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第11話

昨夜のことが蘇る。  佐理の身体を覆い隠すように包み込み、その上から抱き締められた。優しい腕だった。まるで中将が佐理を抱き締める時のような……。  そしてこの伽羅の香り。  佐理の背筋が凍りそうになる。 「佐理、心配するな。俺はそれは中将じゃないと思う。さっきも言ったけど、侍従は中将のところの者じゃなかったと思うし、もし中将だったらその場で一悶着あったはずだ。そうじゃなければ今頃ここに怒鳴り込んで来てるだろう」  清友の言う通りだと思った。  あの小舟には中将以外にも数人の男たちが乗っていた。もしこの羽織がその中の誰かの物だとしたら、小さな舟に一緒に乗っていた中将の伽羅の香りが移ったという可能性もある。  小舟には帝と蔵人頭もいた。蔵人頭も恐れ多いが、万が一佐理を助けてくれたのが帝だったらと思うと、佐理は眩暈がした。  待て、落ち着け、佐理。あの時、自分を助けてくれたのは、その辺を偶然通りかかった全く別の人物の可能性だってあるのだ。  けど、だったらこの羽織に焚きしめられた伽羅の香りは何だ?  偶然中将と同じ最高級の伽羅を使っている人物がいるのか。それとも中将の侍従か? 中将の侍従だったら中将の羽織を持っていてもおかしくはない。  中将の侍従がその辺を通りかかった他の侍従に清友を呼びに行かせた、そうとも考えられる。 「佐理、そう心配するな、中将に顔は見られてはない。瀬央の家がどうにかなることはないから」  佐理を気遣う清友の言葉が佐理を後ろめたい気持ちにさせる。  佐理が今、一番心配しなくてはいけないことは家のことなのだ。中将を騙していたことがバレれば、その怒りに触れるのは佐理だけではない。高子や両親を含む瀬央氏全体の問題になる。  なのにそれよりも佐理は、自分が中将に嫌われることの方を恐れていた。家族をないがしろにしている自分を佐理は恥じた。 「佐理、もし何かあったら俺を頼れ」  清友は佐理の肩を抱くと、そっと自分の方に引き寄せた。 「ありがとう、清友」  清友の友情にも佐理は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。佐理は清友の肩に頭を預けた。 「佐理様」  そこへひょいと小君が御簾の端から顔をのぞかせた。  二人を見て小君が「あっ」という顔をしたので、佐理と清友は慌てて離れる。何も悪いことはしていないのだが、変な誤解をされるのも面倒だ。 「今夜近衛中将様がいらっしゃられるそうです。高子様への文も預かって参りました」  いつものように香が焚きしめられた文に添えられているのは萩の花だった。 「小君」  下がろうとする小君を清友が呼び止める。 「その、中将様はいつもとお変わりはないか?」  小君はその愛らしい小さな頭をわずかに傾けた。 「これと言って何も……、ただ」 「ただ?」 「中将様はそれはとてもとても高子様がお好きなようです」  小君は小さなひまわりのような笑顔を咲かせて笑った。  小君が行ってしまっても、なかなか中将の文を読もうとしない佐理に清友が訊いてくる。 「読まないのか?」 「清友が読んでくれ」 「えっ、だって小君もああ言ってたし、絶対にバレてないって」  それでも頑(がん)として読もうとしない佐理に代わって、清友はおずおずと文に手を伸ばした。  佐理は視線を部屋の隅にやりながらも、文を読む清友の反応を全身でうかがっている。今か今かと清友の第一声を待つが、待てど暮らせと清友は何も言わない。 「清友?」 「……」 「清友、中将はなんて言ってきてる?」 「……」 「清友!」  我慢できず佐理が清友の方に顔向けると、目の前に文があった。いつもの中将の美しい字で和歌が書かれていた。 ――山の端に 沈みゆく夕陽 いかばかり熱しといはむ 我が君への焦げむ想ひとあはさば  (山の端に沈んでいく太陽がどれほど熱いというのでしょう。私のあなたへ焦げるような想いと比べれば) 「これを読んでもまだ心配か? さすが佐理だなぁ、あの天下のプレイボーイをここまで夢中にさせているんだから。溺愛されてるじゃないか」 「でもこれは数日前に書いた和歌かも知れない」 「往生際が悪いな。この萩の花は今さっき摘まれたばかりのように見えるぞ」  清友の言う通り、紫色の萩の花はしゃんと首をもたげて佐理を見つめていた。  萩の花と言えば、佐理の家の前の萩もちょうど今が満開だった。  中将の家の庭にも萩があるのだと思うと嬉しくなった。  が、すぐにそんな事に喜ぶ自分に戸惑いもした。  その声は、全く何の前触れもなく、それはまさに不意打ちで、最初佐理は幻聴が聞こえたと思ったくらいだ。 「十六夜の君……」  御簾の向こうから再び聞こえたその声で、佐理はそれが現実だと知った。 「十六夜の君、そこにおられるか」 「中将様?」  佐理は佐理と同じように目を大きく見開いて驚いている清友と顔を見合わせる。 「いらっしゃるのは今夜では?」  女は男の訪問に備えて色々と準備が必要だ。そのため男は訪れる日と時刻を前もって知らせるのがマナーで、今まで中将がそれを破ったことは一度もなかった。  今日だってさっき小君を遣いによこしたばかりではないか。 「そうなのですが、どうか無礼をお許しください。どうしても一目、十六夜の君とお会いしたくて」  もしかして文に添えられている萩の花は、佐理の家の前のものだったのか? 「こ、困ります。今はとてもじゃないですが中将様にお会いできるような姿ではないので」  そう答える佐理の横で清友は家の奥へ入って行ったかと思うと、女物の衣とカツラを手に戻ってきた。 「他に誰かそこにおられるのか?」  清友の気配を感じ取った中将がすかさず訊いてくる。 「兄の友人の苅野清友様がいらっしゃいます」 「……。十六夜の君は私とは会えないが、苅野殿とはお会いになられるのですね」  中将が清友に嫉妬している? 確かに兄の友人とはいえ、年頃の娘が男と二人きりというのは疑われても当然だ。

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