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第1話
講義が終わった後、スマートフォンを見ていた大輝があっ、と小さく声を上げた。
「緊急招集がかかった。春陽も来る?」
こちらに向けられた小さな液晶画面を覗き込む。大輝が所属しているアウトドアサークルのグループラインに、2年の先輩から場所と時間が記されていた。
「行く」
「オッケー。じゃ、春陽も行くって連絡しとく」
本来、飲み会のような賑やかな場は苦手だった。それでも断らなかったのは、大輝が誘ってくれたからだ。
田中大輝とは初めて大学で会った。同じ1年で、専攻も同じ。初日の講義でたまたま隣になり、向こうから声を掛けてきた。人見知りする俺とは違い、初対面でも物怖じせず、地方から出てきて知り合いがいないから仲良くしてほしい、名字で呼ばれるの好きじゃないから大輝って呼んでほしいと言われて、連絡先を交換した。もっとも、それは俺に対してだけではない。その後も同じ講義を受けている人に声を掛け、たくさん友人ができたらしい。構内で大輝を見かけると、だいたい誰かと一緒に行動している。
それに引き換え俺はというと、入学してから半年で顔見知り程度の知人は増えたが友人と言えるのは大輝ぐらいなものであった。
変わりたいという抽象的な願望で他県の大学を受験し、環境を変えることで自分が変われることを期待したが、根本的なところは何も変わっていない。
小学生の頃から人と関わることが苦手で昔から友人が少なかった。大学デビューを期に人脈を広げようと勧誘を受けた様々なサークルに顔を出してみたものの、すぐに疲れてやめてしまった。
そして、根暗な俺を気にかけ仲良くしてくれる人に恋してしまうことも相変わらず。
ハルヒという女みたいな名前のせいなのかは知らないが、恋愛対象は男。もちろんこんなことは誰にも相談できるはずがなく、今までずっと隠して生きてきた。当然実った恋などない。
自覚したきっかけは、思春期まっただ中の中学生の頃、事故で母親の裸を見てしまったこと。母親がまだ風呂場にいることを知らずに脱衣所のドアを開けてしまった。全体的にたるんだ皮膚、特に張りを失いしぼんで垂れた乳房が強烈に目に焼き付いて、女の体を気持ち悪いと思うようになってしまった。また、意地悪な姉のせいで女性に対して苦手意識を植え付けられた。
惚れっぽい自覚はある。自分のことを気に止めて優しくしてくれるだけで相手のことを好きになってしまう。大輝が好きだ。この恋も、実ることなく闇に葬られるのだろう。
時間まで空き教室で課題をしながら時間を潰し、大輝と指定された居酒屋へ向かった。5分前には到着したはずだが、すでに20人くらいが3つの小集団を形成しており、机上には大量に空いたグラスが並んでいる。
小集団のうち、同学年が多いグループの近くに大輝と並んで腰を下ろした。相変わらず知らない顔が大半のカオスな飲み会だ。
ほとんど飲みサーと化しているアウトドアサークルの基本方針は来る者拒まず。知った顔はおそらくサークルのメンバー。知らない顔のほとんどは俺みたいに誘われて参加している部外者だろう。最初に幹事に支払いをするので、途中退出は自由。参加するのはこれで3度目だが、居ても居なくても誰も気に止めない気楽さが心地良い。
いつもはサークルメンバーの上級生が少数のかわいい女子を囲んでちやほやしているのだが、今日は少し様相が違っていた。女子がおらず、代わりに一番目立つグループの中心にいたのは女子受けする綺麗な顔の男の人。周りに煽られて無茶な飲み方をしているように見える。
「なあ、あの人誰?」
「羽田さん?」
俺の視線の先を追って大輝が答える。何番目の席のとか、茶髪の人とか言わなくても通じるくらいには彼は目立っていた。
「俺もよく知らないけど、1回参加したことあったよ。春陽はその時いなかったっけ。そん時も今日みたいに飲まされてたな。また振られたんじゃない?」
