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第8話
昨晩、夜遅くに降り出した雨は朝になってもしとしとと降り続け、大内裏の庭を静かに濡らしていた。
佐理は雨の匂いや香りが好きだった。こんな雨の日に絶好のスポットがあった。池の東側、あまり人の来ない水際からの眺めが素晴らしく、水面にできる無数の波紋が音楽を奏でているようだった。ちょうどよいところに庭石があって、佐理はいつもそこに立って雨を眺めていた。
今日もその場所にやって来ると、庭石に苔が生えて滑りやすくなっていた。佐理は雨の中、苔で緑色になってしまった庭石をきれいに掃除した。
庭石が元の色を取り戻した時には、すっかり佐理はびしょ濡れになっていた。
そんな佐理を見て、殿上人の男たちは佐理を蔑むように薄ら笑った。
降り止まない雨の中を中将はやって来た。
いつもは会話の途中で笛を吹くことが多い中将だったが、今日はそれもなく口数も少なめで、雨の音を楽しんでいるようだった。
佐理もまた中将と一緒に雨音に耳を傾けた。
ふと、雨風に乗って中将の歌が聞こえてきた。
「水面(みなも)にて 波紋作りて戯れる 雨の使いよ 楽しきかな」
(雨の精が水面に波紋を作って戯れている、その姿が楽しそうだよ)
中将が佐理に語りかける。
「大内裏にですね、大きな池があるのですけど、池の東側に眺めのとても良い場所があるんです」
俯いて中将の声を聞いていた佐理は、小さく弾けるように顔を上げた。
「今の歌はそこからの眺めを詠んだものなのですが、そこにちょうどいい庭石があるんです。私はいつもその上に立って景色を楽しんでいるのですが、その庭石の苔が今日、きれいに掃除されていたんです。どこの誰なのかは分かりませんが、私はその心遣いに感動しました。会ってお礼を言いたいと思うのですが、なかなかそれも叶わずに心苦しいです」
佐理は気づくと几帳の陰から出て、御簾の近くまで来ていた。
御簾越しにうっすらと中将の影が見えた。雨の香りに混じって中将の伽羅の香が漂ってくる。
「その者はその者の仕事をしただけです。近衛中将様ともあろうお方が、下流の者にお心を砕く必要はありませんよ」
「十六夜の君、上流も下流も関係ないですよ。私はいつも大内裏を掃除してくれている人たちに感謝しています。とりわけ庭はいつも素晴らしく美しい」
庭は佐理の担当だった。
佐理の心が音を立てて震えた。
今日、佐理を薄ら笑った殿上人の上流貴族と中将はあまりにも違った。
そよぐ風が佐理のいる室内にまで雨を運んできた。中将のいる簀子縁(すのこえん)はさぞかし雨で濡れていることだろう。
そして中将も……。
夏と言えども秋はもうそこまで来ている。濡れると肌寒い。
「中将様、これで雨をお拭きになってください」
佐理は御簾の下から手拭(てぬぐい)を差し出した。
御簾を挟み、互いの息使いが聞こえるほどの距離に中将がいた。
中将の手がそっと伸びてくるのが見えた。骨張った男らしい大きな手だった。
佐理の手は、女のように白くて細いと人から言われるが、中将の手と並ぶと本当に女の手のように見えた。
その佐理の手がいきなり中将の大きな手に包まれた。
驚いて御簾の内側に引っ込めようとするが中将の手がそれを許してくれない。
迂闊だった。が、もう遅い。
「このまま、今ひととき、このままで」
中将はぎゅっと手に力を込めた。
ドクンと脈打つ血潮が伝わってくるような熱さだった。佐理の心臓が早鐘を打つ。
雨と濃い伽羅の香りに佐理は酔いそうだった。
それは雨を愛でる二人への、一瞬の雨の悪戯だった。
きらめく雫を含んだ大波のような風が、佐理と中将を隔てる御簾をひるがえした。
時が止まった。
黒翡翠のような澄んだ瞳は深淵のように深く、形の良い眉は優しげで、顔の中心に位置する鼻は彫刻のように完璧だった。
