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【第3話】月の暗闇と星の輝き 3

*  やりたいことは、なんでもやらせてくれる家だった。一ノ瀬は恵まれていたと思う。  それでも警察官を目指すと告げたとき、両親は心配そうな顔をした。  医者だってハードな仕事だが、公安職はもっと自由がきかなくなる。 「貴方が背負うことじゃないのよ」  母にそう言われたとき、その心配が、第二性のことだけではないのだと気が付いた。 「真紘の志は、医学部に行ってもきっと叶えることができる」  父が言った。  それは、心療内科医とか臨床心理士とか、いわゆる心の専門家のことを指していただろう。  けれど、医者になりたいのと同じぐらいに、一ノ瀬は医療従事者になりたくなかった。  自分が医療の道を進むとき、朱莉はきっと嫌でも奪われたものを意識する。  その度に過去を思い出し、苦しむことになるだろう。  見せつけたくなかった。 「……母さん。そうじゃない」  その時、一ノ瀬は母の手に指先を重ねた。  きっと、何人もの命を救ってきた手だ。  この手に憧れないかと言ったら嘘になる。 「……背負ってやりたいんだ」  自分だけが、何事もなかったかのように医者になる。  朱莉の痛みを見ないふりをして。  Subである自分には、無理やり身体を好き勝手にされることがどういうことなのか、人一倍理解できた。朱莉は自分の分身だ。  親も教師も進学を勧めたけれど、一ノ瀬は一刻も早く現場に出たかった。  医学部特進コースの受験勉強に比べたら、警察官採用試験はそう難しくはなかった。第二性持ちというハンデは、母の教育の賜物――たまたま受けていた外国語の資格試験が役に立った。  いつか、刑事部に行く。  それが一ノ瀬の目標であり、志だった。  もう、他の誰にも、朱莉と同じような想いはさせたくなかった。 *  その日は朝からおかしかった。  身体がやけに重たく、指先を一本動かすことすら億劫だった。  風邪を引いたのかと思ったが、計ってみても熱はない。  怠い身体をなんとか引きずって教場に移動する。講義が始まった。  けれど、授業の内容はぼんやりと過ぎるだけで、教官の話も法律の条文も、上滑りして消えてしまう。    一週間経って、倦怠感は頭痛に変わった。  そこで、ようやくこれが第二性の不調だと気が付いた。  その頃には、もう上手く眠れなくなっていた。 *  長い夜を、天井を睨みつけたまま過ごすことが増えた。  ある日耐えきれなくなって、一ノ瀬はベッドから抜け出した。  消灯後はあまり部屋から出ない方がいいのだが、用を足しに行く程度であれば許されていた。  気分が変われば、寝付けるようになるのではないかと思った。それは淡い希望だったが、他に有効な手立ても見つからなかった。  廊下は案の定静まりかえっていた。けれど不思議と真っ暗ではなかった。時折、窓の向こうから差し込んだ星明かりが、一ノ瀬の行く先を照らしてくれた。  都心では普段、星なんてめったに拝めないのだけれど、その日は晴天のようで、空には星が輝いていた。  時計を見るのが嫌になってしまったから、時刻は分からない。  朱莉のことがあってから、一ノ瀬はいっそう自分の性に敏感になった。  支配欲の強い人間が嫌いだ。  男も、女も、そしてDomも。  きっと本質的には何も変わらない。  支配欲の強い人間は、弱い奴を屈服させて満足する。  俺は絶対、あんなのには屈しない。  そう思っていた。  川本や国近のことは、人として嫌いではなかったし、仲間だと思っていたけれど、それでも支配されたいとか、従いたいとか、そういうふうには思えなかった。  川本のことを不憫に思うと同時に、あの男の中に支配欲があるという事実がおぞましかった。森山のことを痛ましく思うと同時に、自分はああはなりたくないと思っている。  ただここ数週間の不調は、自分がSubだと思い知るには十分だった。  直感的に、本能的に、自分が何を求めているのかが分かる。  それを満たせば、この苦しさから解消されることも。  支配されたい。されたくない。  Subとしての自分を認めてほしいと思う。