なるほど。そういう理由ならおもちゃにされているのもわかる。持たざるものの妬み嫉みで、イケメンが振られたのが愉快でたまらないのだろう。
俺達が入学して半年。大輝が一度飲まされているところを目撃しているというので、つまり少なくとも半年でふたりは彼女がいたことになる。単純にすごいなとも思うが、どうせ見た目だけだろうとも思う。特に何をされたわけではないのだが、女子に騒がれるような男は鼻持ちならない。こういう歪んだ性格を見透かされているからモテないのだろうという自覚がある。彼女など、自分には関係のない話だが。
「なるべくあそこに近づかない方がいいよ」
忠告されなくても、自分が入っていける場所ではない。適当な相槌を打って話半分で聞き流す。
席を離れた大輝が、そのままずっと戻って来ない。飲みの席ではずっと1カ所に留まっていられないタイプらしく、隣の島に移ってこの席の机上にはもうない唐揚げをつまんでいた。初めて参加したときは心細く思ったものだが、今では遠巻きに楽しそうな大輝を観察しながら食べるご飯が旨い。
飲み会もそろそろたけなわ。ウーロン茶を飲んでいると、元々大輝が座っていた席に誰か来た。
「ねえ、君うちの近くのコンビニでバイトしてる子じゃない?」
羽田さんだった。いつの間にグループの中心から抜け出してきたのだろう。顔が真っ赤で、かなり酒臭い。
「うちの近くかは知りませんが、コンビニでバイトしてます」
なんで話しかけてきたのだろう。人見知りの自分としては、カーストの頂点にいるようなタイプの人間とはなるべく関わり合いになりたくない。用事がそれだけならさっさといなくなってほしいのに、羽田さんは大輝の使っていた箸で唐揚げの下に敷いてあったレタスを食べている。
「何飲んでるの?」
「普通のウーロン茶です。まだ未成年なんで」
「偉いねー。俺なんて大学入ってから普通に酒飲んでたわ。ね、それちょうだい」
嫌だなと思いながら、飲みかけのウーロン茶を渡した。大輝使っていた箸を平気で使っているくらいだし、衛生観念がザルなのだろうか。
残り少なかったウーロン茶を一気に飲み干し、羽田さんが肩に頭を預けてきた。甘ったるい香水の匂いがキツい。
「君優しいね。名前なんて言うの?」
「逢坂です」
「下の名前は?」
「春陽」
「俺は羽田大地」
目をとろんとさせて甘ったるい声で話すので、このまま寝るんじゃないかとハラハラする。羽田さんの体温が高く、触れている肩がじわじわ熱くなる。女子相手だったらこれでイチコロなのだろうが、俺にとっては迷惑極まりない。肩に凭れたまま、ぎょろっと目だけで見上げてくる。
「家どの辺なの? コンビニに近い?」
「はい」
羽田さんの身体がどんどん傾いてきて、ずるっと頭が滑った。机にぶつけるかと一瞬焦るが、俺の膝に手を付いて自分で受け身をとっていた。
「はははっ、心臓うるせー」
俺の胸にぐりぐり頭を押しつけながら羽田さんが笑う。誰のせいだと内心悪態をつく。
「春陽ぃ、頭撫でて」
話に脈絡がなく、完全に酔っ払っている。
気付けば、みんなが面白いものを見る目でこちらを見ていた。羽田さんは見世物になっていることにも気付かず、俯いたまま撫でられ待ちの姿勢をとっていた。助けを求めて視線を彷徨わせるが誰も助けてくれる気配はなく、大輝はこちらの方を見ていなかった。
いきなり眼鏡を取られた。何事かと羽田さんの方を向いたときだった。首に腕が回され、引き寄せられたのと同時に口が何かとぶつかった。眼前にはどアップで羽田さんの顔があった。わっと周りがにわかに活気づいた。
何が起きたか理解できずフリーズしている間に羽田さんが俺の眼鏡をテーブルの上に置き、両手で顔を挟んでもう一度羽田さんが唇をくっつけてきた。
「ちょ、やめ」
後退りすると、隣の人に背中が当たった。
「んっ」
今度は口の中に舌が入ってきて、ぎゅっと目を瞑った。一瞬だったような、それよりもっと長かったような気がする。気が付くとギャラリーによって羽田さんは引き剥がされ、近くにいた人に大丈夫? と声をかけられていた。口元を拭いながら、助けるならもっと早く助けてほしかったと思う。トイレ、と言い残し眼鏡をかけ直して席を立つ。こちらを見ていた大輝と目が合った。
