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 帰りの挨拶が済み、広いキャンパスを時々散策している皐樹の足は、今日は高等部棟の最上階に向かった。  最上階の四階には礼拝堂がある。  階段を上ってすぐの廊下の突き当たり、両開きのガラス張りの扉をそっと開けた。白い漆喰壁。高い天井。張り巡らされた剥き出しの梁にアンティーク調の照明器具。高等部の生徒を収容できる広さで、中二階席もある。正面の講壇の中央には説教卓、左の角には立派なパイプオルガンが設置されていた。  ずらりと並ぶ木造の長椅子、説教卓に真っ直ぐ続く通路沿いの前方に一人の生徒が着席していた。  男子生徒のようだ。すっと背筋を伸ばして講壇の方を向いている。皐樹は最後列に腰を下ろした。三年生の教室まで返しにいこうか迷ったが、桐矢と顔を合わせるのが嫌で手元に置いていたレジ袋をスクールバッグと共に横に下ろす。  カーテンは束ねられて西日が格子窓を染めていた。肌寒い。毎朝の礼拝とは趣きの違う午後のひと時に目を閉じれば鳥の囀りが聞こえた。市街地だというのに街中のノイズは遮断されて、礼拝堂には心地よい静けさが流れていた。 (今日の晩ごはんはどうしようかな)  皐樹は取り留めのない雑念に捕らわれる。親交が途絶えた友達のことを思い出したりもした。病室で最期を迎えた母親のことも。  数十分が経過した頃だろうか。  瞼の裏に鋭い眼差しと不敵な笑みがちらついて目を開けた。手をつけていないレジ袋をチラリと見、そろそろ帰ろうかと腰を上げる。前方に座っていたはずの生徒は、いつの間にかいなくなっていた。  通路へ出た皐樹は、数メートル先のところで当の生徒が蹲っているのにぎょっとした。 「大丈夫ですか⁉」  荷物を放り出して駆け寄り、カフェテリアで桐矢と一緒にいた水無瀬廻だとわかった。 「水無瀬さん、どうしたんです、具合が……」  水無瀬は通路で胎児のように丸まっていた。顔からは血の気が失せ、蝋の色をした片手は腹部を押さえていた。 (何だろう?)  今すぐ教師を呼びにいくべきなのに、胸の内がささくれ立つような、無視できない違和感に囚われて皐樹は棒立ちになった。 「……う」  水無瀬が呻吟する。皐樹は我に返った。一先ず教師を呼んでくるため、その場から離れようとした。 「待ってくれ」  半身を起こそうとしている水無瀬が視界に入り、慌てて背中を支えた。 「水無瀬さん、俺、先生を呼んできます」 「呼ばなくていい」  黒々とした睫毛を伏せて水無瀬は吐き捨てた。体調不良のせいなのか。カフェテリアでの穏やかだった物腰からは想像できない、刺々しい声だった。 「お腹が痛いんじゃないですか? 誰か呼んだ方が……」  皐樹は口を閉ざした。明けの明星の如く瞬く瞳に見据えられ、底無しの深淵に呑まれるような錯覚に背筋を震わせた。 「舜を呼ぶから、いい」  水無瀬はズボンのポケットから食み出ていた携帯を手にした。僅かに震える指で彼の連絡先を選ぶと、電話をかけた。 「舜、アレが来た、チャペルにいる」  それだけ告げると、携帯を床に落とし、また背中を丸めて腹部を押さえた。  桐矢が来る。  苦しむ水無瀬を一人にはできずに、皐樹は無言でただ寄り添い続けた。  西日に溺れた礼拝堂。  彼がやってくるまでの、たった数分間が、とてつもなく長く思えた。 「廻」  ガラス張りの扉を勢い任せに開き、モッズコートの裾を翻して、桐矢は礼拝堂へ飛び込んできた。

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