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【第1話】一つ目の噓 2

*  その機会は案外早くやってきた。国近は本気で飲みの席を作るつもりだったらしい。三日後には日時を指定したLINEが送られてきた。 「ひまかよ」  簡素な文面に向かって呟く。タフな男だと思う。激務に追われてプライベートなど充実させる暇もない人間が大半なのに。担当中の事件だってまだ終わってはいないだろう。  よほどパートナーのことが大切なのだろうか。 これは断りづらいな。だって、一ノ瀬の部署の方が国近よりもずっと定時で帰れる日が多いのだ。結局、了承の旨を伝えて。  当日。  つつましやかな手土産を携えて、一ノ瀬は国近のアパートに足を運んだ。  それは、庁舎から電車で十五分ほどのところにある。一ノ瀬は何度か、同期たちと彼のアパートを訪問したことがあった。一ノ瀬や同期の住んでいる官舎よりも一回りも二回りも広いその家は、たまの休みに同期たちが集まるにはうってつけの場所だ。  本庁に異動してから、国近はずっとそのアパートに住んでいる。立地のわりに家賃はお手頃なのだと笑っていたけれど、国近は当初、給料のほとんどをその家につぎ込んでいたようだった。  最寄り駅を出て住宅街を少し進む。クリーム色の外壁が見えてきた。  その502号室。そこが、国近の部屋だ。  エレベーターを使って五階に上がる。  インターホンを鳴らすと、線の細い男が出迎えた。 「あ……どうぞ」  へにゃりと、柔らかな笑みに、浅黄色の猫っ毛が揺れる。  国近のパートナー。美斗の姿だった。 「少し早かったか?」  時刻は約束の時間の十分前を指していた。  美斗はそんなことないと首を振って、中へと促した。 「くにち――」  言いかけて、一ノ瀬は気が付いた。そういえば、この子も今『国近』なんだったか。 「――はじめくんは?」  自分で言ってて、その響きの慣れなさに笑ってしまう。ぷくっと、不満げに彼の頬が少し膨らんだ。 「呼び出されて出ていった」 「……なんだ、言い出しっぺが不在かよ」  美斗はもう慣れたといった様子で息を吐いて、表情を緩ませた。 「……忙しいみたいだ。最近」 「いつも、の間違いだろ」 「……違いない」  室内は、ずっと前に一ノ瀬が来たときとほとんど変わらない様子だった。国近はほとんどものを置かない。玄関先には備え付きの小さなシューズボックスだけがぽつりと置いてあって、変わってなければ、リビングには黒のソファーと、ソファーに合わせたシックな色合いのカーペット、木目調のミニテーブルがあるはずだ。2LDKの廊下には、寝室ともう一つ、何に使っているのか分からない部屋の扉があるが、その両者には一ノ瀬は入ったことがない。それでも心なしか、以前よりも掃除が行き届いているだろうか。国近がいない間、彼がこの部屋を労わってやっているのかもしれない。  そこで、リビングに到着する。  もう一人、来客がいることに一ノ瀬は気が付いた。  灰色交じりのくすんだ髪に、生真面目そうなピンっと張った背筋。  ソファー下で正座している彼が、こちらに気づいて頭を下げる。 「父がいつも」 「ああ……」  言われて、記憶が重なった。  国近が話していた人物だ。  国近の上司で柏木警部の一人息子。柏木大志の姿だった。  直接話したのは今日が初めてだけれど、一ノ瀬は何度か彼を見かけたことがあった。  確か司法修習を終えて、今年、弁護士になったと聞いた。  大志の横のテーブルには、カセットコンロが置かれていた。  何気なくキッチンの方へ目をやると、土鍋と、野菜や肉やらが並んでいる。 「鍋?」  問いかける。美斗が頷いた。 「でも俺作ったことないんだ。上手く出来るかな」 「……大抵の人間は失敗しないから大丈夫だよ」 「……そうか」 「じゃあ、美斗さん」  と大志が腰を上げる。 「俺はこれで失礼します」 「……君も、どうだ」  ふと、迷って一ノ瀬はそう言った。大志の言葉に、美斗が一瞬、寂しそうな顔をしたからだ。お礼だと聞いていたし、元々誘うつもりだったのかもしれない。 「誰かさんが居ないせいで酒が余りそうだ」  持ち込んだ手土産を掲げる。そこにはビール缶や、つまみ、美斗が好きだと聞いていた甘いものが入っていた。  もっとも、国近は居ても飲まないかもしれないけれど。急な呼び出しに備えて、普段から飲酒を控えている警察官も多い。国近はそのタイプだ。 「いや、俺は……」 「こいつ、誘っても全然頷いてくれない」  困り顔の大志に、美斗が追い打ちをかける。 