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【第2話】始まりの嘘 2

*  翌日から、慌ただしい日々が始まった。まず六時半のチャイムで起床し、運動着に着替えてグラウンドに向かう。点呼のあとで警察体操をして、そのあとはランニング。朝食を搔っ込み、身支度を整えたあとで教場に向かう。夕方までみっちりと詰め込まれた授業を受けて、自由時間の合間で課題をこなす。息をつく暇はなかった。  難関を突破しただけあって、三人はとても優秀だった。  入校当初、座学の成績は常に一ノ瀬がトップだった。元から勉強が得意だった一ノ瀬は、警察学校という特殊な環境で、知識をみるみる吸収していった。  国近はなんでもそつなくこなすタイプで、常に平均以上のパフォーマンスを見せていた。森山も見かけによらず負けず嫌いなところがあり、上を目指そうと努力を欠かさなかった。  川本は、教科によってムラがあるのが難点だけれど、それでも上位の成績をキープしていたと思う。  そして、術科の成績は国近と川本が抜きん出ていた。  国近は、以前一ノ瀬を打ち負かしたときよりもさらに隙がなくなった太刀筋で、もはや剣道ではほとんど敵う者がいない様子だったし、川本は川本で、バスケットボールによって培われたであろう反射神経を活かし、武術を一通り極めていった。  彼らには長いことスポーツをやっている人間特有の持久性と瞬発力があり、それは一ノ瀬が一朝一夕で真似できる類のものではなかった。  しかし、その力量関係は、三週間を超えたあたりで変化していく。  はじめに異変が起こったのは川本だった。  法学の授業は、数時限に一回理解度チェックが行われる。それは十問から二十問程度、一問一答形式の比較的難易度の低い小テストで、学生の基礎固めを目的としていた。そのテストで、川本はクラス最低点を記録した。空白とペケ印ばかりの解答用紙は要領のいい川本らしくなかった。  そして、解答欄が空白になっていた問題を、川本が授業でスラスラと答えているのを見たことがあった。減点された問題もそのどれもが簡単なケアレスミスだ。「やらかしたー」と笑っていたけれど、他の三人には分かった。 ――不調が始まっているのだ。  第二性の欲求は、思春期を超えた頃から加速する。  初期症状は不眠、倦怠感、集中力の低下、苛立ち。個人差はあれど放置する先は同じで、頭痛と吐き気が襲ってくる。薬である程度は抑えられるが、その薬は研究未発達なものも多く、副作用も起こりやすい。自分に合った薬を見つけられればいいが、そうでなければ完全にコントロールするには至らない場合がほとんどだ。  全くプレイをしないで耐えられるのは大体二か月から、長い人で半年が限度。本格的に不調を解消するにはプレイをするしかない。ただ校内でその欲求を満たすのは難しいだろうし、まして警察学校では土日以外の外出禁止を命じられ、多くの場合休暇すらも勉学に費やすことになるので事実上耐える以外に道はなかった。  そして、その頃から堰を切ったかのように、教官の指導は厳しくなっていた。全体的に厳しさを増しているが、とくに第二性持ちには理不尽で残酷だった。駆け足訓練では他の学生に比べて追加の走り込みを命じられるし、雑用や倍近くの量のレポート課題を課せられることもあった。 「教官、やたら俺たちのこと目の敵にしてね?」  ある日、川本は疲れた顔でそう漏らした。  川本の成績は戻らなかった。ケアレスミスの多い答案が積み重なり、得意なはずの武術ももはや他の学生に遅れを取るようになった。目の下のクマはだんだんとくすんで、隠しようがないほど目立つようになった。    そして、そんな状態がもう数週間過ぎた頃、事件は起こった。  その日は奄美大島に台風が来ていて、関東全域に記録的な大雨が降った。悪天候の中、周辺警備のために教官のほとんどが出払って、授業が休校になった代わりに学生たちには大量の課題が申し付けられた。どこもかしこもシャーペンをカリカリと動かす生徒たちで溢れ、湿気と熱気が蔓延していた。  何と気なしに四人は食堂の一角に集まり、協力して課題をすることになった。  特に森山は川本を放っておけなかったらしく、その頃すっかり覇気がなくなった川本の隣で、この問題はこうだとか、水は飲むかとか何かと世話を焼いていた。  吹き荒れる風が窓ガラスを叩き、建物全体が生き物のように揺れた。雨足はいっそうひどくなり、時折互いの声すら聞こえなくなった。  途中で国近がテキストを取りに寮に戻って、一ノ瀬たちは三人になった。 「ねぇ、この職務執行法の保護の要件って」  森山が、一ノ瀬の方に身を乗り出して問いかける。 「ああ、そこは……」  と答えようとしたとき、 そこで、一ノ瀬は川本の頬に、大量の冷や汗が伝っているのに気が付いた。 「かわも、……」  大丈夫か。  言いかけた言葉は、川本が顔を上げたと同時に消えた。  彼の目元からせり上がってくる『何か』に、一ノ瀬は目を離せなくなった。  向かいを見れば、森山も同じ様子だった。  身体中の筋肉は固まり、夏先だと言うのに皮膚は粟立った。 「“kn”」  ダメだ。止めなけばと思うのに、身体はそこから一歩も動かなかった。  