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第9話
それから佐理は、中将が御簾を超えて佐理のそばに来るのを許してしまうようになった。
そしてここでもやはり中将は紳士だった。佐理を抱き締めはするものの、それ以上のことをしようとはしてこなかった。
いつまでも中将の腕の中で身を固くし、絶対に身体を許そうとしない佐理に中将は呆れるどころか、ますますそんな佐理を愛おしむかのように優しい目をして見つめるのだった。
今や佐理は中将に嘘をついているという罪悪感で押し潰されそうになっていた。それと同時に中将に佐理が男だとバレた時のことを考えるとぞっとした。
自分が抱き締めていた相手が男だと分かったら花月嫌いな中将はどんなに嫌悪感を抱くことか。佐理にはその気持ちがよく分かる。
そしてまた、佐理は自分の気持ちにも激しく動揺していた。
初めて中将に抱き締められた時は心地良さを感じたが、最近の佐理の心臓はせわしく鳴り続ける。身体の温度が上がり、熱を出した時のように頭がぼんやりとする。
もしかしてこれが花月の花の男の気持ちなのか?
いやいやまさか、自分に花月の趣味は断じてない。佐理が中将に抱いているのは友愛であって恋愛ではない。女の振りをして中将と恋のまねごとをし、その広い胸に抱かれたりしているから、頭が混乱しているだけだ。
佐理はそう何度も自分に言い聞かせた。
中将が訪れない夜はやけに長く感じた。
今夜は月が美しい夜だった。いつもだったらこんな夜は必ず佐理を訪れる中将なのに。夜空を見上げる佐理の口からため息が漏れた。
もしかして中将は今、この月を誰か他の女と一緒に見ているのかも知れない。
そう思った瞬間、佐理の胸は凶暴な真っ黒い何かに噛まれたように痛んだ。
「なんだこの気持ちは?」
その答えはすぐそこまで来ていた。
が、佐理はそれを認めたくなくて、無理やりその答えを追い払った。
「行宮(あんぐう)に月を見れば 心を傷ましむるの色」
(仮の宮殿で月を見れば心が痛み)
佐理は静かに長恨歌をひとり舞った。
その日、大内裏では観月の宴が行われていた。
宴といっても優雅に月を愛(め)で、美酒に酔えるのは皇族と一部の上流貴族たちだけで、中流貴族たちは雅楽や舞で彼らを楽しませるためにゆっくり座ってばかりもいられない。
下流貴族の佐理に至っては、朝から宴の準備で大忙しだ。美酒どころか食事にもありつけないありさまだった。
夜空には黄金の繭のような見事な月が佐理を見下ろしていた。
遠くに水面にたゆたう船の明かりが見えた。笙(しょう)の音(ね)が池のほとりに立つ佐理のところまで聞こえてくる。
いくつも浮かぶ船の上では水面に映る月を愛でながら和歌を詠んだり雅楽を楽しんだりしている。
きっとその船の中のどれかに中将も乗っていることだろう。
内親王(皇女やその姉妹)たちがこぞって中将と同じ船に乗りたがったと聞いたとき、佐理は思った。
佐理にとって中将という人は水面に揺れる月のような人なのだと。眩しく目の前で輝いていても、決して手が届くことのない遠い遠い存在。
宴の御膳を運んでいる途中、池の東側を通りかかった。
ちょっとくらい休憩してもいいだろうと、いつもの庭石の上に立つと、池の中央に浮かぶ船たちからひっそりと離れて揺れる一隻の小舟が見えた。
ここからほど遠くないところに浮かんでいるその小舟から、男たちの笑い声が聞こえてきた。その笑い声の中に佐理は確かに中将の声を聞いた。
咄嗟に佐理は身を隠そうとしたが、思いとどまった。明かりの灯った舟上に比べると月明かりだけのここは暗い。よほどこちらに意識を払っていない限り、ここに人が立っていることは気づかれないだろう。
漏れ聞こえてくる会話から、小舟には帝に中将、それと蔵人頭(くろうどのとう)も乗っているようだった。他にももう何人か男性が乗っているようだったが、はっきりと誰なのかまでは分からなかった。
佐理は帝はもとより、蔵人頭とも実際に対面したことはないが、彼は中将の親友で中将と同じトップオブトップの上流貴族の男だ。
弓術が得意で、中将と並ぶほどのイケメンらしいが、中将と違って浮いた恋バナの一つもない、そっちの方面では堅物と噂されている男だった。
中将はてっきり内親王たちと一緒の船かと思ったが、佐理や中将と歳がそう変わらない若い帝が、気心の知れる男だけの舟に中将を誘ったのだろう。
月明かりをまとった風に乗って小舟の方から笛の音が聞こえてきた。
中将の龍笛だった。
やはりあの小舟に今、中将が乗っているのだ。
佐理は目を閉じ、笛の音に耳を傾けた。
初めて中将が佐理に会いにやって来た夜、二人で笛を奏でた時のことが思い出された。
自分も今、あの小舟の上で中将と一緒に笛が吹けたら。高子の振りをした佐理ではなく、瀬央佐理として、男の姿で中将と向き合えたらどんなにいいだろう。
そうして月夜の空で二人の音が触れ合った後は、
『十六夜の君……』
中将の腕が伸びてきて、今度は二人の身体が触れ合う。
そんな想像を巡らす佐理の背後に忍び寄る者たちがいた。
佐理がそれに気づいた時は後ろから羽交締めにされていた。
「うわっ」
驚いて叫んだ佐理の口が覆われ、そのまま地面に押し倒される。
口の中がドロリと苦く、何かを飲まされたようだった。訳が分からず頭が混乱している間に、身体を大の字に開かされる。
蠢(うごめ)く真っ黒な影は複数いた。
「薬が効いてくるまでしっかり押さえとけ」
その声に聞き覚えがあった。
いつも佐理にいちゃもんをつけてくる小納言の声だった。
小納言は佐理に覆いかぶさってくると、佐理の首筋をぬるりとした舌で一舐めし、佐理の狩衣を脱がせようとする。
ウーッ! ウーッ!
佐理は声にならない声を上げながら、肢体を揺すって抵抗した。
なかなか脱がせられないことに苛立った小納言は乱暴に衣を引っ張った。
布が細い悲鳴をあげる。佐理の月のように白い肌が夜の闇の中に露わになった。
それを見た男たちの興奮が空気を通じて伝わってきた。
「本当に女みたいに白いな」
「ちゃんと俺にも回してくれよ」
佐理はこれから自分の身に起こることを知り、全身から血の気が引いた。
佐理の口を塞いでいる手に思いっきり噛みつく。
「痛ってぇ!」
「誰かっ! たすっ」
声を上げたが、すぐに丸めた布が口に押し込まれる。
助けて! 中将!
佐理は心の中で叫んだ。
その時、ヒュッと空気を切り裂く音がした。
「ひっ」
佐理の上に乗っかっていた小納言がドスンと地面に尻餅をついた。
そのすぐ後ろの木に一本の矢が突き刺さっていた。
「そこにおるのは誰ぞ!」
水の上から声が聞こえてきた。
それは中将の声だった。
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