「……」  大志は弱りきったように眉を下げた。 「……分かりました。では、お言葉に甘えて」  その言葉で、美斗の顔に花が咲いたような笑みが広がった。  美斗は二人を座らせて、キッチンの中へと入り、目当ての調理を開始した。  時折、紙切れ――おそらくレシピだろう――をじっと真剣に見つめては、たどたどしい手つきで野菜を切ったり、鍋の中に具材を入れたりする。  心なしか楽しそうで、時折笑みを漏らしていた。  そんな様子はなんだか微笑ましい。  こんな風に、彼は笑うのだな。 *  あの日。  被害者のSubが現場から動かないと聞いて、一ノ瀬は現場に臨場した。  一ノ瀬宛に支援室にかかってきた電話は、ダイナミクス性を持つパートナーの間でいざこざがあったこと。どうもDomが暴走し、Subに向かって暴行を加えたらしいこと。それを庇って、警察官が一人負傷したことを端的に伝えていた。その過程で被害者のSubはコマンドを下されたらしい。第二性を持つ一ノ瀬に応援を求めていた。 「私が行ったところでどうすることも出来ませんよ」  電話口に向かってそう訴えたことを覚えている。 「地域総務課に国近がいるでしょう。彼に――」  一ノ瀬の言葉を遮り、電話口の警察官が言った。 『負傷したのは、捜査一課(・・・・)の、国近肇警部補です』 「……!」  捜査一課にいた国近が地域総務課に異動したという話は聞いていた。  春の異動が終わったばかりの中途半端な時期で、皆が不思議がっていた。  けれど、古巣に戻っていたのは知らなかった。  そのとき、一ノ瀬は何となく悟ったのだと思う。国近の急な異動や、彼の負傷の裏に何があるのかを。 「……分かりました。すぐに向かいます」  結局そう返事をして、公用車を走らせた。  現場は、埼玉県との県境にある、家庭的なマンションの一室だった。  部屋の前には規制線が張られていて、その内と外に複数人の関係者が集まっていた。  見張りを担当していた警官に事情を話し、規制線の中へと入れてもらう。部屋の中は、電話で聞いたことを優に超えるほどの凄惨な光景が広がっていた。 ぐちゃぐちゃにかき乱された部屋の中。最低限の家具は赤く染まり、壁沿いには、ひと際大きな血だまりが出来ていた。その真っ赤な絨毯の上で、彼は呆然と座っていた。  主はとっくに病院に運ばれたというのに、彼は救急隊員の誘導にも、警察官の励ましにも 応じなかった。 ――言われたんだ。いいって言うまで動くなって。 ――だから俺は、ここから動けない。  結局、あの場で一ノ瀬の出番はなかったのだけれど……。  虚ろな目が、ずっと、もうそこにはいない国近の影を探していたのを覚えている。 *  食卓に土鍋が置かれる。心配していた料理は、上手いこと出来たようだ。  ほかほかと湯気が立つ中身からは、食欲をそそる香りが漂っていた。黄金色の出汁の中で、白菜や鶏肉、鍋らしい具材が泳いでいる。 「これなんの出汁?」 「んと……」  美斗がキッチンに行って、調理法の書かれたメモを拾ってくる。 「あご、だし?」  長方形のテーブルの短辺の位置に腰を下ろし、疑問符を浮かべながらそう言った。 「あごだしって……何だっけ」 「飛び魚ですよ、確か」  大志が横から言った。 「あー……」    一ノ瀬はビール缶を二人に配る。  美斗はそれを丁寧に断ると、自分のグラスに麦茶ポットから茶を注いだ。 「飲まないのか」 「ん」  短く頷く。 「俺弱いし、飲むと怒られる」  今日くらい、怒らないと思うけれど。自分から一ノ瀬のことを誘っておいて、パートナーに飲ませないというのも変な話だ。  ふと、麦茶ポットを握る彼の指先が目に入った。  国近と同じ場所に光る指輪に、一ノ瀬はふ、と口角を上げる。  似ていると思う。ちゃんとしているのに寂しそうなところも、愛情深いところも、何かに執着しているところも。性格は全然違うけれど、根本の部分がそっくりだ。似ているからきっと、ぴったりと合うのだろう。    ビール缶を大志と揃ってグラスに傾けた。 「じゃあ、乾杯」  三人のグラスが。机上でコツンと合わさる。  土鍋の中身は、大志がよそった。  差し出された取り皿から鶏肉を拾って、口元へと運ぶ。素朴だけれど深みのある味わいだった。美味いなというと、人気店のセットなのだと美斗が説明した。今日のために注文してくれたらしい。気遣いに心が和らぐ。ほどよく香ばしい出汁は、ビールとの相性もいい。  話題は、近況の話に移っていった。 「小説は?」  ビール缶を傾けながら、一ノ瀬が問う。