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第33話

確かめたくて、いても立ってもいられなくなった。  けれど自分の立場を忘れたわけではなかった。自分の正体を知られたら睡蓮の精は、またあの時のように一瞬で逃げてしまうかも知れない。  自分の力を使えばできないことは何もなかった。が、無理やり手に入れようとしたら、あの存在は水の泡のように儚く消えてなくなってしまいそうだった。  隠れ蓑が必要だった。  その仮面を被るのに無理がなく、秘密を守ることができそうな人物。  第一に頭に浮かんだのは蔵人頭だった。  が、蔵人頭は堅物で有名だった。どこぞの姫に通い始めたと誰かに知られたら、あっという間に噂になる可能性がある。  それはまずい。恋の噂が立っても大丈夫そうな人物でないと。  いた、恋の百戦錬磨が。  近衛中将だ。  リアル光の君と名高い、プレイボーイ。いつも恋の噂が絶えない色男。  常に何人もの姫君の元に通っているから、それに一人加わったところで誰も関心を抱かないだろう。  中将は格好の隠れ蓑だった。プレイボーイという軽薄さがたまに傷だが、そんなことを言っている場合ではない。それに中将は悪い男ではない。  果たして中将は快くその名を貸してくれた。  が、条件があった。妹の定子に文を贈ることを許して欲しいとのことだった。  妹を売るようで気が引けたが、定子も子どもではない。嫌だったら、断ればいい。  文の遣いには素直で賢い小君を選んだ。 『いいかい、瀬央のお姫様に私が帝だと告げてはいけないよ。近衛中将様からの文だと言って渡すのだよ。いいかい、絶対にそれを間違えてはいけないよ』  小君はつぶらな瞳を輝かせ、大きく頷いた。  そうして、贈った文の最初の返事を持って帰ってきた小君は言った。 『瀬央の高子様は、なんとも凛々しいお方でした。高子様のお兄様の佐理様は僕が今まで見たどのお姫様よりも美しいお方でした』  頭の隅で何かが煌めいた。  もしかして……。  すぐに佐理について調べさせた。  瀬央佐理は、若き才能溢れる青年だった。  漢詩に明るく和歌と笛の名手で、何よりもその舞は見る人を一瞬で魅了するという。  なかでも長恨歌に合わせて舞うその姿は、筆舌に尽くしがたい素晴らしさで、佐理のその見目の麗しさは、花月趣味の男やそうでない男たちまでもが色めき立つという。  が、その一方で佐理自身は大の花月嫌いで、今まで一度も男の申し出を受け入れたことはない。  あの日自分が見た水蓮の精は、高子ではなく佐理だ。  そう確信した。  佐理が大の花月嫌いだと分かった時、最初は諦めようと思った。  今まで自分に花月の趣味があると思ったことはなかった。けれど佐理が男だと分かっても、すでに胸のうちに芽吹いた佐理への恋心を消すことはできなかった。  だとしても、嫌がる相手に無理強いすることはできない。  諦めなければいけないと思った。  けれど諦めきれなかったのは、佐理が妹の高子の振りをして文を返してきたからだった。  文句のつけようがない和歌の返しに、すぐにそれが佐理のものだと分かった。念のため、小君にも尋ねた。 『この文は誰からもらった?』 『高子様からと言って、佐理様が僕にくれました』  間違いないと思った。  妹の高子については佐理よりも前に調べさせていた。  それによると高子は武芸においては男並みかそれ以上に秀でているが、楽器やその他の芸事はからっきし不得手だと聞いていた。  ことのほか和歌は大の苦手で、どうやったらこんな和歌が詠めるのかというほどセンスの欠片もないらしい。    そして高子は大の男嫌いでもあった。高子は月の女だった。  きっとそんな妹の身を案じて兄の佐理が高子の代役をかって出たのだろう。自分も男が嫌いなのに。  その佐理の優しさにますます惹かれた。  佐理の詠む和歌に何度も心を打たれた。  御簾越しでいい、一度でいいからじかに会って話してみたい、そう思った。  帝として、男の佐理と接触することもできた。けれどきっと佐理は自分の前では萎縮してしまうだろうし、花月嫌いの佐理に愛を囁くわけにはいかなかった。  が、今、佐理は高子の振りをしてくれている。それを利用しない手はなかった。  文のやり取りは佐理が高子になりすましているが、実際に会うとなるとどうだろうか。一抹の不安はあった。    が、御簾の内から聞こえてきた卓越した高麗笛の音に、そこにいるのが佐理だと確信した。  東の空が白むまで、二人で笛を奏でた。  そして別れの朝、あの時は一度は決心したのだ。もうこれが最後だと。  けれど自分を追って来た笛の音を聞いた時、心がうち震えた。

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