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【第3話】月の暗闇と星の輝き 1
その年の夏は長かった。九月になっても最高気温が更新され続け、秋が来ないまま時折梅雨に戻ったかのような嵐が押し寄せてきた。
極端な気温差で、屈強な学生の中でも体調を崩す者が出た。
その頃の一ノ瀬は、まだ欲求がそこまで発達してはいなかった。少なくとも薬さえ忘れなければどうにかなる。ただ、閉鎖的な空間でのストレスは、欲求を増大させるのかもしれない。大きな不調こそ感じなかったが、パフォーマンスが下がっているのは感じていた。以前のように点が取れなくなっていた。
それは森山も同じようだった。長雨が続いた後で、森山は体調を崩した。そのあとから、彼女の成績は下降を続けた。
唯一、国近だけは変わらずに涼しい顔をして、それどころか益々成績を伸ばしていた。
そして、とうとう中間試験で一ノ瀬は国近に追いつかれた。
国近肇という男は、自分がなりたいと思っている警察官像を全て、体現していくような男だった。
座学も実技も、彼に敵う者が段々と少なくなっていた。
*
九月が終わりに差し掛かった頃、ある事件が起こった。
その日。教場では逮捕術の訓練が行われた。
その頃には、猛暑日だった気温は真夏日程度までには下がり、術科訓練も幾分かやりやすくなった。
基礎固めは夏までの授業ですでに終了しており、授業も実践的なものが多くなっていた。
はじめに五人一組の班が作られた。それが、二班ずつのチームに分けられ、団体戦形式で手合わせをすることになった。一ノ瀬のグループは武道場の入口近くを割り当てられた。
「いい加減にしてよ!」
そんな叫び声が聞こえたのは、試合が始まって間もなくのことだ。
「なんだぁ」
と学生たちが手を止める。
騒動の元は、道場の中心を使っているグループのようだ。
「その目で見ないで!」
二回目の叫び声を聞いて、一ノ瀬はそれが森山の声だと気が付いた。
けれど、そんなに尖った声を、一ノ瀬は森山から聞いたことがなかった。
「……何を騒いでいる」
騒ぎに気付いた教官が、森山の傍へと寄る。
厳かな声は、道場の空気を一瞬にして凍りつかせるほどの力があった。
森山の目の前には国近がいた。
堅い表情から、彼の感情は伺えなかった。
「国近くんが、私にグレアを!」
森山は悲痛な声でそう訴えた。
教官が、チラリと国近を見やる。「事実か?」と問われても、国近は否定をしなかった。
「……申し訳ありません」
生真面目な声が、道場に反響する。
はぁと教官が小さく息を吐いた。少ししてから、判決が言い渡した。
「二人とも、騒いだ罰として内周三十周。それが終わるまで授業を受けることは禁ずる」
「はぁ!? 嘘でしょう」
森山が殺気立った声を出した。
教官に詰め寄り、「なんで私まで」と訴える。
国近は森山を押さえて前に出た。
「……俺が、彼女の分まで走ります」
教官はそれには異議を唱えなかった。
眉間に深い皺を寄せて、国近を見つめる。諦めたように再び深く息を吐いた。
ちょうどその時、森山の身体が揺らいで、畳へと手をつく。
大丈夫? と周りが彼女に駆け寄った。細身の身体がカタカタと震えていた。
こういう状態には、覚えがあった。
「一ノ瀬」
「え、あ……」
突然指名されて、全員の視線が今度は一ノ瀬に集中する。
「森山を医務室に」
「……はい」
*
医務室から戻ると、国近の姿はなくなっていた。授業は何事もなかったかのように再開されていて、何事もなかったかのように時間ぴったりに終わった。
教場に戻って、残りの講義を受けた。夕方まで国近の席は空のままだった。
日が落ちて教場から学生寮に戻るとき、教場棟の外側を国近が走り去っていくのを見た。
同じくそれを見つけた同級生が、
「あいつ、まだ走ってるよ」
「よくやるよな」
と笑う声を聞いた。
「はじめ、くそまじめ」
そう、言葉遊びで揶揄していた。
*
国近が戻ってきたのは、夕食もとうに終わった八時頃のことだった。
自室を出て自動販売機で飲み物を調達していたとき、ちょうど戻ってきた国近とかち合った。汗だくのくせに、顔色だけは妙に涼し気だった。
そのまま洗面所へと向かった背中を、何となく追いかける。
水道で顔を洗う彼に向かって、一ノ瀬は言った。
「森山、辞めるって」
「……。……そうか」
水音と共に、微かな声が返ってきた。
「俺とお前だけになっちゃったな」
「……そうだな」
返答は簡素で、感情が伺えない。
こいつは焦りを感じないのだろうか。
一人、一人と減っていく。震える身体は、いつかの自分の姿かもしれない。
きゅ、きゅっと国近が蛇口を締める。縁に掛けたタオルをひっつかむと、それで顔を拭いながら言った。
「……一ノ瀬は辞めないんだな」
「は?」
目が丸くなる。
「……喧嘩売ってんのか。買うぞ」
「そうじゃない。嘘だろう。安定しているからなんて。それなら公務員でもいいじゃないか」
『みんなはなんで警察官になったの?』
川本の言葉が頭の中で反響する。
いつかの会話を、国近が覚えていたなんて意外だった。
「……警察しか受からなかったんだよ」
