている。
響と居られるなら、音楽が作れなくなったっていい。
響のせいで俺にも皆と同じような欲求があったってことに気付いてしまって、
欲求を満たしてくれる唯一の存在がいなくなった今、虚しいと感じるようになってしまった。
消えてしまうくらいなら、どうして俺たちは出会ったんだろう。
これで俺たちは終わりなのか?
響。
響。
響。
俺を置いて行かないで——
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