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【第3話】月の暗闇と星の輝き 2

*  両親共に医者だった。父親は小児科医で、母親は心臓血管外科医。  物心ついた時から、医者という職業がそばにあった。  一ノ瀬が医者を目指すようになったのも、当然だったと思う。  医者というのは突然の呼び出しが多い職業だ。急患対応からそのまま当直勤務に移行ことも少なくなく、そんなときに着替えを届けに行くのは一ノ瀬の役目だった。  病棟に行けば、何度も両親の患者を目にした。  十四歳の誕生日の時だった。前日の明け方に出ていった母親は、日が変わっても戻らなかった。その日の夕方になって連絡があって、一ノ瀬は母の元へと向かった。  病棟の入口で待ち合わせたとき、母は、気丈な立ち居振る舞いを崩さないまま申し訳なさそうに眉を下げた。 「ごめんなさいね。貴方の誕生日なのに」  自分を呼び出したのは、顔が見たかったからなのだと気が付いた。 「……何年医者の息子やってると思ってんだよ。もう慣れたよ」  心配させないよう、そう返す。  両親は家を空けることが多かった。けれど、家の中はいつも穏やかな空気が漂っていたし、たまの休みには遠出だって連れて行ってくれる。愛情を感じないわけではなかった。  何よりも、一ノ瀬は両親の仕事を理解していた。 「慣れるのと、嫌だと思うのは違うでしょ」  と母が頭を撫でる。 「ケーキ、ちゃんと買ってあるのよ。母さんは帰れないけれど、朱莉と二人でお食べなさい」  目線の先を、点滴につながれた子どもが通りすぎた。  この場所は戦場だ。自分よりもずっと小さな子が、病と闘っている。そういう場所があることを、一ノ瀬は両親を通して知ったのだ。 「……母さん」  ずっと、聞いてみたいことがあった。 「んー?」 「医者ってさ、第二性持ちでもなれるかな」  ダイナミクス性の多くは、幼少期や乳児期に受ける検査で判明する。  結果のほとんどはNormal、すなわち第二性を持たない場合が一般的だけれど、おおよそ百人から二百人に一人の割合で第二性が発現していた。  幼少期の検査で、一ノ瀬はSubだと分かった。  前衛的で賢明な思想を持つ両親のおかげで、一ノ瀬はほとんど自分の第二性を意識せずに育った。だが、思春期の青少年というのは時に残酷だ。否が応でも周囲との違いを見せつけられることがある。それは同級生が話す恋愛の話題から遠巻きにされたとき、友人が異様に一ノ瀬の体調を気遣うとき、Domの先輩が自分を性の対象として見ていることに気が付いたとき、そういうとき一ノ瀬は自分の将来がたまらなく不安になった。  自分は、他の多くの人間と同じように、将来を選べないのかもしれない。自分が何かを選ぼうとするとき、きっとこの性は自分の邪魔をする。  母は哀れみとも慈愛とも取れる表情で薄く笑った。 「……お母さんね。昔医者になりたいって言ったらお祖父ちゃんに猛反対されたの」  父の実家は親戚一同が全員医者か看護師か薬剤師かというような医療家系で、長期休みには何度か顔を合わせる機会があった。  でも母の両親に、一ノ瀬は会ったことがなかった。彼らが何を生業にして、どこで生きているのかも聞いたことがない。なにか理由があるのだろうと思っていたけれど、その時まで聞いたことはなかった。 「その頃、女医がまだ珍しい時代でね。昔堅気の家だったからね。女は勉強しなくていいんだって」  ふふっと母が悪戯っぽく笑う。 「でも、気が付けば女の医者は随分増えた。真紘が進む道に確かに困難はあるかもしれないけれど」  関係ないよ。 「……」 「母さん」 「んー?」 「さっきの話だけれど、俺新しいパソコンが欲しい」 「あら、じゃあ、お父さんに話してみないとね」  その頃私立の中高一貫校に通っていた一ノ瀬は、高校受験をしなくてもその学校の高等部に進学することができた。けれど、母の言葉が後押しになって、より医学部受験に特化したカリキュラムのある日坂高等学校の受験を決めた。 *  経済的にも精神的にも、比較的裕福な家で一ノ瀬は育ったと思う。  都心にも関わらず、一ノ瀬の実家は国立市の一軒家だった。一ノ瀬の母親はいわゆる教育ママで、一ノ瀬は幼少期から無数の習い事をしていた。