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第7話
羽田さんがうちを訪ねてきたのはあれから3日後のことだった。夜10時過ぎに玄関のチャイムが鳴り、念のために覗き穴を確認してからドアを開けた。羽田さんが上下共に黒の部屋着姿で、片手に袋を提げて立っている。来てくれて嬉しい気持ちと、悪い話なら聞きたくないという気持ちがせめぎ合って言葉が出てこない。
「ケツ洗ってきた」
「は?」
口火を切ったのは羽田さんで、脳裏に念入りに泡でお尻を洗う羽田さんの像が浮かんだ。その想像が間違っていたことは、羽田さんに突きつけられた袋の中身を見て判明した。
お邪魔しまーす、と言いながら、羽田さんが俺の横をすり抜けて部屋に上がった。ちょっと、と言いながら、玄関の鍵の施錠をしてから羽田さんの後を追う。
「勉強してたんだ」
机上に広げられた参考書やノートを見て羽田さんが言う。
「はい、でももう今日は終わりにしようかなって思ってたところなので」
わかりやすく嘘をつくと、羽田さんに正面から強く抱き締められた。近頃ぐっと冷え込んできた。夜風に当たって少し冷たくなった身体を、そっと抱きしめ返す。どちらからと言わずキスをした。
「もう来ないのかと思ってました」
「大袈裟だなー。寂しかったの?」
「はい」
先輩にとっては、いつもの冗談のつもりだったんだろう。素直に返事をすると、羽田さんが目の色を変えた。少し強引にキスをすると、ベッドの側まで俺を引っ張ってきて服を脱ぎ始めた。
「春陽も脱いで」
気圧されて、言われた通り服を脱いだ。やけにもたついたが、自分の手が震えていたからだと気付いた。それは決して寒さのせいではないが、鳥肌が立つくらい肌寒いことには変わりなかったのでエアコンのリモコンに手を伸ばす。その手がリモコンに届くことはなかった。後ろから羽田さんに手を掴まれて仰向けにベッドに押し倒された。
「あーもう、春陽かわいすぎ。頼むからそんな煽るな」
俺の上に腹這いになった羽田さんが、俺の唇に口づけてくる。さっきまで怒っているみたいで怖かったのに、触れる唇は柔らかくて安心感を覚える。空気はひんやりしていて冷たいが、羽田さんと触れ合っているところだけはじんわりと温かい。
「その、すみませんでした」
キスの合間に謝罪が口から零れた。
「何が?」
「俺のせいで気を遣わせてしまったみたいで。もし無理してるなら」
それに続く言葉は、腹に硬いモノを擦り付けられて飲み込んだ。
「ここ、こんなんになってるのに無理してるわけないでしょ」
余裕のない表情で睨らまれてゾクッとした。羽田さんの首に恐る恐る腕を回し、そっと抱きしめる。羽田さん好きです、と口に出すと、愛しさでぎゅっと胸が締め付けられた。ふっと息を吐き出し、優しい声色で羽田さんが言う。
「春陽がしたいことは俺も一緒にしたいからさ。これからは遠慮とかしないでほしい」
「はい」
頷いて応えると、羽田さんの顔が近づいてきて唇が重なった。飽きずにキスを繰り返しながら、羽田さんの手が俺の性器に触れた。最初はなぞるように撫でていた手が柔らかく性器を握り込み、ゆっくり上下に動き始める。徐々に擦る力が強くなり、スピードも速くなって絶頂に追い詰められていく。俺も何かしなければと思っていたのに、羽田さんの首に手を回しているのが精一杯だった。
「春陽、舌出して」
羽田さんの目には俺の反応をからかって楽しむ余裕はなく、ギラギラしていて少し怖い。言われた通りに舌を出すと、俺がいいって言うまでそのままね、と明言してからかぷっと俺の舌に甘噛みしてきた。
「ん!」
一旦は反射で引っ込めたが、またすぐに舌を出した。舌先をちゅっと吸われ、ジンと脳が甘く痺れる。暖房は付けなくて正解だった。身体が火照って冷えた空気が心地良いくらいだった。
頭がぼうっとして舌も腰も痺れてきた頃、手淫が止んだ。首を抱いていた腕を外し、羽田さんが上体を低くしてベッドの下に長い手を伸ばした。まだ止めてほしくなくて夢見心地で背中に腕を回すと、コラ、と優しい声でたしなめられた。