「公安職は、第二性持ちには難関だろ」
「……笑っちまう。『Subなのにどうして』って。そんなん『Subのくせに』って言ってんのと同義じゃねぇか。そう聞かれるのはいつもマイノリティだ」
「……? 荒れてるな」
青筋が一ノ瀬の額に浮かんだ。
漫画だったら、自分の顔には怒りマークが表現されていたことだろう。
「だいたい、お前こそ……」
「ん?」と振り返った国近が一ノ瀬に向かって首を傾げる。
人畜無害な顔に、はぁ、と教官と同じようなため息が零れた。
「……いや、なんでもない。さっさと寝ろよ」
*
その夜。消灯後。
ベッドに寝転がりながら、一ノ瀬は思考した。
武道場の光景が、頭の中を流れていく。
畳の景色、森山の青白い顔、国近の瞳。
お前、あのときGlareなんか出してなかったじゃないか。あの距離でGlareを飛ばされれば俺だって気が付く。欲求不満の森山が勝手に国近に怯えただけだ。なのに庇って、無駄に走って。馬鹿じゃないのか。
叶わない気がするのはなぜだろう。
一ノ瀬の頭に、いつかの試合がちらついた。
実力ならある。あいつに負けないぐらいの。
でも国近は、これからどんどん力をつけていくだろう。自分の手の届かないところに行くだろう。
そしていつかきっと、どれだけ努力しても、あの背中に届かなくなるのだ。
*
警視庁。被害者支援室。
一ノ瀬が出勤すると、すでにチームのメンバーは揃っていた。フロアの奥に位置する綿貫の机に集まり、『何か』を覗き込んでいる。
入口の一ノ瀬を見つけると、その目線が一斉に集中した。
「……?」
中心の綿貫がちょいちょいと手招きする。机に近づいて、そこで、彼らが覗き込んでいたのが一冊の雑誌だったことに気が付いた。
『Subの警察官が語る夢』
見出しはこう書かれていた。
切り抜きの写真に、一ノ瀬の姿が写し出されている。先日の講演会の時のものだ。そういえば、民間の情報提供に出したんだっけ。
「こりゃまた、大々的に……」
想像よりも随分と大げさな記事になった。一ノ瀬は苦笑する。
「講演、結構好評みたいですよー。問い合わせが何件か入ってます」
そういったのは一ノ瀬の後輩で、今年の春、支援室に異動になったばかりの藤沢だ。
人懐っこい子犬みたいな性格で、部内では可愛がられている。
「テレビ局からも取材きたんだっけ?」
「ああ。今度、夕方のニュースで取り上げてもらえるそうです」
「なるほどねー……」
「講演、回数増やしましょうか」
と問いかける。綿貫の返事は渋かった。
「うーん。でも他の業務に支障がでるのはなー。一ノ瀬くん、面談の方も結構詰まっているでしょう。部内に応援頼もうか」
そもそも広報したいことって一ノ瀬くんの存在じゃないのよねー。
綿貫はそう言ってフロアの一番奥にある自席に戻った。こういうとき、一ノ瀬は心底綿貫を尊敬する。彼女が慕われるのは、どんなときでも本質を見失わないこの姿勢があるからだ。
綿貫は引き出しの中から一枚の書類を出すと、そこに自分の名前を記入する。人員を増やすときの決裁だ。公務員というのは、何をするにもまず決裁を取らなければならない不自由な生き物だった。
同僚たちが、綿貫に倣ってデスクにつく。
少しすると、皆の関心も薄れたようだ。一ノ瀬もデスクに着こうと、オフィスチェアの背を引いた。
ああ。そういえば、と綿貫が顔を上げた。
「例の婦女暴行事件、まずいことになっているみたいよ」
そこで、手を止める。
国近が担当していた事件か。
「……あれ、もう解決間近なんじゃないんですか?」
被疑者が確保されて、遺体も見つかったと聞いた。
あとは後処理くらいなものだろう。その後処理が結構骨なのだけれど、少なくとも『まずい』状況にはならないはずだった。
「いやー、どうもそう単純な話じゃなかったみたい」
と綿貫が答えた。
「余罪がたくさんありそうだし、裏に闇バイトとか大規模な買春の斡旋があるんじゃないかって話」
「うげーっ、世も末っすね」
藤沢が横から口を挟む。
「……早く解決するといいけど」
と綿貫が眉を下げた。
「綿貫さんの娘さん、いくつでしたっけ」
「十四」
「あの辺だと家も近いし、心配っすねぇ」
「そうねぇ」
「……」
指先が、小さく震えた。
喉の奥に何かがつっかえた気がして、きゅっと唇を固く結ぶ。
今さら、こんなことで動揺するなんて思わなかった。
「一ノ瀬さん?」
こわばった表情に、藤沢は不思議そうに首を傾げた。
それに今度は綿貫が気付いて、
「……どうしたの? 顔色悪くない?」
と問いかけられる。
「ああ、すいません、ちょっとニコチン切れで」
痺れた奥歯を無理やり解いて、一ノ瀬は口角を上げた。
「えー、出勤したばっかっじゃないっすかぁ。せめて吸ってから来てくださいよぉ」
どんだけヘビーなんすか。もう。と藤沢が口を尖らせる。
「……いい加減少し量減らしなさい。公務員が喫煙なんて。市民から苦情が来るわよ」
「ははっ。やだなー、公務員も人間ですよ。知ってるでしょう」
半分引き出した椅子をまた元の位置に戻す。
二人に空返事で謝って、一ノ瀬はフロアに背を向けた。
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