剣道から始まり、水泳、英会話、外国語、ピアノ、バイオリン、合気道、エトセトラエトセトラ……。  ただ、それは押し付けというわけではなく、たくさん手を付けた経験の中で、何か一つでもその子の興味を引くものがあればいいという親心からだった。  そんな想いもつゆ知らず、一ノ瀬はそのほとんどを高学年に上がる頃には投げ出してしまったけれど、妹の朱莉はピアノだけは続けていた。  元々、才能があったのだろう。  それはいつしか学区で一番の腕になり、市で一番の賞をもらい、都の同年代と一、二を競うようになった。両親は何百万円もするグランドピアノを買って、いつでも練習ができるよう、余った部屋の一部を防音室に改築した。  妹はこのまま音楽の道に進むのだろう。一ノ瀬はそう思っていたし、両親もきっとそうだったと思う。  一ノ瀬が高校二年生で、朱莉が中学に上がった年、それが早計であると知った。  その年に開かれたジュニアコンクールで、朱莉は部門別最優秀賞を受賞した。それが関係者の目に留まったらしい。名門音大の付属高から推薦入学の案内をもらった。 「まだ一年だろ。すごいじゃん」 と褒めた一ノ瀬に、 「うん。でも断ろうと思ってる」  そう、妹はあっけらかんとして言った。 「……まじで? なんでまた」  妹が推薦をもらった高校は、全国的にも音楽科が有名な高校だ。著名な講師陣が教鞭を取っていて、彼らからきめ細かなレッスンが受けられる。留学や大学部への内部進学の道も開かれていて、朱莉の腕なら、行けば音楽家への道が保証されたも同然だった。  んー、と朱莉は少しの間悩んで。 「……音楽はどこでも出来るでしょ」  と答えた。  指先が、鍵盤を弾く。ポーンと甲高い音が、防音室に響き渡った。 「外科医になりたいの。お母さんみたいな」 「だから私は、お兄ちゃんと同じ高校に行く」  同じ場所を目指す妹は、一ノ瀬にとって励みでもあり、対抗心を燃やされる相手でもあった。  一ノ瀬は、妹のことを心の底から応援していたし、尊敬もしていた。  毎日六時間のレッスンをする傍らで、日坂に受かるための成績を維持するのは並大抵の努力では出来なかったはずだ。それを朱莉は弱音一つ吐かずにこなしていた。 *  朱莉が強姦されたのは、その年の暮れのことだった。  その日、予備校から帰ると珍しく両親が二人とも揃っていて、異様な緊張感が家の中を支配していた。  母は何も言わなかった。ただ妹の乱れた衣服と自分を怖がる仕草から、何が起こったのかは容易に想像がついた。  病院に行く。そう言って、朱莉を連れて母が出ていった。そのあとで、普段は温厚な父親が、リビングのごみ箱を乱暴に蹴り上げた。「殺してやりたい」と悲痛な声で呟いた。父からそんな言葉を聞くのははじめてだった。怒りに燃えたその表情に、一ノ瀬はようやく事の重大さを理解することが出来た。  その年、朱莉の通う音楽教室の近くでは、集団強姦事件が多発していた。  当然のように注意喚起がなされていたけれど、まさか自分の身内が被害に遭うなんて想像もしなかった。  当時被害にあっていたのは仕事帰りのOLが多く、犯人たちは深夜に一人暮らしの家に押し入り事に及んでいたからだ。  けれど、そのときだけは手口が異なった。  その日、レッスンを終えた朱莉は、最寄り駅までの道を歩いていたところでワゴン車に拉致された。  口を塞がれて、首元にナイフを当てられたと聞いた。  抵抗できないなかで、服を剥かれるのは、どんな気分だっただろう。  未発達な身体を、知らない男の指が滑っていくのは、どれだけの恐怖だっただろう。  翌日、警察が事情を聞きにきた。  犯人は、近所に住む大学生の集団だった。 *  暗く、淀んだ時間が家に蔓延した。  朱莉は部屋から出なくなった。  母は予定されていた手術のほとんどを同僚に任せて、なるべく家にいる時間を作った。どうしても外せない仕事の時は、父が代わりに病院を休んだ。  一ノ瀬も学校を休むようになった。  将来を期待されたピアニストの痛ましいニュース。誰に話していなくとも噂は広まった。  本名から顔写真、通っている学校名、家族情報まで全てがばら撒かれた。  朱莉を何よりも苦しめたのは、そういう周囲からの時に無邪気で、時に心無いセカンドレイプだったと思う。  