羽田さんがベッドの下から引き上げたものを見て本来の目的を思い出す。それは羽田さん自身が持ってきた袋で、中身がベッドの上に広げられた。開封済みのコンドームの箱、半分ほど減ったローション、同じく開封済みの浣腸薬と先端がシリコンでできた大人のオモチャが入っていた。早速羽田さんは箱の中からゴムを取り出し、封を切っていた。
「わ、ちょっと」
「ん? いーから、いーから」
完全に勃ちあがった俺の性器に、羽田さんが慣れた手つきでゴムを被せた。何もかも全部羽田さんにお膳立てしてもらっていることに今更気付いて、恥ずかしくて居たたまれなくなる。
「羽田さん、場所変わってください。ここからは俺がやります」
そう? とあっさり羽田さんは提案を受け入れてくれた。俺が身体を起こすと、交代で羽田さんが俺の寝ていた場所に寝そべった。
「腰上げてください。その方が楽だってネットで見たので」
「ネット」
「どうせ経験ないですよ。からかわないでください」
腹は立つが、俺をおちょくるぐらい余裕がある方が羽田さんらしい。俺を小馬鹿にしながらも、頭は伏せたまま腰だけ上げて発情期の雌猫のような姿勢をとった。きゅっと締まった恥ずかしいところは丸見えで、足の間から見えるぶら下がった陰嚢がひどくいやらしい。羽田さんの扇情的な姿に痛いくらい性器が反応を示していて、改めて自分の性対象は男なんだと認識する。この格好恥ずかしいな、とぼやく羽田さんに欲情した。ポーズも相まって、征服欲が搔き立てられる。これまで羽田さんを性的な目で見たことはなかったと言えば嘘になるが、今ほどの暴力的な衝動に突き動かされたことはなかった。
ギリギリのところで理性を働かせ、中指にゴムを付け、たっぷりとローションで濡らした。すぼまったところに触れると、ビクンと羽田さんが身体を揺らす。挿れるまでは抵抗感があったが、奥まで挿れてしまえば中は温かくて柔らかく絡みついてきた。
「痛くないですか?」
「……んッ」
返事とも、ただの呻き声とも判断が付かない声が返ってきた。指がスムーズに抜き差しできるので、痛いわけではないのだろうと勝手に判断し、すぐに指を二本に増やした。
「うーッ」
指が強い締め付けに合うが、中はまだ余裕がありそうだった。羽田さんは顔を埋めていた枕を強く握り締め、足先を軽くバタバタさせた。軽い拒絶に一瞬戸惑うがそれも最初だけで、くちゅくちゅと指を動かしているうちに、呻き声を漏らしながら羽田さんの身体は弛緩していき、腰が揺れ始めた。興奮しきって頭がぼうっとしてくる。指を3本に増やす。
「ん゛ッ、はぁ、はぁ」
挿れるときはやはり侵入を拒むように指を締め付けてくる。さすがに3本となると中も狭く感じる。
「大丈夫ですか?」
羽田さんの呻き声がひどく苦しそうなものだったので、便宜上声を掛けた。
「一旦抜いて」
大丈夫と言われることを想定していたので中断することになるとは思っていなかった。ローションでどろどろになった指を引き抜き、その場で居住まいを正した。羽田さんがのっそりと身体を起こす。一体何が悪かったのだろう。それとも、やっぱり羽田さんは男は無理だったのだろうか。俺の正面に胡座を掻き、じっと顔を見つめてきた。
「春陽、変なこと考えてるだろ」
「考えてないです」
てっきり怒られるのかと思った。だから咄嗟に顔を背けた。
「やっぱり前からシよ。何されるのか見えないの怖いわ。それから、そんな丁寧にしなくていいし。自分で馴らしてこれぐらいは挿るようになってるから」
羽田さんが俺の目の前でディルドを振って見せる。先がだいぶ柔らかいようで、羽田さんの手の動きに合わせて大きく撓った。オモチャよりも、腕の鳥肌に目が行く。指を挿れたときから全身に鳥肌が立っていることには気付いていた。
「無理してませんか?」
「元々そういうところじゃないんだし、多少無理しないとできないだろ」
確かにその通りだ。欲に目が眩んでいたが、羽田さんに負担を強いてることはしっかりと認識するべきであった。だが、そういうことではなくて。
「やっぱり、男とするの無理だって思ってませんか?」
「前からシようって言ってるだけなのに、どうしてそうなるかなぁ……。まーいいや。とりあえず、挿れろ」
あっけにとられる俺の目の前で羽田さんが誘うように大きく足を広げた。中心でモノが屹立しているのが目に入り、自分の思い込みが間違っていたことを悟った。ほら、と腕を引っ張られ、前のめりになって両手を身体の横についた。早く挿れろという圧に負けて覚悟を決める。跪座の姿勢をとり、羽田さんの両足を膝に乗せた。ゴムを付けた性器を解したところにあてがい、ゆっくり腰を進めていく。
