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第10話

「ヤバイこっちに来るぞ、逃げろ」  男たちは一斉に佐理から離れると茂みの中へと逃げ込んだ。 「待て!」  水音で小舟がこちらの岸に近づいてくるのが分かった。  自分も逃げなければ。今、中将にここで顔を見られる訳にはいかない。花月嫌いの中将に佐理が男だとバレてしまう。  気持ちは急(せ)くが、さっき飲ませられた薬のせいか身体が痺れうまくいうことをきかない。それでもどうにか近くの暗闇に身を紛れ込ませる。  小舟が着岸し、中将たちがこちらに向かってくる足音がした。  佐理はおぼつかない足取りで音を立てないよう暗闇の中を進む。 「どっちに逃げた?」 「見ろ、ここに何か落ちてるぞ」 「破けた布だ」  男たちの声がする。振り返るとさっき佐理がいたところに篝火の明かりが見えた。  佐理は都度、明かりの位置を確認しながらそれとは反対の方向へと逃げ進んだ。  そうしているうちにも身体の痺れはどんどん酷くなっていき、意識も朦朧としてきた。  そんな中で佐理の心だけが懸命に叫んでいた。  逃げろ! まだ終わりたくない! まだ中将に嫌われたくない!  足がもつれ、途中、何度も転んだ。最後は地面を這うようにして前に進んだ。着ていた狩衣を破かれたせいで、佐理の上半身は半裸に近かった。  そしてとうとう身体が動かなくなり、半ば意識を失いかけそうになったその時、突然佐理の目の前に長い黒い影が現れた。背中に大きな月を背負ったそれは、さっき佐理を襲った小納言のそれと重なった。  しまった!  佐理は最後の力を振り絞って身体を反転させた。  その瞬間、後ろからふわりと滑らかな物で覆われた。その上から強く抱き締められる。  ダメだ……、逃げない……と……。  途切れそうになる意識の中で、佐理の鼻腔が何かに反応する。  これは……。  が、遂に力尽き、佐理の意識は遠のいていった。  目覚めると自分の部屋だった。 「大丈夫か?」  すぐそばに清友の顔があった。起き上ろうとするが全身が異常なほど気だるく、それでもなんとか上体を起こした。 「私はいつの間に家に帰ってきたんだ。観月の宴は?」 「宴は無事に終わったよ」  清友も今日は佐理と同じように朝から宴の準備で大忙しで、宴が始まってからは主に御膳を作る台盤所(だいばんどころ)で働いていた。  清友曰く、そこへ男がふらりとやって来て、庭で助けを必要としている者がいるから行ってやってくれ、できれば清友一人で来てほしい、と耳打ちされたというのだ。 「その男はどんな男だった?」 「どこかの侍従だったけど……、身なりから言ってかなり身分の高い方に仕えている感じだった。行ってみたら佐理だったから驚いたよ」  佐理が意識を失う寸前に見たあの長い黒い影は、小納言ではなかったのか。 「佐理……、何があった?」  清友は意を決したように尋ねてきた。昨夜の佐理のあられもない姿を見て、清友はおおよそ何が起きたのか気づいているに違いない。 「押し倒されて狩衣を脱がされた、それだけだよ」  何もなかったと言うと、逆に清友は何かあったと思うだろう。だから事実をそのまま伝えた。 「本当にそれだけか?」 「それだけだよ、なんなら確認してみる?」  清友はカッと顔を赤らめた。 「ふ、ふざけるなよ」  そう言いながらも清友の顔にじわりと安堵の色が広がる。が、すぐにその目に怒りが湧いて起こる。 「誰にやられた?」  佐理を襲ったのは小納言だが、それを清友に言うと清友が何をするか分からない。相手は佐理たちよりも上位の貴族だ。対等ではない。喧嘩は両成敗ではないのだ。  また、今佐理の心を占めているのは、小納言への怒りよりも、中将に顔を見られなかっただろうかという恐れだった。  あの時、篝火は佐理の後方に見えていた。佐理の目の前に現れた影はただの通りすがりだったのだろうか。  後方からは声が聞こえていた。けど、それは中将の声だったろうか。よく思い出せない。なにしろあの時は頭が朦朧としていた。 「私を襲った相手は暗くて誰か分からなかった。それより、清友を呼びに行かせたのは誰なんだろう」  佐理は昨夜、気を失う前に見た黒い影のことと、その前に中将たちに助けられたことを清友に話して聞かせた。 「侍従は、近衛中将のそれではなかったと思う」  佐理が高子の振りをして中将と会っていることを知っている清友は佐理の気持ちを察してくれたのだろう、すぐにそう返してきた。  あの時中将以外にも、帝と蔵人頭を含めた数人の男たちがいた。が、あの影がそれらの誰かとは限らない。 「あ、そうだ、コレ。昨日佐理が羽織っていたものだ」  清友は佐理に上等な絹の羽織を手渡した。  勇ましく美しい麒麟(きりん)の刺繍が施されたそれは、着る者の財的な豊さと位の高さを表していた。  羽織に焚きしめられた香の香りが佐理の鼻の奥をくすぐる。  これは、この香りは。  佐理はゴクリと唾を飲み込んだ。  伽羅だ。  

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