ほとんどが同情する声だったけれど、自分が経験したことのない痛みに、冷酷になれる人間もいる。 『自分から誘ったんじゃない?』 『自衛が足りないんだよ』 『どうせいいとこのお嬢様だろ。ちょっと触られただけだろうに大げさ』  そういう言葉を、どこからか聞いた。 *  その日は、東京では珍しく雪が降った。  リビングテーブルで参考書を広げていると、横からマグカップが差し出された。  中身は暗く濃いブラックコーヒーが詰まっている。  顔を上げると、同じカップを抱えた母が目の前にいた。 「そろそろ受験に集中したいだろうに、学校も休ませちゃてごめんなさいね」  差し向かいの椅子へと腰をかけながら言った。  どうして謝るのだろうと思った。母の責任なんか何一つないのに。 「別に。A判はもらってるから大丈夫」 「馬鹿ね。模試なんて、確実な保証にはならないのよ」  言いながら、母は少し安心しているようだった。  一人にはなりたくないのだろうと思った。その気持ちはよく分かった。  頭上からポーン、と鍵盤を弾く音がした。 「……?」  母と首を傾げる。 「朱莉……?」 「ピアノ、弾いてるのかな」  リビングの真上に、ちょうど朱莉の練習室があった。  防音とはいえ、弾いていれば天井を伝って音は聞こえてくる。少し前まで、その微かな音は、この部屋のBGMだった。  聞こえてきた調べは、朱莉が一番得意な曲。ドビュッシーの月の光だ。  あの曲で部門別の最優秀賞をもらった。 「切ない音ね」  と母が言った。一ノ瀬もそう思った。  それでも、少しでも以前の日常のことを考えられるようになったなら、それは望ましいことなのかもしれないと思った。傷は深い。きっと元通りにはなれない。でも、少しずつ回復しているのなら。  音はしばらくの間リビングを彷徨って、クライマックスの手前で終わった。  何か作りましょうかね。と母が立ち上がった。 *  異変に気がついたのは、夕食の時だった。  今日は一緒に食べないか、と朱莉を呼びに行った母親が、朱莉が部屋に戻っていないことに気が付いた。  音色が止んでから、もう一時間以上が経っていた。 「あかりー?」  リビングテーブルの参考書を片しながら、一ノ瀬はそんな声を聞いた。  その声は段々とこちらに近づいて、防音室の入口で一度籠ったあと、悲痛な叫び声に変わった。  ガタガタっと大きな音がした。聞き間違えではなかったことに気が付いて、リビングを出て階段を上る。 「あかり、あかり!」  朱莉を呼ぶ母の声は段々と大きくなった。  防音室の入口に差し掛かったとき、一ノ瀬の目に飛び込んできたのは、力なく横たわる朱莉と、彼女を懸命に揺する母親の姿だった。  朱莉の隣に、薬の瓶が無造作に転がっていた。家で常備している頓服薬だった。 「……っ」  母は朱莉の手首に触れて脈を計った。同時に顔を朱莉の口元に近づけて、呼吸を確認する。 「CPA……!」  母が呟いた。  医者を志している人間なら、誰でもその言葉の意味は分かる。  CPA――Cardiopulmonary arrest   ――心肺機能、停止。  蒼白な顔のまま、母はきゅっと唇を結んだ。エプロンを脱ぎ捨てて、朱莉の服を剥く。  彼女の隣に膝立ちすると、胸の真ん中辺りで手を合わせ、ぐっと絶え間なく押し込んだ。  胸骨圧迫。一分間に百回から百二十回。五センチ程度沈ませるのがコツ。  詰め込んだ知識だけが、ぼんやりと流れていく。  スローモーションのような景色を、動くことも出来ずただ茫然と一ノ瀬は眺めていた。   「真紘!」  母が叫んだ。 「救急車! 早く!」  身体はすぐに動かなかった。 「真紘!」  はっと、我に返って、リビングに走った。  必死に手に取った旧式の携帯電話が、母親のものだったのか、自分のものだったのか一ノ瀬は覚えていない。  身内に医者がいたのが不幸中の幸いだと言われた。  朱莉は一命を取り留めた。けれど、指先の一部に麻痺が残って、朱莉はピアノを弾けなくなった。  それどころか、きっともうメスを持つことすら叶わなくなった。  今も精神科病棟を行ったり来たりしている。  医者以外の選択肢が見え始めたのは、ちょうどその頃だった。

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