前のパートナーから隠れていたとき、彼は小説を書いていた。それが素晴らしいことに出版社の目に入って、作家デビューを果たしている。  一ノ瀬はほとんど本を読まない性質だから、彼の小説も詳しくは知らないのだけれど、巷ではそれなりに売れているらしい。あの事件のあとはスランプに陥ってしまっているらしく、新刊はまだ出ていないと聞いていた。 「全然ダメだ。書こうとはしているんだけれど、キーボードに指を乗せると頭から零れ落ちてしまって」  美斗が眉を下げた。  スランプの原因は、想像がつく。  事件の過程で受けたバッシングだろう。  安全圏から投げられる想像力の欠如した言葉。通り魔に会えば同情されるのに、性犯罪はなぜかそうもいかない。  思わせぶりなことをしたのではないか、誘うような服装をしていたのではないか、抵抗できたのではないか。そうやって、傷だらけの身体に石を投げられる。  嘘を吐くなと、あったこともなかったことにされる。 「担当、都築さんに戻ったんですよね」  大志が問いかける。都築というのは、彼の小説を見つけてくれた担当者らしい。  『はじめ』と『つづき』、言葉遊びみたいだ。『おわり』は居ないんだなと一ノ瀬はぼんやりと思った。 「ああ。都築さんは……」  美斗が大志の方に顔を向けた。 「急がなくていいって言ってくれてる。いつでも読むって」 「高認の方は?」  以前のパートナーは相当支配欲が強かったらしい。彼は軟禁状態のまま家に閉じ込められ、中学までしか教育を受けることができなかったと聞いた。  あんまり質問するのもうざいか、と内心で苦笑する。けれど美斗は嫌な顔をせず、料理をしているときと同様のなんだか嬉しそうな表情を浮かべていた。 「夏に三科目受かって――」 「残りは今、結果待ち」 「……受かるといいな」 「どうだろう。あんまり自信はないんだけれど」  聞けば、週に一度、大志に勉強の面倒を見てもらっているらしい。今日、大志がいたのもそのためのようだ。今後は大学進学を視野にいれているのだとか。 「多くの人間が三年かけてする勉強を一年でしているのだから大したものだ。ゆっくり取り戻していけばいい」  思いのほか元気そうだな。  一ノ瀬は心底安心して、またほっと息を吐いた。 「俺はSubではないから、君の気持ちを全部は理解できないけれど――」  一ノ瀬はそう切り出した。 「――でも、力になりたいとは思ってる。困ったことがあったら、いつでも言ってくれればいい」 「……ありがとう」 *  時計の針が、十を指した。そろそろお開きにしようということになり、散らばった食器やら空き缶などを片付ける。  洗い物は美斗がするというので、一ノ瀬と大志はその言葉に甘えて、帰路につくことにした。美斗は丁寧に、二人を玄関先で見送った。 「ありがとう。来てくれて」 「いーえ。こちらこそ。ご馳走になった」 「大志も、無理やり付き合わせて」 「いえ。美味しかったですね」  傍らの大志が穏やかに微笑を浮かべる。 「ご馳走様です。また来週、同じ時間に伺います」 *  コンクリート製の外廊下は、部屋の中と違って、ひんやりとした空気が漂っていた。吐き出した息が白く染まって、本格的な冬が近づいていることに気が付く。  塀の向こうには住宅街が広がっていた。その先で柑子色のラインが入った電車が一本、ちょうど走り去っていくところだった。あの線路の進む先は、一ノ瀬の実家がある方向だ。  一ノ瀬には四つ年下の妹がいる。美斗と話していると、妹のことを思い出した。  朱莉は元気にしているだろうか。  半年に一度は実家に帰る時間を作っているけれど、今回はまだ帰れていない。  妹のことを想うとき、一ノ瀬は今でも言いようのない怒りに襲われる。それは化膿した生傷のようにじくじくと傷んで、一ノ瀬にのしかかっていた。  そこで、アパートの端に到着する。二人はエレベーターへと乗り込んだ。 「一つ、聞いてもいいですか?」  奥の方へと進んだ大志が、こちらに向き直ってそう問いかけた。 「んー?」  間延びした返事をしながら、一ノ瀬は縦並びのボタンの一番下を押す。 「どうして嘘を吐いたんですか?」 「なんの話―?」  質問の意図が分からず、同じ調子のまま問いかけた。 「Subですよね」  ぴくり、と指先が震えて。  一ノ瀬は固まった。  金属製の扉が軋んだ音を立てて閉じる。ガラスに、大志の精悍な瞳が浮かび上がった。 「貴方はSubだ」

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