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【第2話】始まりの嘘 1
夜の静寂に、エレベーターが下降していく。
五臓六腑を刺激する浮遊感に眉を顰めて、一ノ瀬は大志に向き直った。
腕を組み、唇を開く。酔いはすっかり冷めていた。
「……どうしてそう思う?」
零れ落ちたその声は、異常なほど、乾ききっていた。
引力のある瞳は、一ノ瀬を捕らえて離さない。
「……あの日、支援室の方が来るには、いささか早すぎたような気がします。美斗さんの事情聴取だけなら貴方が現場まで駆けつける必要なんてない。いくら人が足りなかったにしても不自然です」
そこで、大志は一度言葉を区切る。
「あの場面で投入するのはSubの扱いを知っている人間です。だから、第二性を持っているのだろうと思っていました」
「……なるほどな。それで?」
「……始めはDomなんだろうと思っていたんです。でも貴方は動かなかったし、そもそも美斗さんは無意識的にDomを怖がっているから、あの状況下で顔見知りでもないDomが近づいて、平気でいられるはずがありません」
言い終わると、大志は再び、同じ質問を繰り返した。
「Subですよね」
はぁ。薄く吐いたため息が、エレベーターの通気口を通って消える。
「……それを知ってどうしたいんだ。むやみやたらに第二性を聞こうとするのは、セクハラに値するんだが、知らないのか」
「……目的を知りたいだけです。貴方が嘘を吐いた理由を。それがもし、美斗さんを傷つけるためなら――」
「はっ」
乾いた笑いが喉元を通り過ぎる。
傷つけるためだって? 馬鹿馬鹿しい。
「久留嶋大志」
今度は大志が固まる番だった。
「それが君の、本当の名前か?」
瞳が途端に翳りを帯びた。
切なそうに瞼を伏せる姿に怒りが消えて、その代わりに罪悪感が胸に突き刺さった。
一ノ瀬は薄く息を吐くと、表情を緩めた。
「傷を、抉るような真似をしてごめんな。でも俺にとってそれを聞かれるのは、君がそれを聞かれるのと同じことだ。踏み込むのは勝手だが俺は――」
「――国近ほど、優しくないぞ」
それから、二人は無言になって、最寄駅に向かって夜道を歩いた。
駅の前で大志は、自分は一ノ瀬とは違う路線だと説明して、その路線が走る改札の方向へと消えた。
二人とも、「また今度」とは言わなかった。
*
警視庁警察学校は、東京都郊外の緑豊かな町にある。その町は文化的に栄えていることで有名な町で、都心の喧騒とはかけ離れたけやき並木があちこちに植えられていた。周辺には大学や病院がいくつか立ち並んでいて、警視庁警察学校もそのうちの一つとして景観を形作っている。
その年。警視庁警察学校の初任科入学生は五百九人いたけれど、第二性を持っているのは四人だけだった。
この数字は人口に占める第二性持ちの割合を考えれば当然とも言えなくはないけれど、それでもいくぶんかは少ない数字だ。
一般的に、第二性を持つ人間に公安職は難しいと言われている。理由は簡単だ。欲求の管理が求められるからだ。第二性を持つ人間は、欲求が解消されないと肉体や精神に様々な不調をきたす。
第二性持ちが公安職を目指そうとする場合、Normalの人間以上に厳しい審査が課せられることになる。能力、体調、適性に問題ないか。自らの性を理解しているか。入学時点でかなりの数の人間がふるい落とされるので、必然的に数は少なくなった。それは一歩間違えば性差別と言えなくはないけれど、国を守る仕事である以上、仕方のない部分でもある。非常時に欲求不満の不調で任務の遂行が出来なかったという言い訳は通用しない。
そして、その審査をクリアできたとしても、欲求の管理が上手く出来ず、志半ばで折れてしまう人間も少なくなかった。
そんな難関を突破した人間は、ある種共に闘う同士とも言える。また、警視庁では効率的な教育と管理のために第二性持ちは全員同じ教場に入れられることになっており、四人は自然と親しくなった。
はじめに一ノ瀬に話しかけてきたのは、川本亮介という男だった。背はそこまで高くなかったけれど、スポーツマン然とした恰幅のいい体格をもっていた。
名簿の性別欄を見て、第二性持ちの人間に声をかけていたらしい。
「俺ら元々マイノリティだけど、ここじゃさらにマイノリティだろ。情報交換とかできたらいいかなって思って」
彼の言動が皮切りとなり、交流会を開こうということになった。
警察学校に限った話ではないが、自由時間というのは生徒たちの憩いの時間だ。
その日は入校初日ということもあり、時間的には幾分か余裕があった。食堂では他にも何人かの生徒が談笑していた。その頃はちょうど、一ノ瀬たちと同じように新しい環境で新しい人間関係を構築しようと励んでいる学生も大勢いて、そこかしこから、どこかぎこちないながらも活気づいた話声が聞こえていた。指定されたテーブルに向かうと、もう他のメンバーは集まっていた。川本が大げさに手を上げて一ノ瀬を呼ぶ。空いた席へと促した。
空席の隣に長身の男が座っていて、そいつが一ノ瀬の顔を見上げた。以前にも見たことのある温和な顔だった。
一ノ瀬に向かって、軽く頭を下げる。
国近肇がそこにいた。
国近の存在を、一ノ瀬は早いうちから知っていた。
教場で彼の姿を見て、以前の試合を思い出したからだ。名簿に刻まれた第二性の文字を見て、少しだけ驚いた。
ぺこりと一ノ瀬も彼の真似をして、隣に腰をかける。
「んじゃまあ」
川本が手を叩く。
「こうして出会えたのも何かの縁ってことで、これからよろしくな」
