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第12話

 先に動いたのは清友だった。  清友は佐理に目配せするとひらりと御簾の外に出て行った。その横顔がひどく緊張していた。  相手は近衛中将だ。ただでさえ自分より身分がずっと高い相手の前に出るのは緊張するのに、近衛兵に強い憧れを抱いている清友にとって、近衛府のその中将と言ったら神様みたいな存在だろう。  それでも御簾の向こうから清友の堂々とした声が聞こえてくる。 「お初にお目にかかります近衛中将様。苅野清友と申します。高子とは子どもの頃からの付き合いで、それはもう妹みたいなもので。それにしても今日の空はなんとも清々しい秋晴れでございますなぁ」  清友が時間稼ぎをしている間に佐理は急いでカツラを被り女物の衣に袖を通す。  準備が整うと佐理は御簾の外の二人に声をかけた。 「それでは私はこれにて。じゃあな、高子」  清友がそう言って帰って行くと、すぐに中将が中に入って来た。  いつもは必ず佐理の承諾を得るのに、乱暴に御簾をかいくぐって来た中将の顔はまるで怒っているように見えた。  もしややはり、佐理が男だと気づかれたのでは!?   佐理の背中がヒヤリとした刹那、佐理は中将の腕の中にいた。 「十六夜の君……」  息ができないほど強く抱き締められる。 「ちゅ、中将様……くる、しいです」  中将はまるで佐理の声が聞こえていないかのように無言で、なおも佐理を抱き締める腕に力を込めた。 「刈谷殿は本当に兄上のご友人、ただそれだけですか?」  中将が怒っているように見える原因はそれか?   バレたのではないと分かり佐理はほっとする。 「十六夜の君、私はあなたが他の男と話をするのも、あなたの瞳に他の男が映るのも嫌だ。兄上のご友人であろうとも、誰であろうとも嫌だ」  中将の激しい嫉妬に佐理は驚いた。いつもはこの上なく優雅で良識ある立ち振る舞いをする中将が、こんな子どもっぽい嫉妬を隠そうともせず佐理にぶつけてくるとは。 「清友は……、本当にただの兄の友人です」  佐理の声が中将の胸の中でくぐもる。 「苅野殿はあなたの特別な人ではないのですね?」  佐理は答えに迷う。清友は特別と言ったら佐理の特別な友人だ。でもそれを言うとまた誤解を招くだろう。 「清友は兄だけでなく私の大事な友人でもありますが、それだけです」 「本当に?」 「本当にです」  中将と佐理の間に少しだけ隙間ができる。中将が佐理を見下ろしていた。 「それでは私は? 私はあなたにとってどんな存在ですか?」  中将の瞳の奥が、期待と不安、そして抑え難い佐理への恋情で揺れていた。 「少しでも、私を恋しいと思ってくださいますか?」  中将の懇願するような濡れた言葉に佐理のみぞおちが疼いた。 「教えてください、あなたの気持ちを」  中将の指先が佐理の唇にそっと触れた。輪郭を確かめるようになぞると、二枚の花びらの間にわずかに指先を差し入れてくる。 「私の愛しい人……」  中将に伝えたい言葉を佐理の心は知っていた。けれどそれを言ってはいけないと、それを認めてはいけないと、佐理の心以外の全てがそう警鐘を鳴らす。  中将と佐理のこの関係は偽りなのだ。もう終わりにしなければ。今度こそ終わりにしなければ。さぁ、佐理、言うのだ。佐理は中将のことなどなんとも思っていないと。だからもう二度と中将には会わないと。  唇が震え、乾いた口内で言葉が空回る。  さぁ、早く言うのだ、佐理。  胸がねじれ悲鳴を上げた。目頭が熱くなり視界が歪んだかと思うと、つっと温かいものが頬を伝った。 「わた……しは……」  途切れ途切れに喘ぐような佐理の言葉ごと、中将の唇が佐理の口を塞いだ。  まるで佐理にその先を言わせまいとするかのようだった。  微塵も佐理に逃げる隙を与えず、中将は激しく佐理の唇を吸った。弾力のある舌が入ってきて戸惑う佐理の舌を絡め取る。  中将の口の中の生温かい粘液が佐理の乾いた口内に滴(したた)ってくる。高貴で優美な中将の奥底に潜む、男の本能をその口づけが物語る。  中将との、初めての、それは長い口づけだった。  今までずっと抑制してきたものが一気に爆発したかのような深い口づけだった。  中将に唇を奪われながら、佐理は自分の身と心が根こそぎ中将に奪われていくのが分かった。自分が自分でなくなっていくようで怖くなる。   中将の唇が佐理の唇から離れ、耳元に落ちた。  カッと佐理の中心が熱くなり、佐理は中将の胸を両手で押しやろうとした。 「これ以上は無理強いしない、だから逃げないで」  耳元で囁かれ佐理の熱は今にも火がつきそうになる。  中将は言葉の通り、佐理の衣の襟を暴くようなことはしなかった。その代わり、佐理の唇、耳たぶ、首筋を時間をかけて何度も味わった。  最初は早急で激しかったその愛撫は、佐理が中将の腕の中でとろけていくと、ゆっくりと優しいものになっていった。  いつの間にか辺りは暗くなり、庭の草陰では虫が羽音を奏で始めていた。  佐理を膝に乗せたまま、笛を吹いていた中将は不意に腕を下ろすと佐理の頬に口づけた。 「どうしてそんな悲しそうな顔をするのですか」  佐理は小さく頭(かぶり)を振る。閉じた目頭がまた熱く湿る。  中将は佐理の瞼に口づけ、そしてまた二人の身体を一つにしてしまうような深い口づけで佐理の中に中将を流し込んでくる。  もう抵抗はしなかった。抗えば抗うほど中将から逃れられなくなった。  東の空が白む明け方まで、二人は千の口づけを交わした。  伽羅の残り香が漂う部屋で、佐理は肩を震わせて独り泣いた。  もう自分の中将への気持ちを偽ることはできなかった。  中将に女のように腰を抱かれ、唇を吸われ、佐理は身体の中心を疼かせた。  小納言に首筋を舐められた時は、身の毛がよだつほどぞっと背筋が凍ったのに、中将には身体の疼きだけを残し他は芯が抜かれたように腑抜けになった。  誰かを恋い慕うということは、こんなにも切ないものなのか。  叶わぬ恋とは、こんなにも辛いものなのか。  中将という溶鉱炉で飴色に溶かされた佐理はこの先どこへ流されていってしまうのだろう。

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