「う゛ッ、ン゛」
全身を強張らせ、羽田さんが表情を歪める。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
反射的に腰を引きそうになるが、飲み込まれた先をぎゅっと締め付けられて思いとどまった。ここで止めたら、長く羽田さんに負担をかけることになる。
「硬ってぇ。やっぱ本物は違うな」
こんなときに不謹慎だが、苦しそうに顔を歪めて強がる羽田さんがひどく健気で愛おしかった。柔らかい肉にゆっくりと丸呑みされている感覚で、羽田さんの体内に根元まで納まるのに長い時間を要した。羽田さんの足が俺の腰に絡みつき、顔を両手で挟まれて無理矢理目を合わせられる。
「ははっ、すっげー顔してる」
何に対して笑われたのかはわからない。元々羽田さんは俺にとって理解できない人なのでそれはいい。羽田さんの中は蕩けそうなくらいすごく気持ちいい。同時に、狭くて自由に動けなくて苦しい。目の前のわけのわからない人が愛おしい。全部がごちゃごちゃになって、きっとそれが全部顔に出ている。そういう羽田さんは苦しげに眉根を寄せながらも嬉しそうな顔をしていた。
「動いていいですか?」
「どう、ぞ、ぁ」
羽田さんの返事を待たず、浅く腰を引いて打ち付けた。気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。柔らかい肉が絡みついてきて、狭くて温かい。羽田さんの喘ぎ声と、打ち付けた振動が腰に響く。羽田さんの両手が首と頭に巻き付き、上体が引き倒された。互いの唇を貪りながら羽田さんの性器を扱くと、腹の中のモノをぎゅうっと締め付けてきた。
「あっ、ああ、あ、イッ」
ビクビクと全身に力を込めて身体を痙攣させながら、手の中のモノから断続的に白い液体が飛んだ。射精が済むと、羽田さんが身体を弛緩させた。中を擦ると、一瞬にしてビクッと羽田さんの身体に力が入る。もう、自分の意思では腰を振るのを止められなかった。それどころか、どんどん動きが大胆になる。
「はる、ヒッ、待っ」
「羽田さん、羽田さん」
頭の中ではすみません、すみませんと詫び続けているのだが、いかんせん行動が伴わない。腰をぐいぐいと羽田さんの身体に押しつけ、種付けするように最奥でゴムの中に射精した。征服欲が満たされ、疲労感とともに満足感が押し寄せてきた。
しばらく羽田さんが離してくれなくてベッドの中で抱き合っていたが、喉が渇いたので隙を突いて抜け出した。服を着ながら羽田さんに何か要りますか? と聞いたところ、ビールと言われたのでマグカップふたつに牛乳を注いで電子レンジに入れた。羽田さんは目も当てられないほど乱れたベッドの上に胡座を掻いて、俺はベッドの縁に座って甘めに作ったホットミルクを飲んだ。ベッドの上で行儀が悪いと思うが、今更である。普段はうるさい羽田さんが静かなせいでなんだか落ち着かない。飲み終わったらシーツを剥いで代わりにバスタオルを敷こう。
「春陽、俺に男とするんの無理かって聞いたじゃん? 春陽以外は絶対無理だわ」
「あ……はい」
頭が馬鹿になって忘れていたが、挿れる前、確かにそんな話をしていた。そのときは羽田さんが萎えていなかったから、それだけでよかった。
「春陽が男を好きなことを後ろめたく思っていることはなんとなく理解してるけど、そんなお前のことが俺は好きだぞってことは覚えておいてほしい」
「はい、ありがとうございます」
改めて言葉にされなくても、雰囲気や態度で充分に伝わっている。それでも、やっぱり嬉しいものは嬉しい。緩んだ口元を、空になったマグカップの縁に付ける。するといきなり後ろからマグカップが取り上げられて、テーブルの上に置かれた。
「もう一回しよ」
「え?」
「なんでパジャマ着てるんだよ。もう一回脱げ」
俺からしたら、寒いのになぜ服を着ないんだろうと思っていた。羽田さんがじゃれついてきて、ズボンと下着の追い剥ぎに遭った。
「一万円で足りる?」
