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第32話

「あなたは……、帝だったのですね……」  遅れてきた実感に、膝の力が抜け、佐理はへなりとその場にしゃがみ込みそうになる。  御座の帝は風のようにそばにやって来て、佐理の身体を支えた。 「佐理……」 「なぜ、近衛中将などと……」 「嘘をついてすまなかった。そうしないと私は自由に出歩くこともできない身なのだ」  帝はためらいながらも、佐理の身体に腕を回し、佐理が嫌がる様子を見せないのを見てとると、佐理を強く抱きしめた。 「そなたをこうしてもう一度腕に抱きたかった」  佐理は帝の胸の中で深く息を吸い込んだ。  恋しい伽羅の香りがここにあった。  帝が残していった羽織の残り香を抱いて寝た夜もあった。  ああ、でも、佐理が本当に求めていたのはこの香りだ。  今なら分かる、残り香は残り香でしかないと。  体温を伴う伽羅は頭がぼんやりするほど芳醇で幻想的で甘かった。  佐理が帝の背中に手を回すとピクリとその背中が反応した。  帝の胸に押し当てた佐理の顔をのぞき込む気配があった。  佐理が恥じらうようにそれから逃れようとすると、顎をついっと、持ち上げられた。  潤んだ黒い瞳に捕われる。帝が何を望んでいるのかが分かった。  佐理はその長いまつ毛で覆われた瞳をそっと閉じた。  今までで、一番優しい口づけだった。  まるで佐理の唇が薄い砂糖菓子でできているかのように、壊してはいけない大切なものに触れるかのように、そっと佐理の唇を唇で挟むだけの口づけだった。  もどかしさを感じたのは佐理の方だった。  もっと帝と深く混じり合いたい。  佐理は半開きの口から、疼くようなため息を漏らした。    艶かしい桃色の舌が佐理の唇の間からのぞいた。  それが合図だった。  帝は噛み付くように佐理の唇を覆うと、そのまま舌を絡ませてきた。  同時に身体も床に押し倒される。  帝の舌で佐理の口内が翻弄される。  佐理は帝にしがみついたまま、激しい口づけに応える。  何も考えられなかった。  頭の中で桜吹雪が舞っていた。  さわさわと風がそよいで、御簾を揺らしていた。  唇が離れた後も、ぼんやりする視界に、風と一緒に入り込んできた桜の花びらがひらひらと舞っているのが映った。濡れた唇がひんやりする。 「花月嫌いの佐理に嫌われるのが怖かった」  佐理の頭上で帝の声がする。  佐理はまだ帝の胸に抱(いだ)かれたままだった。 「私も花月嫌いの中将に嫌われるのが何よりも怖かったです」 「名前を借りる人選を間違えたな。でも色々と仕方がなかったのだ。佐理、私が佐理に初めて会ったのは、瀬央の家でではないのだよ」  佐理は帝の胸の中で、もぞもぞと頭を起こした。 「それは本当ですか?」  帝はその時のことを思い出しているのか、遠くを見るような目をして頷いた。  まばゆい太陽の下で蝉たちが盛んに羽を震わせている、あれはある夏の日だった。  公務の帰り道、ふと息抜きがしたくなって立ち寄った白い水蓮の花が咲き誇る池のほとりで、それは聞こえてきた。  白居易の長恨歌。  透明感のある韻を踏む声に引き寄せられた。  水面に白い太陽の破片が落ちて散らばったように輝いていた。  それは、ほんの一瞬だった。  その中に、  水蓮の精がいた。  幻覚を見ているのではないかと思った。  濡れた湯帷子(ゆかたびら)に透ける肌は白く、異国のガラス細工を思わせる瞳。まるで花びらの唇。  キラキラ輝く水しぶきを従えて、水蓮の精が舞っていた。  我を忘れてその光景を見入った。  神々しく、幻想的だった。一瞬が永遠に思えた。あたかもそこが世界の中心で、全てはそこから始まり、愛と光となって溢れ出てきている。そんなふうに見えた。  それは今まで自分が見てきた中で、一番美しいものだった。  が、その時間は泡が弾けるように突然に終わってしまった。水蓮の精はこちらに気づくと一瞬で水に潜って逃げてしまった。  いくら目を凝らしても、もうそこに美しいその姿を見つけることはできなかった。あるのは蝉の声と水面をなでる風だけ。  自分は幻を見たのだろうか。けれど瞼を閉じれば眩しく現れるその姿がそれが現実だと言っていた。  その日から、熱病にうなされたように頭がぼんやりし、寝ても覚めても水蓮の精のことばかり考えるようになった。  もう一度会いたい。  強くそう思った。  あの日、付き従っていた侍従に調べさせることにした。数日後、侍従は有力な情報を持ってきた。  あの池の近くには下流貴族の瀬央氏の家があり、瀬央氏には年頃の姫君がいるとのことだった。  あの水蓮の精はその姫君なのか?

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