けれど同時に、性など関係なく自分という存在を見てほしいとも思う。  相反する感情は交錯し、入り混じり、一ノ瀬の心をぐちゃぐちゃにかき乱す。  言いようのない不安は、欲求が解消されないからなのか、それとも、自分元来の弱さなのだろうか。  一ノ瀬が調子を崩しても、国近は涼しい顔で講義を受けていた。  同じハンデを持っていると思っていた。けれど蓋を開けてみれば、同じところなんか何一つないのではないか。  あいつには人を助け、無駄に走る余裕まである。  結局どこまでも支配する側の人間なのだ。  自分は、これからどこに行くのだろう。  洗面台に差し掛かったとき、自分と同じように、部屋を抜け出したであろう人影を見つけた。  遅れて、それが国近の姿であることに気が付く。  鏡越しに浮かぶ彼の顔を見て、一ノ瀬は目を見開いた。 「……っつ」  開かれた瞳に、普段のような温厚さの影はなかった。  これは、  これは――。 ――獰猛な獣の目だ。 (こいつ……)  どうして平気なのかと思っていた。  けれど、平気なんかじゃない。必死に抑え込んでいるだけだ。  鏡越しの一ノ瀬を捕らえると、瞳のグレアはふっと消えた。  けれど、一ノ瀬の中に疼いた欲求は、消えることがなかった。 こいつに、 ――こいつに従いたい。 もう、限界だった。 「一ノ瀬も起きていたのか」  国近は振り向いて、何事もなかったかのように笑った。 「部屋に戻ったほうがいいな。そろそろ見回りの時間だ」 「なあ、国近」  踵を返した背中を、呼び止める。 「取り引きしないか?」  柔和な瞳が、こちらを伺うように見つめた。 「ここにいる間、俺がお前の相手をしてやる。だから、お前も俺の相手をしてくれよ。期間限定のパートナーになるんだ」  利用すればいい。  一時だけでもコマンドがもらえたら、きっと制御できる。  自分はここで終わる人間じゃない。だってまだ何も成し遂げていないのだから。  朱莉は今も、あの日の暗がりの中に閉じこもっている。 「悪い話じゃないだろう?」  そっと踏み出して肩口に触れる。硬い骨の感触がした。  国近は困ったように笑って、一ノ瀬の身体を押し返した。 「……それは、根本的な解決にはならないよ」  自分だって極限状態のくせに、その口調には一筋の迷いもなかった。 「教官が第二性持ち(俺たち)に厳しいのは、それが俺たちにとって必要なことだからだよ」 *  その言葉の意味が分かったのは、実務研修が始まったある日のことだった。  一ノ瀬は国近とペアを組まされ、七日間の交番勤務をすることになった。 案の定、そこは管内でも治安が悪いことで評判のいわゆるハズレ交番だった。朝から晩まで、ひっきりなしに通報が鳴って、事故やら補導やら、何かしらの対応に追われることになった。  実務研修が始まる前に、一ノ瀬はかかりつけのクリニックに行って、一段階強い抑制剤をもらった。一時的な気休めにしかならないと言われたが、幾分かはマシな気分だった。  怠さが収まるのと同時に吐き気が襲ってくるのが難点だったけれど、耐えようと思えば耐えられた。表面化では一ノ瀬の不調に気が付いているものはいなかっただろう。  国近もあの日のことについては触れなかった。  繁華街の近くをパトロールしていたときのことだった。  一ノ瀬は、「ひったくりだ!」という叫び声を聞いた。  声のした方を見渡すと、向かいの道でカバンを持った男が走り去っていくところだった。 「四丁目交差点付近にてひったくり事案発生。駅南方面に向かって逃走中です」  無線を入れながら、男を追いかける。  機械の向こうから、「現場に向かいます」という声がした。すぐ近くで同じようにパトロールをしているはずの国近の声だった。  通行人をかき分けて、繁華街を走る。駅の入口を通り越し、下町通りに突入する。  男はそこまで足が速い方ではなかった。  廃ビルが立ち並ぶ路地に入ったとき、一ノ瀬は男に追いついた。 「てめ、こら!」  肩口を掴む。  制圧するため身体を捩ったときだった。 「“Kneel”」 「え……?」  ぐにゃり、と視界が揺らいだ。 ガクっと膝が落ちて、気が付けば地面に座り込んでいた。 「は……。へへ」  男が不敵に笑う。 「やっぱSubじゃん。ラッキー」  立ち上がり、この男に一発食らわしてやりたい。  