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【第1話】一つ目の嘘 1

 一ノ瀬真紘が国近肇と初めて会ったのは、高校生の時だった。  それは、都で行われた剣道の大会だった。何の大会だったのかは覚えていないけれど、それなりに規模の大きな大会だったと思う。  会場となったのは都で二番目か三番目に大きな武道館で、道衣姿で竹刀袋を背負った生徒たちが右も左もうろうろとしていた。リノリウムの床を進む足音がやけに響いて、誰かの話し声や竹刀の音が会場中に反響していたのを覚えている。あちこちにある両開きの重たいドアは開け放されて、そこからよく晴れた日差しが武道場全体を明るく照らしていた。  先輩が、顎をくいっとやって、会場の奥の方を指し示す。 「あれ、お前の次の対戦相手」  ずば抜けて有名ではないけれど、時々名前を聞く中堅校のブースだった。  その中の真ん中。長身の男が、部員に囲まれて柔らかに笑っている。  穏やかだけれど、不思議な威厳を感じられる男だった。少し日焼けをした健康そうな肌に、しっかりとした黒髪が映えている。芯の強さを感じられる真っすぐな瞳を持っていた。 『国近』  名札に刻まれたその文字は、彼の穏やかな威厳と古風な雰囲気にぴったりだと思った。  同級生だったけれど、彼は一ノ瀬や周囲の生徒よりも一歩か二歩大人びているように見えた。 「はー、イケメンだ」  部員の一人が言った。 「見ろよ、観覧席。すっげぇ女子が騒いでる」  見上げると数人の女子グループが固まっていて、手すりから身を乗り出し、国近を眺めながらきゃっきゃとはしゃいでいる。その目が随分と熱っぽいものだから、こっちまで気恥ずかしくなって一ノ瀬は目を反らした。 「あいつ、強いの?」  先輩に向き直って問いかける。 「いや、名前は聞いたことねぇな」 「まあ、俺ら弱小校は、ゆるく参加だけしとけばいいだろ」  厳密に言えば、一ノ瀬のチームはそこまで弱小ではなかった。先輩だって小学生の頃から剣道教室に通って段を持っている。ただ、どうしても強豪校に勝てるほど実力があるわけではない。それに、一ノ瀬の通う高校は全国でも有数の進学校で、一部の熱心な生徒以外は部活動に重きをおいていない。一ノ瀬自身も、部活動の参加が義務付けられているから参加しているけれど(それも子どもの頃に少しかじっていたという理由で剣道部を選んだだけで)、そうじゃなければ受験に集中していたことだろう。その頃、一ノ瀬はちょうど医学部を目指していた。  一ノ瀬たちはよくこうやって、よく言えば遊惰に、悪く言えば怠惰に、自分たちを揶揄することがあった。 「終わったら飯食って帰ろうぜ」  先輩が笑う。焼き肉がいいだのラーメンがいいだの、奢ってくれだの、そんな声で盛り上がった。 *  剣道の試合は三本勝負だ。二本先取した方が勝ち。ただし、一方が一本を取り、制限時間が経過したときはその者が勝つ。また、引き分けの場合は延長戦が行われて、先に相手から一本取った者が勝利となる。  正方形のコートに、向かい合って立つ。一ノ瀬は背が低い方ではないけれど、長身の国近は一ノ瀬よりも十センチほど背が高いように見えた。しかし、剣道は体格に恵まれたものが勝つとは限らない。むしろ、体格の大きな人間には、小さな動きが苦手だったり、間合いを広く取らなければならなかったりという弱点もある。  勝機がないわけではないと思っていた。  ホイッスルの音で、試合が始まる。  初めは竹刀の先を打ち合う、お互いの実力を試すような太刀が続いた。  国近が腕を引いた。踵が一歩下がる。  来る。そう思って一ノ瀬は身を固くした。  次の瞬間だった。 「一本!」  審判の声が響く。  頭上に衝撃が広がって、かろうじて面を打たれたことに気が付く。  先制点を取られたらしい。 「え」  戸惑いが胸の中に広がる。  ――いま、何が起こった?  しかし息をつく暇もなく、試合はすぐに再開された。  今度は一ノ瀬も黙ってはいなかった。竹刀を握り直し、縦に横にと打ちながら彼の隙を探す。  再び国近の腕が引かれた。胴までの道が開く。そこを目掛けて一ノ瀬は竹刀を振った。  しかし。  バシッと宙を切る音がした。吹いた風が、面を通って頬に伝わる。  手元から竹刀が零れて飛んでいく。それは大仰な音を立てて、コートの外へ落ちた。  その場所にはちょうど先輩たちがいて、ぎょっとした様子で竹刀とこちらを交互に見比べていた。  衝撃に一ノ瀬の身体はバランスを崩す。気づけば尻もちをつくような形で床に座っていた。 「一本!」  審判が旗を掲げる。 「(強っ……)」  一本目も二本目も、筋肉の動き出しは見えているのに、太刀筋は全く見えなかった。打突が恐ろしく早いし正確だ。 「(噓だろ? こんなやつが無名?)」  頭上の国近が、竹刀を下す。面を外すと、凄惨な打突と対称的な、柔和な顔が露わになった。 「すまない。強く打ちすぎた。大丈夫か?」  そう言って、床の一ノ瀬に向かって手を差し伸べる。 「いや……」  試合なんだから当然だろう。むしろ手加減された方がむかつくが?  おかしな気遣いに、張りつめていた気が一気に抜ける。  いや、もしかしたら彼の雰囲気がそうさせるのかもしれない。 「……強いね、君」  一ノ瀬がそう言うと、国近は薄く笑った。それは少し照れたような表情で、その時、一ノ瀬は紛れもなく、彼は自分と同い年なのだと悟ったのだ。 それから一ノ瀬は国近の好意を甘んじて受けて、彼の手を握り返した。その手は随分骨ばっていて、大きな手だと思った。  定位置に戻って礼をする。  踵を返してお互いの輪の中に戻った。 「おつかれぃ」  と先輩に肩を叩かれた。 「やべぇな、あいつ。歯が立たないとか、化け物じゃん」  昔から、大抵のことは器用にこなすことができた。  剣道だって決して強くはないけれど、あっさりとストレート負けをしたことは数えるほどしかない。敗北の苦みと、自分は決して彼には叶うことはないのだろうという鈍い諦めが、胸の奥を巡った。  ふと、振り返って国近のブースを眺める。  国近は、もうこちらを見てはいなかった。  また、少しだけ大人びた表情に戻って笑っていた。  数年後。警察学校で彼と再会した。  彼が自分と同じ、第二性を持っているというのをそのとき知った。 *  東京。霞が関。警視庁。  総務部企画課犯罪被害者支援室の一ノ瀬真紘は、フロアの奥に向かって進んでいた。  時刻は午後二時半すぎ。今日は面談が長引いて休憩が遅くなってしまったので、一ノ瀬はちょうど昼食を取ったばかりだった。ほどよく満たされた腹が眠気を誘う。欠伸を噛み殺し、気分転換にと向かった先は、そのフロアにある喫煙室だ。昨今禁煙化への動きが進んでいて、めったに人がいることはないのだけれど、今日は先客がいるみたいだった。  ガラス張りの扉の向こうで、このフロアでは、ほどんど見かけることがないある人物が立っていた。  こちらに気づいた彼が、一ノ瀬に向かって軽く手を挙げる。  一ノ瀬の同期で、刑事部捜査一課の刑事――国近肇がそこにいた。  一ノ瀬は扉を開けて、ブースの中へと足を踏み入れる。 「めずらしいな。お前、普段煙草吸わないだろう」  奥の方に立ち、優雅に壁へと寄りかかっている彼に問いかけた。 「……ああ、まあな」  という憂い気な返事が返ってきた。  彼の指先に挟まれた煙草は、半分ほどが燃え尽きている。フィルターの部分が全く湿っていないところを見ると、どうもまともに煙を吸う気はないらしい。 「……」  わざわざ人目を避けて、喫煙室まで休憩を取りにきたということは、何かあったのだろうか。昨今、刑事部は来年度から始動する新課の準備に追われていた。それはダイナミクス性を利用した犯罪を取り締まるための専門機関で、国近が主担当になっている。