洗面台の鏡を見てぎょっとする。酒は一滴も飲んでいないのに顔が真っ赤になっている。
蛇口の水を手で受け止め口に含む。何度も口をすすいでゴシゴシと口を拭った。羽田さんの唇の柔らかさ、口に侵入してきた肉厚なものの熱さとぬるっとした感触、酒の臭いが消えない。
鏡越しにドアが開いたのが見えてビクッとする。中を窺うように大輝が顔を見せた。
「もうお開きにするって。大丈夫そ?」
「もしかして俺が空気悪くした?」
「違う違う。飲み放題の時間来ちゃったから次行くんだって。春陽は来ない……よな?」
頷いて肯定する。もう羽田さんに絡まれるのは嫌だし、さっきのことでからかわれるのも嫌だ。とにかく今日はもう帰りたい。
「羽田さんに絡まれてたけど、知り合い?」
大輝が俺の隣に移動する。眼鏡を外し、水で顔を洗いながら答える。
「さあ? バイト先のお客さんなんだって」
「あの人さ、酔うとすげー甘えてくるしキス魔になるんだよね」
それで今日女子が呼ばれなかったのかと理解した。男が相手なら笑い話で済むが、女相手では冗談にならない。最初に近づかない方がいいと警告された意味をようやく正しく理解した。だからみんな面白がって飲ませるし、絡まれて困っているときもニヤニヤしながら見ているだけで誰も助けてくれなかった。
「俺もあの人にキスされたことあるよ。だから、春陽も早く忘れちゃいな」
「えっ」
先に戻ってるからと言い残し、大輝がトイレを出て行った。
大輝が出て行ったドアを見つめながら、羽田さんと大輝がキスしている光景を想像した。そのとき大輝はどんな顔をしていただろうかと想像しそうになって、慌てて打ち消した。
俺にとって大輝はアイドルみたいなもので、愛欲の対象ではない……と自分に言い聞かせる。
トイレから戻ると、みんな店を出るところだった。空気がばらけていて、気まずい感じにならなくてほっとする。大輝が俺のバッグを持って待っていてくれた。
店先でカラオケに行く組と帰宅組に別れた。大輝は二次会に行くと言うのでここでお別れだ。羽田さんは行きたがっていたが、さすがにもう帰れとみんなに言われて帰宅組。
帰宅組は駅に向かう人が多く、その後ろを付いていった。面倒見のいい先輩が羽田さんを見張っていて、俺に近づけないように気を遣ってくれていたのがわかった。駅に着くと、大半が改札をくぐるが俺はここからバスに乗る。羽田さんも家が近いみたいなので同じバスに乗ることになるだろう。親切な先輩が、俺に近づかないよう釘を刺してくれているのが聞こえた。
バス停に向かうと、やはり羽田さんも後ろを付いてくる。バスを待つ間、さっきはごめんねー、と羽田さんが声をかけてきた。口先だけの薄っぺらい謝罪だったが酒の席でのことだし、もういいですよ、と返事をした。
5分ほど待ち、やってきたバスに乗車する。席はいくらでも空いたのに、当然のように羽田さんが隣に座ったのでびっくりした。バス待ちの間は特に何か喋りかけてくるわけではなくずっとスマホをいじっていたので、俺のことはもう居ないものと思っているのだとばかり思っていた。
バスが動き出すまで、羽田さんはずっとスマホをいじっていた。ひとりの世界に没入していて、隣に俺がいようがいまいがどうでもいいように見えた。警戒しすぎだったかと、少し肩の力を抜く。この人が近くにいると疲れる。これまで関わりがなかったし、これきりできっと接点もなくなるのだろう。
バスが発車し、ぼんやりと窓の外を見ていた。乗客はサラリーマンやOLがほとんどで、気だるい雰囲気が満ちている。振動が心地好くて、空気感に引きずられて眠くなってくる。
いきなり肩に重みが乗り、振り返ると羽田さんがインカメにしたスマホを斜め上に掲げていた。俺が何か言う前に、カシャッとシャッターを切る音がする。何事もなかったかのように、羽田さんが俺の肩に頭を預けたままスマホを見て、声は出さずに肩を震わせて笑っている。
