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第7話
朝になって起きてきた両親と高子が、御簾の外で美しい鏡や高価な紅などが入った化粧箱を見つけた。中将が贈り物として置いていった物だった。
佐理が昨夜のことを話すと、三人は大喜びした。
「お兄様、今度は食べ物を中将にお願いしてくださいませ」
佐理は複雑な気持ちで中将から贈られた手鏡を見つめた。鏡の中の自分が本当にこれでいいのか、と問うている。
中将の座っていた簀子縁(すのこえん)には、香木の中でも最高級品の伽羅(きゃら)の残り香が漂っていた。そのまろやかで幻想的な香りは、昨夜中将と過ごした夢のような時間を閉じ込めたようでもあった。
実際に会ってみた中将は、佐理の想像通りの、いや想像を超えた素晴らしい男だった。そんな男を佐理は騙している。
伽羅の香りが佐理の胸に爪を立てた。
中将は三日月が半月にもならないうちにまたやって来た。
が、この日もまた、夜もだいぶ遅くなっての訪問だった。
十六夜(いざよい)の君。
中将は佐理をそう呼んだ。
遅くに出てくる十六夜の月が、まるでためらっているように見えるという理由で付けられたその名前。家の奥深くに身を隠す佐理と重なるのだという。
この日の中将は笛ではなく物語を佐理に語って聞かせた。お隣の国の間抜けな皇帝の話だった。
その話があまりにもおかしくて、佐理は思わず笑い声を上げた。すると中将はハタと話すのを止め、御簾の向こうで沈黙してしまった。
佐理はどうして中将が黙ってしまったのか気になったが物語の続きも気になる。
「あの……、その後、その皇帝はどうなったのですか」
佐理は中将に話の続きを促した。
「あなたの笑い声は鈴のように愛らしい。そしてあなたの声は水蓮の花のように澄んでいて美しい」
思ってもみなかった中将の言葉に佐理は頬が火照った。今まで男達に佐理の容姿こそ褒められたことはあったが、こんなふうに声を褒められたのは初めてだった。
「あなたの笛の音は神々しいほどでした。きっと十六夜の君から発せられる音は全てこの世のものとは思えないほど美しいのでしょうね」
それこそ上等な弦楽器のような中将の声でそんなことを言われると、心臓があたふたしてしまう。
これはいけない。
頬の火照りが伝わった頭の奥で警鐘が鳴る。
中将は佐理を高子だと思っているのだ。いづれ、いや、今日で中将と会うのは終わりにしなければいけないのだ。
リアル光の君と名高い中将は、ただの気まぐれで落ちぶれ下流貴族の娘に興味を持っているだけなのだ。花月嫌いの中将に嘘がバレる前にこんな茶番、さっさと終わらさなければ。
「私など、ただのモグラでございます。モグラのくせに削り氷が好きで、でもこのように貧乏なもので、毎晩削り氷を食べる夢を見るような情緒のない女でございます」
これは中将に削り氷を催促しているとも取れる発言だった。
裕福な上流貴族の姫ばかり相手にしている中将はきっと興醒めするに違いない。さぁ、どうする中将?
すると竹を割ったような高らかな笑い声が聞こえてきた。
「実は私が今宵こんなに遅くなってしまったのは、昨日削り氷を食べ過ぎてお腹を壊してしまったからなんです」
すぐに佐理はそれが中将の優しさからくる嘘だと分かった。
「お願いです。今度私と一緒にお腹を壊すまで削り氷を食べていただけませんか?」
中将の誘いは削り氷にかかったあまづらより甘かった。
この人は、なんと心が広く大らかで、優しさに満ちた人なのだろう。近衛中将、彼の誘いをどうして断ることができよう。
後日中将は家族全員でも食べきれないほどの削り氷を瀬央家に贈ってきた。
こうしてずるずると中将と佐理の御簾越しでの逢瀬は続いた。中将は最初に約束した通り、強引に御簾を越えて部屋の中に入ってくるようなことは決してしなかった。
中将はリアル光の君と呼ばれている以上に紳士的で、教養があり、全てにおいて気品高く、それでいて佐理が気後れしないようにとの心遣いが、いつも言葉の端々に散りばめられていた。
佐理は今までこんな男に会ったことがなかった。トップオブトップの上流貴族の男とは皆こんななのだろうか。いや、きっとそれは中将だからだ。
中将がただの浅はかなプレイボーイだったらよかったのに。
中将のことを知れば知るほど、佐理の中で中将を騙しているという罪悪感は大きくなっていった。
それでも佐理が中将と会うのを止めなかったのは、中将が毎回持ってくる貢物をあてにしている家族のため、というのは表向きの理由で、佐理には分かっていた、本当は佐理が中将と会いたいのだということを。
誰かに対してこんな気持ちになったのは初めてだった。佐理は今になって軽い気持ちで始めてしまった今回のことを後悔していた。
高子の代わりに中将に会ったりしなければよかった。その前に文のやり取りなんてしなければよかった。
でもだって、佐理は知らなかったのだ。
中将がこんなに優しい素晴らしい男だったとは。
中将は光輝くようなイケメンだという。青海波を舞っていた中将は遠すぎて顔はほとんど分からなかった。女性をとろけさせる甘いマスクを被っているのか、それとも眼光鋭い精悍な顔つきなのか。
佐理は中将が帰った後、いつもその伽羅(きゃら)の残り香を嗅ぎながら、朝焼けの空に中将の顔を想像した。
そして会うたびに大きくなる罪悪感と、胸に初めて宿る感情に戸惑いを感じた。
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