けれど、その件はもうあらかた片付いて、あとは予算案の修正と何件かの決裁が戻ってくるのを待つだけだとも聞いていた。  とすれば……。  ブースの真ん中には古いベンチが置かれている。それにどかっと腰を掛けながら、一ノ瀬は考えを巡らせた。庁内の未決事件で国近が担当しそうな事件――。  ああ。連続婦女暴行の件か。 「被疑者は確保したんだろう。遺体、まだ見つからないのか」  どうやら当たりみたいだ。 「ああ、遺体は見つかったんだけれど……」 「ああ……」  歯切れの悪い返答に、一ノ瀬は悟る。  つまり、損傷がひどかったということだろう。 「……そんなに? この季節だし、腐敗するにはまだ早いだろう」 「……腐敗だったら、よかったんだけれどな」  国近は目線を下にやる。少しの間押し黙った。どうせニュースになるかと呟く。どうもひどかったのは腐敗ではなく、暴行の痕だったらしい。 「あれは人間のすることじゃない」  絞りだしたその声からは、悲壮と厳かな怒りが滲んでいた。 「……さすがに堪えたな」  自嘲気味な笑みを浮かべて、短くなった煙草を彼は灰皿に押し付ける。懐からマルボロの箱を取り出すと、もう一本、引き出そうとした。そこで、指先のあるものに気が付いて、彼は一転、優しく表情を緩めた。 「ダメだな。あんまり吸いすぎると怒られる」  国近の左手薬指には、プラチナのリングが付けられている。それは、近頃彼がClaim契約したパートナーとの証だと聞いた。装飾のほとんどないシンプルなデザインだけれど、裏面に二人の名前が彫られているのを一ノ瀬は知っている。 「あの子、元気にしてるか?」  一ノ瀬は問いかける。  国近の伴侶である彼は、ずっと長いこと以前のパートナーに不当な支配をされていたらしい。国近が彼を庇い、匿っていたと聞く。一年ほど前にある事件が起こって、一ノ瀬も彼に会う機会があった。パートナーが社会的な権力を持っていたものだから、マスコミも大きく取り上げて、結構な騒ぎになった。  事情聴取やら手続きやらが一通り済んで、ようやく生活も落ち着いてきた頃だろうか。 「ああ。今は大志くん――……柏木警部の息子さんが、いろいろと手を尽くしてくれてて……」 「無事に社会復帰できそうか?」  ふっと、国近が息を吐く。慈愛の表情がその顔に浮かんだ。 「……大丈夫だよ。あれでいて結構逞しいんだ」 「そうか」  被害者が元気に生活をしていることほど、ありがたいことはない。支援室にはひどい状態の人間がたくさんやってくる。ほっと安堵の吐息を漏らして、一ノ瀬は懐から煙草の箱を取り出した。  一本引き出し、唇に咥えてライターで火をつける。 「一ノ瀬こそ、煙草やめたんじゃなかったのか?」 「口寂しくてな。落ち着くんだよ」 「……」  もの言いたげな視線を、国近は一ノ瀬に向けた。 「……それで欲求を解消しようとするのは、やめた方がいい」  今まさにストレスを喫煙に向けている男がよく言えたものだ。内心そう突っ込みを入れてやりたかったが、寸でのところで一ノ瀬は飲み込んだ。 「……。まさか。そんなんじゃない」  国近に比べたら一ノ瀬は暇人だ。欲求を解消する手段も時間的余裕もある。  それに……。  こんなんじゃ満たされないことも知っている。  何を食べても、何を飲んでも、癒えることのない飢餓感を、一ノ瀬はもう何度も味わってきた。 「パートナーは? 合ってないんじゃないのか」 「そんな大層なもんいねぇよ。俺は元来縛られんのは嫌いなの」  ふっと、国近が息を吐く。  それ以上追及するつもりはないようだった。 「今度、飲みに来いよ。美斗が礼をしたがっていた」  と話題を変えた。 「んー……」  俺はあまりあの子に近づきたくはないのだけれど……。 「気が向いたらな」

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