「ちょっと。今撮りましたよね? 消してください」
「ねー、見てこれ」
苦情を無視して見せられた画像は今さっき撮られたものだったが、肌の色はほぼ白に近く、目は顔の半分ほどあり、頬と唇には不自然に赤くなっているといった具合で気持ち悪く加工されている。あははは、と笑いながら写真をラインへ投下された。ほぼ同じタイミングで俺のスマホが振動する。まさかと思ってラインを開いてみると、先程の集まりのグループチャットに投稿されていた。この人、完全に狂ってる。
周囲から冷めた視線を送られるが、君子危うきに近づかずで誰も文句を言ってこない。居たたまれずに気配を消すことに努める。
「連絡先教えて」
嫌です、と返事をすると、スマホを取り上げられて勝手に友達登録された。ブロックするなよ、と言いながらスマホを返されるが、頃合いを見計らってブロックすることになるだろう。
「どこで降りる?」
「教えません」
「そっか。まー別にいいけどね」
頭を俺の肩に預けたまま、拗ねたように言う。羽田さんが口を閉じたことによって車内は再び気だるい雰囲気に包まれた。
ゼロ距離、スキンシップ過多、隙だらけ。羽田さんが女だったら間違いなく俺に気があるだろと勘違いする。モデルみたいな容姿で、誰にでもこんな態度だったらモテるのも納得がいく。
傍から見たら、俺達はどう見えているのだろうか。酔っ払った迷惑な大学生の先輩後輩ならいい。ゲイカップルだったとしても、羽田さんの見た目がいいから気持ち悪いとは思われないだろうか。
急におとなしくなったと思ったら、羽田さんが目を閉じている。このまま寝るつもりなのかと思っていたら、かすかにいびきをかき始めた。どうしよう。羽田さんの最寄りのバス停を知っていたら起こすのだが、俺が降りるバス停に着いても眠ったままだったら、ほっといてもいいのだろうか。
「次は○○、○○です。お降りのお客様は」
アナウンスが俺の降りるバス停の名前を告げたところで、パチッと羽田さんが目を開けた。やべー寝てたわ、とあくびをしながら降車ボタンを押す。近所だろうとは思っていたが、最寄りが一緒だった。一緒に降りるのはなんとなく嫌でひとつ先のバス停まで乗ろうかと考えたが、時間も金も無駄なので一緒に降りることにした。ほぼ同じタイミングで席を立つと、羽田さんが嬉しそうな顔をする。
「うち寄ってく?」
「はあ?」
「酒買って飲み直そ」
バス停を降りて、すぐ向かいのコンビニを指差して羽田さんが言う。ここで解散したかったが、酔っ払いを放っておくことに一抹の不安を覚える。知らない人に絡んで付いて行ってしまうかもしれないし、周りを見ないで道路に出て車に轢かれるかもしれない。
俺の返事を待たず、羽田さんが思いのほかしっかりした足取りで道路を横断していた。慌てて後を追いかける。何かあったときのことを想像すると家まで送り届けた方が安心だ。
「春陽のバイト先ここでしょ」
「はい」
ひっそりとした住宅街の、一際明るいコンビニに足を踏み入れる。本当に俺のこと知ってたんだなと、少しだけ照れくさくなる。羽田さんくらいの美形なら印象に残っていそうなものだが、じろじろ客の顔を見ているわけでもなく常連以外はほとんど覚えていない。おそらくここで会ったことはあまりないのだろうが、よく覚えていたなと思う。
かごを持った羽田さんは冷蔵コーナーへ直行、缶酎ハイを3本入れていた。欲しいのあったら入れていいよと言われたが遠慮しておいた。
レジを打ってくれたバイト仲間と2,3言立ち話をしてコンビニを出る。何も考えずに後ろを付いていったが、俺の住むアパートに近づいていることに気付いて落ち着かない気持ちになる。嫌な予感が的中し、羽田さんが入って行ったのはやはり俺が住んでいる白い壁のボロアパートだった。
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