その唇は愛しか語らぬかのように甘く、それでいて隠しきれない知性と品格が滲み出ていた。
リアル光の君。
中将はこれ以上ないほど、そう呼ばれるにふさわしい男だった。
整った顔立ちは言うまでもなく、海のように大きな包容力と、その水際を駆ける龍のような雄々しさ、そして、それらを照らす太陽のような温かさ。
中将はただ黙って座っているだけで、見る者にそんな印象を与える男だった。中将を前にして恋に落ちない女はいないだろう。
止まっていた時間が動き出す。御簾を押し上げていた風が力尽き、再び二人の視界が遮られそうになった時、中将は御簾をかいくぐって中に入ってきた。
反射的に部屋の奥へ逃げ込もうとする佐理を中将は後ろから抱きしめた。
「これ以上の無礼は致しません。だから逃げないで」
中将は佐理よりもずっと背が高く、回された腕は佐理よりも太く、その胸は佐理を後ろからすっぽりと包み込むことができるほど広かった。
佐理は中将の腕の中で身を固くした。何重にも衣を重ねているとはいえ、抱きつかれれば佐理が男だとバレるのではないか?
『男ではないか!』佐理を突き飛ばす中将の姿が脳裏をかすめる。
佐理は息を殺して覚悟を決めた。その時は土下座でもなんでもして許しを乞おう。花月嫌いの中将だ。許してはくれないかも知れないが、中将の気が済むまで謝り倒そう。
なんでこんなことをしたのかも正直に話そう。そして佐理の中将への気持ちも話そう。
人として中将に惹かれていること。友になれたらと本気で思っていることを。
しかし待てど暮せど中将は佐理を突き飛ばすどころか、しっかりと抱きしめた腕を緩めようとしなかった。
今か今かとその時を待っている佐理の耳元で中将は囁いた。
「十六夜の君、あなたのように美しい人を私は今まで見たことがありません。私の心臓が喜びで打ち震えているのが分かりますか? あなたの和歌は私が知る中で最も賞賛に値する和歌で、あなたの笛の音は私を夢中にさせました。あなたの優美で洗練された内面に私は何度深いため息をついたことでしょう。それだけでも十分なのに、あなたがこんなにも美しい人だったとは。今、こうしているうちに私の腕の中であなたが消えてしまうのではないかと思うほど、あなたは奇跡のように美しい」
佐理は自分の耳を疑った。
なんと! 中将に佐理が男だとバレていないばかりか、中将は佐理を美しいと?
あまたの本物の美しい姫君を見てきた中将がこの自分を奇跡のように美しいと?
それともこれがリアル光の君と呼ばれる、中将の究極の恋愛テクニックなのか。
そう思いながらも、中将のその言葉を嬉しく思っている佐理がいた。今まで男たちに美しいと褒められ言い寄られることは佐理にとって煩わしいことでしかなかったのに。
けれど間違ってはいけない。中将は佐理を高子だと、女だと思っているのだ。佐理と同じ花月嫌いの中将が、男にこんな言葉を吐くことは絶対にないのだ。
さあ、早く中将のこの腕を振り解いて、もう中将とは二度と会わないと言うのだ。
頭ではそう思うのに、佐理の身体は動かなかった。
中将に強く抱き締められていたのもある。けれどそれだけではなかった。中将の腕の中は心地良かった。
以前佐理は何度か男たちにこんなふうに不意に抱き締められたことがあった。その時は全身鳥肌が立ち、耐え難い不快感でいっぱいになった。
それなのに今、佐理は不快どころか心地良さを感じている。
これも全て中将だからだ。中将は何もかもが特別だった。
中将はその日、明け方までずっと佐理を腕に抱いたままだった。
笛を吹くことも、和歌を詠むことも、会話をすることもなく、二人はずっと互いの身体の熱を溶かし合った。
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