以前サービスしてもらったし、友達を連れてきてと言われたので、バイト代が入る今日、平田と、羽田さんのバイト先の焼き肉屋に行く約束をしていた。このことは羽田さんには伝えていない。突然行って驚かせるつもりだった。平田には予め割高だと伝えた上で誘っているので恐々としているらしい。高いのばっかり頼まなければ大丈夫、と返事をした。
「何、どっか行くの?」
突然大輝が会話に入ってきてびっくりした。俺が告白をしてからほぼ疎遠状態になっていた。
「羽田さんのバイト先に、焼き肉食いに行く話してたんだ」
平田が答え、大輝がへーと食いついてきた。
「俺も行こうかな」
一体どういう風の吹き回しだろう。俺だけじゃなく事情を知っている平田も驚いた顔をしていた。だが、何でもいい。もう以前みたいに恋愛感情としての好きという気持ちはないが、元通りとまではいかなくても、少しでもいいから友情の修復ができないかと願っていた。
ホラー映画を見てから焼き肉に行く予定だったが、大輝が加わったことで予定を変更し、ゲームセンターやアパレルショップを冷やかしてから焼き肉屋へ向かうことになった。平田と大輝は服の好みが似ているらしく、ふたりで盛り上がっていた。最初はどうなることかと思っていたが、告白以前の状態に戻れたような気がした。
辺りがどっぷり暗くなった頃、俺の先導で焼肉屋へ向かう。ちょうど夕飯時だったので客席はほぼ埋まっており、肉を焼く音と、道路まで漏れ出る食欲をそそる匂いが充満していた。客層はサラリーマンがほとんどで、中には親子連れの姿もあった。
席に案内してくれた店長の奥さんも、注文を聞きに来てくれたその息子さんも俺のことをよく覚えてくれていた。息子さんが気を利かせて、大地呼んでこようか? と言ってくれたが、忙しそうだったので断った。だが、案内された席が従業員通路に近い席だったのですぐに気付かれることとなる。
「あれ、春陽じゃん。何してんの?」
料理を待つ間に雑談していると、羽田さんの方から声を掛けてきた。白のワイシャツに黒のパンツ。その上に黒のエプロンを身に付け、料理やドリンクを乗せたお盆を持っていた。
「来るなら来るって言ってよ」
「すみません、驚かせようと思って」
羽田さんは口ではびっくりしたよ、と言うがあまり驚いているようには見えない。
「今日ラストまでなんだよね。何時までいる予定?」
「食べたらすぐに帰ります」
遠くからすみませーん、と声が掛かり、はーい、ただいま、と反射的に羽田さんが応答する。
「ごめん、行かなきゃ。ゆっくりしていって」
羽田さんが慌ただしく横を通り過ぎて行く。早口だったし、こんなに忙しいと思っていなかったので、邪魔だったかな、と少し反省する。隣に座っていた平田からは良い感じじゃん、とからかわれて恥ずかしかった。
「羽田さんって、平気で浮気するとか二股かけるとか噂あるじゃん。大丈夫なの?」
ボソッと大輝が口を開き、一瞬で空気が凍り付いた。大輝の意図が読めずに一瞬眉を顰めるが、付き合う前から女関係でトラブルがある人だと聞かされたことがあったのを思い出した。これが羽田さんに対する客観的な評価なのだろう。
「その噂が間違ってるんだと思う。羽田さんは情が深いから、浮気されることはあってもしたことはないって言ってたよ」
羽田さんとの最初の出会いは、失恋した羽田さんを慰めるという名目の飲み会だった。どちらかと言うと羽田さんは酒に強い方で、自分の知る限りあんなに酷い酔い方をしていたのはあのときだけ。傷心だったのは間違いない。平田は気まずそうに気配を消している。
羽田さん自身、恨み妬み嫉みを買って陰で悪く言われていることは知っているらしい。今後付き合う上で嫌な噂を耳にする機会もあるかもしれないから先に聞いておいてほしいと、嫌な話をいくつか聞かされたことがあった。それは脚色されて一方的に羽田さんが悪者に仕立て上げられていたり、ありもしない話を捏造されたりと、聞いていて気分のいい話ではなかった。何を信じるかは春陽の自由だけど、と諦めたように笑う羽田さんの顔は今でも忘れられない。
あらかじめ話を聞いておいてよかった。そのときは人間って怖いな、モテる人は大変だなくらいに思っていたのだが、実際にその機会が訪れるとは思ってもみなかった。
「俺も人から聞いた話だからどこまで本当かわからないけど、いい噂聞いたことないから気を付けた方がいいよ」