そのとき。  川本の横から腕が伸びてきて、彼の目元と口元を塞いだ。 「川本」  それは、戻ってきた国近の声だった。 「外に出よう」  落ち着いた優し気な声でそう呼び掛ける。 「あ……」  国近が拘束を外すと川本は唖然とした様子で二人を見た。その表情は今にも泣きだしそうに崩れ、少ししてから、恥辱と微かな感謝が入り混じり、国近の方へと向いた。  よろよろと立ち上がり、国近に続いて廊下へと向かう。  大きな身体は、その時とても小さく沈んでいた。  そのあとで二人が何を話したのか、一ノ瀬は知らない。  ただ国近が、川本に小さなピルケースを渡しているのは目に入った。そこに入っている薬が、普段自分や川本が飲んでいる抑制剤よりも、ずっとずっと強いものだったことを、随分と後になってから一ノ瀬は知った。 *  川本の件は、三人以外に気づいた人間がいなかったことや、教官がちょうど出払っていたということもあり、大きな騒ぎにはならなかった。一ノ瀬たちは三人とも、この件に関しては触れないでいようと決めた。  ただ、川本の心には大きな影を落としたらしく、川本は一ノ瀬と森山から距離を取るようになった。国近とは時々話していたようだったが、それも事務連絡が多いようで、川本は孤立していた。  ちょうどその週末は三連休で、関東圏に実家のある多くの学生が帰省した。川本も千葉の実家に帰ったと聞いた。  週末の寮内はひっそりと静まり返っていた。図書室で参考書を借りたあと、なんとなく校舎の方へと一ノ瀬は歩いた。休日は教場が閉まっていることも多いけれど、トレーニング用に道場が開放されていることがある。剣道場に向かうと、そこには一人先客がいて、道着姿で竹刀を振るっていた。  温和な瞳が、こちらに気づいて手を止める。 「国近」  呼びかけると、ふっと彼の表情が和らいだ。 「一ノ瀬も残っていたのか」 「ああ」  入口の近くに、竹刀が立てられていた。  そっと手に取って、道場の中へ足を踏み入れる。 「手合わせでもしないか」  と国近が笑った。 「嫌だよ。勝てねぇもん」  一ノ瀬の実力では練習相手には分不相応だ。ボコボコに打ち負かされるのがオチだろうし、休日に怪我を作るのも面倒なので、一人で素振りでもしていた方がいい。  国近はその返事を予想していたようだ。薄く笑うと規則正しい所作で竹刀を置いて、道場の端へと向かった。そこには500mlのペットボトルが無造作に置いてあって、その中の水を国近は煽った。  そこで、気が付く。  そういえば、国近と二人きりになるのは初めてだった。  国近はいつもどこか一歩引いたところがある。遠慮しているというか、聞き役に徹するというか、誰とでもそつなく仲良くするけれど、間には見えない薄い壁を作って、その先には絶対に誰も入れていないような、そんな感覚が一ノ瀬にはあった。  そして、こうして一対一になってみれば、途端に話題がないことに気が付いた。 「……帰らねぇの?」  何も話さないのも不自然だろうと、そう問いかけた。 「帰っても誰もいない」 「……?」  首を傾げる。たしか父親の話を聞いたことがあった。 「親父さんは? 会いたがってるんじゃねえの?」  問いかけると、国近は一瞬目を伏せた。  それはかつて見せた、色を失った表情と同じだった。  ふっと、表情を緩めて、言葉を絞り出す。 「……もう、この世にはいない」 「あ……」  そこで、彼の浮かない表情の理由を理解した。  しまった。 「わる……」  わるい。そう言いかけて一ノ瀬は止まった。  何に対する謝罪だ。自分の罪悪感を埋めるために謝るのは卑怯だ。  国近はなんてことないように笑って。 「一ノ瀬は? 帰らないのか」  と話題を変えた。 「あー……。ちょっとな」  入校してから、一ノ瀬はほとんど実家に帰っていない。唯一ゴールデンウィークには全員が実家に帰されるので帰省をしたがそれきりだ。  帰る場所はある。きっと自分を待っているであろう家族もいた。けれど……。 「妹が――」  零れ落ちそうになった本音を、寸でのところで一ノ瀬は止めた。 「――受験生なんだよ。俺が帰ると気を使わせる」 「妹がいるのか」 「そ。医学部を目指してんの」  へぇと国近が目を細める。 「俺の家、両親共に医者でさ。ほら、隣の町に循環器領域専門のでかい病院があるだろ。そこ、俺の、父方の曾祖父が建てた病院なんだ」 「……すごいな」 「ははっ。つってもうちは分家筋だから、跡取り問題? みたいなのはそんなに気にしなくてもいいんだけれど。でも、二人ともそこの臨床医で。もう学会でぶいぶい言わせてるわけよ。やっぱ医者にっていう圧は感じるわけ。でも、俺は落ちこぼれで、医者にはなれなかったから妹が」 「……そうか」  国近が頷く。 「妹がいるんだな」  一ノ瀬の言葉を反芻すると、「俺は一人っ子だから羨ましい」と笑った。  その口調は、これまで彼からも他の誰からも聞いたことがないくらい、ひどく寂しげで。  そのとき、きっと彼の家族はもう一人も居ないのだろうなと一ノ瀬は悟ったのだ。  休み明け。  川本が辞表を出したというニュースが教場内に広がった。

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