二ヒヒ、と白い歯を出して笑うと、テーブルに蔓延していたぎこちなさが少し薄れた気がした。川本は対人スキルの高い奴で、相手の警戒心を解いてしまう不思議な力があった。Domだと聞いたけれど、どこか気が弱そうなところもあり、親しみやすい奴だと一ノ瀬は思った。
「じゃあ自己紹介がてら聞くけど、みんな出身は? 俺は千葉の方なんだけど、県警と悩んで警視庁に」
「千葉か。いいな。暮らしやすいだろ」
と国近が合いの手を入れる。
「いやー、俺のとこは田舎だからね。不便よ不便」
「国近は都内か?」
「ああ。俺は……」
それは、下町風情が残る都市の名前だった。
「俺そのへん行ったことないかも。どんな感じ?」
「いい街だよ。都会にも田舎にも行ける。人も……二十三区ほどは冷たくないな。電車が混むのが少し難点だけれど」
「あー……。○○線だろ。えげつないよな」
「一ノ瀬は?」
「ああ。俺も国近と同じで都内。国立市」
「おへー、国立って、高級住宅街だろ。芸能人が住んでるってまじ?」
「あー……。何人か聞いたことはあるけど、俺は立川寄りの方だから会ったことはないよ」
「へー、私立川だから、近所かも。中高は?」
そういったのは森山葵で、このグループでは唯一の女性だった。
純日本風な顔立ちの綺麗な人で、ベリーショートにした髪が、柔らかな雰囲気によく似合っていた。Subだと聞いた。
「そうなのか。ああ、でも俺、中学は一貫校だったし、高校は結構離れてて……」
一ノ瀬が出身校を言うと、川本と森山はぎょっとして一ノ瀬の方を見た。
「は!?」
「日坂!? 超進学校じゃん!」
二人そろって、声を上げる。
日坂高等学校は、全国でも指折りの進学校だ。普通コースと医学部特進コースがあり、普通コースでは生徒の約半分が東大か京大に進学している。特進コースの方も全国津々浦々、有名医大の進学実績を誇っていた。
「なんで!?」
川本がテーブルに身を乗り出した。
「日坂ならいくらでも! それこそ警察庁にだって行けるだろ」
一ノ瀬の答えを、興味津々と言った様子で森山も見ていた。
「……まあ。色々あってな」
と一ノ瀬は苦笑する。
「もったいねぇな!」
「ははっ。今の時代、いい大学出たっていい生活が出来るとは限らないだろ」
「んへー、頭いい奴はやっぱ考えること違うな」
「関係ないって」
これ以上突っ込まれたら対応に困ると思ったが、困ったら勉強を教えてくれよというだけで、川本は何も聞かなかった。
話題は、別のことに移っていった。
趣味は何か。川本は中学からバスケットボールを続けているらしく、スポーツは見るのもするのも好きだと語った。一ノ瀬もスポーツは嗜む方だったので、好きなチームやら、当時オリンピックの出場がかかっていたサッカーの話題で盛り上がった。森山が本を読むことが好きだと言うと、国近が案外読書家であることが分かった。二人の会話が、作家の話で弾んでいた。
「テクニックとして叙述トリックを見せている作品も多いけれど、あの作品は物語性と叙述トリックがちゃんと両立しているのがすごいよね」
森山のそんな声を聞いた。
こんな風に、第二性があることが当たり前な環境で話したのは初めてだった。
高校の頃も第二性持ちは近くいたけれど、触れ合う機会はほとんどなかった。
周りがみな、触れてはいけないことのように振る舞うから、一ノ瀬もそれに倣っていた。
存外居心地が悪くないことに気が付く。
「みんなはなんで警察官になったの?」
川本が聞いた。その頃には、四人の空気はすっかり打ち解けたものになっていた。
「なにその質問。面接?」
森山が冗談めかして問いかける。
「ははっ。いやー、警察官って第二性持ちには難関じゃん。気になってさ」
「そういう川本はどうなんだよ」
「俺? 俺は単純よ。白バイ隊員目指してんの。さっきも話したけど、俺、中高とバスケやってたんだけれど、中学のとき部活の帰り道に車にひかれちゃって。完全に相手の信号無視な。後から分かったんだけど飲酒運転。バレるとまずいと思ったんだろうな。運転手のやつ、俺のことおいて逃げちゃったんだよね。身体中痛いし、ああ、このまま死んだらどうしようってすごく心細くて。でも、そしたら、通りかかった白バイがその車追いかけて、とっ捕まえてくれて」
「えー、いいね。素敵」
「にゃはは。森山さんは?」
「森山でいいよ。私も川本くんと似てるかな。昔色々あったところを助けてもらったの。それから、そうだね。なんとなく、警察官以外は考えられなくなった」
「そっか、そっかぁ」
「国近は?」
「俺は……。大した理由じゃないよ。父親が警察小説好きで。その影響」
「へー。じゃあ、親父さん、喜んでるだろうな」
一瞬、国近の瞳から色が消えた。机上に目線を落とし、遠くを見つめる。
ふと見えた机の下で、拳がきゅっと握られたのを一ノ瀬は見逃さなかった。
「……どうだろうな」
「……?」
曖昧な回答に、一ノ瀬は首を傾げる。
あまり関係性がよくないのだろか。
国近はそのことにはあまり触れられたくないようで、
「一ノ瀬は?」
とこちらに話題を投げた。
「俺は――」
記憶の端にあるのは、ピアノの音色だ。
もう聞こえることのない、鍵盤を弾く音。
「別に……」
と一ノ瀬は答えた。
「なんとなくだよ。安定してるしな」
そこで、自由時間の終了を知らせる鐘が鳴った。
最後に川本が、「お互い頑張ろうな」と笑った。
その日は、それでお開きになった。
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