手錠をつけて、二度と悪さが出来ないようにしてやりたい。  そう思うのに、身体は一歩も動かなかった。 「俺が逃げるまで“Stay” じゃなかったら許さない」  頭の奥で、男の声が反響する。  耳鳴りと同時に、頭蓋骨がかち割れそうなほどの激しい頭痛がした。  ちょうどその時、路地の向こうから誰かが走ってきた。 「一ノ瀬!」  声の主は男と一ノ瀬を見比べると、一瞬にして状況を理解したようだった。  はっと気が付いて、一ノ瀬に駆け寄る。 「大丈夫か」  身体中が、カタカタと震える。妙な震えは収まらなかった。  大丈夫じゃない。気持ちが悪い。  このまま死んでもおかしくないくらい息が上手く出来ない。  自分だけ酸素のない世界に行ったみたいだ。 「ちっ、クッソ!」  男は舌打ちをして、その場から去っていった。 「……っ」  男と一ノ瀬を見比べて、数秒の逡巡のあと、国近は一ノ瀬に背を向けた。  薄れていく意識の端で、最後に見たのは遠ざかっていく彼の後ろ姿だった。   *  目が覚めたときにはベッドにいた。  横で自分の頭を撫でている国近の姿が目に入ったとき、こういうときのために、教官はわざわざ自分と国近を組ませたのだと気が付いた。  こちらに気が付いた国近が、一ノ瀬から指先を離す。 「気分は?」  と問いかけられた。 「……だいぶ、マシだ」 「そうか。それならよかった」 「……あいつは?」 「確保した」 「……そうか」  鼓膜の裏にはまだあの男の笑い声があった。  聞いていると、目頭がじんわりと熱くなった。  それを国近に見られないように、手のひらを瞼にあてて、一ノ瀬は震える唇を開いた。 「すまなかった。お前の言った通りだった」  第二性を持った人間が公安職を目指すなら、欲求を管理できるようにならなければならない。それは至極全うで、当たり前のことだ。けれど、その文脈の本当の意味を、自分は理解していただろうか。 Subならコマンドがなくても生きていけるようにならなければならない。被疑者がDomで無理やり自分を従わせようとしても、それを撥ね退けられるようにならなければならない。  そんな簡単なことも分からなかった。  力があると自惚れて、制御できると思い込んで。 ただ一時の苦しさを紛らわせるために、国近に縋った。  国近が自分の誘いに乗らなかったのは、他でもない。自分をSub以前に同僚として扱ってくれているからだ。同じ志を目指す者として、それが裏切りになると分かっているからだ。 「俺は――」  警察官失格だ。 「そんなことない」  言いかけた言葉は、はっきりとした声によって遮られた。 「一ノ瀬は――」 「『いい奴だな』」  その言葉が、ずっと残っている。  きっと生まれてはじめて、DomからもらったRewardだった。  それは寮の部屋を抜け出した日、校舎の廊下に差し込んでいた星明かりのように、一ノ瀬を照らしていた。 *  警視庁、喫煙室。  たばこの煙が、天井に上る。燃えた先が、指先を溶かすあと一歩のところで気が付いて、一ノ瀬はそれを灰皿に落とした。穴の先に灰が解けて消えた頃、一ノ瀬はその煙をほとんど吸いこんでいなかったことを思い出した。  あの後、警察官を辞めようとした一ノ瀬に、教官は総務部での仕事を勧めてくれた。  警察学校を卒業した後、全ての警察官には二年間の交番勤務が義務付けられる。  実務研修とは裏腹に、その二年は平和な奥多摩の奥地が配属先だった。それでも、残業が続いた日は不調がやってきて、動けなくなることもしばしばだった。煙草の本数は、その度に少しずつ増えていった。  そのあと所轄や本庁の総務課を行ったり来たりして、四年前に支援室に配属された。その間に国近は昇格して、捜査一課の刑事になった。  あの時、一ノ瀬が感じた感情は恋ではないと思う。 それは羨望であり、嫉妬であり、朱莉をあんな目に合わせた人間に対するどうしようもない憎悪だ。恋なんて綺麗な感情じゃない。  それでもあの場面を振り返るとき、一ノ瀬は思うのだ。  国近(あいつ)が命令してくれたら、どれだけよかっただろうかと――。

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