「うん、ありがとう」
彼氏を悪く言われたのだから、怒るのが正解なのだろう。お礼を言うと、大輝がバツの悪そうな顔をした。もしかしたら大輝は、俺を心配して悪役を買って出てくれたのかもしれない。その証拠に、邪気のようなものは感じられない。
「こーら、春陽に変なこと吹き込むな」
急に羽田さんが割り込んできてびっくりする。一番驚いていたのは大輝で、ビクッと身体が跳ね上がっていた。羽田さんが手に持っているお盆には注文したチョレギサラダとそれぞれのドリンクがあり、注文を確認しながらテーブルの上に配膳されていった。
「羽田さん、俺、信じてるので大丈夫です」
お盆が空になり、炭火に火を入れる羽田さんに声を掛けた。平気そうな顔をしていたが、この人は図太いようで繊細なところがある。だが、そんな配慮はいらなかったかもしれない。ソファ席に座ったまま、ぎゅっと頭を抱き締められた。
「あー春陽マジいい子。このまま一緒に帰りたい」
「今日ラストまでなんでしょ。頑張ってください」
見た目は清潔感があるが、やはりエプロンからには焼肉屋独特の匂いが染みついている。
「バイト終わったら家行ってい?」
「いいですよ。いいですから、早く仕事に戻ってください」
やっとのことで追い返すと、大輝が目を丸くしてこちらを見ていた。無視できなかったので、何? と一応聞いてみる。
「あんなデレデレの羽田さん初めて見た」
前に彼女を連れている羽田さんを見かけたとき、妙にクールぶっていて鼻持ちならない印象だったと、おおよそそのようなことを大輝が口にする。羽田さんは家ではぐうたらのダメ人間だが、外では「格好つけ」であの外見なので、妙に嵌まって騙されそうになる。大輝の印象は多分間違っていなくて、おそらく彼女の前で格好つけようとしていたのだろう。またまたタイミング悪く羽田さんが肉を運んできて、お前いい加減にしろよ、と大輝に注意していた。
それから羽田さんは何度も慌ただしく俺の横を行き来した。最初のうちは何度も目が合ったが、だんだんそれもなくなった。常に全体を見渡していて、声が掛かる前に客席に行って注文を取り、空いた皿やグラスを片付けていた。今日の目的は友達を連れてくること、羽田さんを驚かせること、そして、羽田さんが働いている姿を見ることだった。外面完璧の羽田さんは、やっぱり働いている姿も格好良かった。
帰るときくらい声を掛けようか迷ったが、忙しそうだったのでやめておいた。席を立つ前に集金し、伝票を持ってまとめてレジで支払いをした。後ろで平田と大輝があ、と小さく声を上げているのを聞いて、羽田さんが来たことはなんとなく予想がついた。ズン、と背中が重くなる。
「何も言わないでいなくなるなんて冷たいじゃん」
ぎゅっと俺の背中にしがみつき、ぐりぐりと額を後頭部に押しつけながら拗ねたように言う。
「忙しそうにしてたので」
「俺も連れて帰って」
「大地、あんたは仕事」
お釣りを用意しながら叱り飛ばす店長の奥さんが、なんだか母親みたいで可笑しかった。
「春陽、大地さんって呼んでみ?」
ようやく頭をあげた羽田さんが、いきなりおかしなことを言う。
「大地さん?」
「そ。さーて、じゃあ残りも頑張りますかー」
意外にも、羽田さんがあっさり背中から剥がれた。てっきり店を出る直前まで子泣きじじいを背負うことになると思っていた。お釣りを受け取り、人数分の割引券をもらった。ありがとうございました-! と羽田さんの爽やかな声に見送られ、切り替えの早さに驚きながら店を出る。道路に出て、お釣りと割引券を分配した。
「割引券ももらったし、また行こうな」
レジ横からもらってきた薄荷飴を舐めながら大輝が言う。俺と平田が仲良くなってから仲間はずれにされたみたいで寂しかったと、大輝が子供みたいなことを言っていた。また3人で来ることになりそうだが、そのためにはバイトの給料日を待たなければならない。
駅で別れ、ひとり帰路に就く。しばらく歩いていると、ふと足が止まった。羽田さんの下の名前が大地だったことを思い出し、ようやく帰り際に下の名前で呼ばされていたことに気付いた。
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