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【第4話】透明な目を持つあの人は。1
「か、し、わ、ぎ、くんっ」
弾んだ声が、背中を叩く。
振り返った先で、眩いばかりの笑顔が柏木を包んだ。
太陽みたいに笑うその人は、名前によく似合う、透き通った瞳をしていた。
近所に住む、同級生の女の子。
お互いに両親が共働きだったこともあり、幼い頃はよく遊んだ。学区の都合で、小学校と中学校は分かれてしまったけれど、高校で一緒になった。その地域からその高校に通う学生は少なく、登下校でよく鉢合わせになった。
同級生よりも大人びた顔をする人だった。
憧れはいつしか恋に変わっていったが、想いを伝えようとは思わなかった。
彼女はSubだと聞いていた。柏木には第二性がない。どう足掻いても彼女の欲求を満たせないことは分かっていた。
そんな奴からの告白など、迷惑なだけだろうと思っていた。
ある時から、彼女と帰りが合わなくなった。
校内で見かけたとき、彼女は笑わなくなっていた。
噂で、他校の男と付き合うようになったと聞いた。非行歴が積み重なった、あまり良くない男だった。
また少し経つと、顔に傷ばかりをつけるようになった。
腫れた頬やガーゼが痛々しくて、顔でこれなら、身体にはいったいどれほどの傷があるのかと不安になって、尋ねたことがある。
「望んでやっていることだよ」
彼女は答えた。
「傷があると安心するの。――……」
後に続く言葉を、柏木は覚えてはいない。
『おかしいでしょう』だったかもしれないし、『だから心配しないで』だったかもしれない。
ダイナミクスが発見されたのは、柏木が生まれる十年ほど前のことだった。
柏木はいわゆる第一、第二世代だ。その頃はまだ、ダイナミクス性の特徴も分からないことが多く、正しいPlayのやり方も注意点も、一般的には普及していなかった。
彼女が言うならそうなのだろうと、干渉することをやめた。
やがて彼女は遠くの町に引っ越したと聞いた。件のパートナーとの間に子どもを身籠ったらしい。ほとんど勘当同然だったというが、詳しいことは詮索しては失礼だろうとしなかった。
ちょうど同じ頃、柏木は警視庁警察学校に入校した。目まぐるしく過ぎる訓練の中で、彼女の記憶は青春時代の淡い思い出に変わって、やがては記憶から薄れていった。
*
『中央署から――区管内。……地区で女性がマンションから飛び降りたとの通報アリ。現場は……』
そんな無線が入ったのは、柏木が警察官になって数年が経過したある日のことである。
その時柏木はまだ刑事ではなく、地域部に配属されて毎日交番勤務に励んでいた。
「現場向かいます」
無線に返して、ペアの先輩と共に柏木はパトカーへと乗り込んだ。
現場は県境にある閑静な住宅街だった。
庶民にも比較的手が届きやすい分譲マンションが立ち並んでいる通りで、該当するマンションもその中の一つであった。
柏木たちが到着したとき、先に駆け付けた救急隊員によって現場は多少の整備がなされていた。
青ざめた顔の一人が、制服姿の柏木を見てほっと胸を撫でおろす。道路脇に無造作に置かれたシーツを指さした。ちょうど人一人分ほどのふくらみがあって、その下から、赤い液体がはみ出てアスファルトを濡らしていた。
ペアの先輩と顔を見合わせる。入電を受けた時から予想はしていたが、状況はすでに手遅れ。このとき、柏木たちの中で救助から現場検証に目的が切り替わった。
「私が確認します」
先輩がコクりと頷いた。
近寄ってシーツをめくる。
虚ろな瞳が、柏木を見た。
「ひ……!」
数秒後で、それが変わり果てたあの人だと気が付いて、柏木は大きく目を見開いた。
眩いほどに澄んでいた瞳は、もはや空洞と言っても差支えがないぐらいの暗黒色だった。
「うぇ、あ……」
なぜ、どうして。そんな感情と、切れた頭蓋骨からはみ出した脳みそがぐるぐると巡って、柏木はその場で吐いた。
――憧れだったあの人は、脳みそを飛び散らせて死んでいた。
「おい! 大丈夫か」
ペアの先輩が、ぎょっとした様子で柏木に駆け寄ってきて、背中をさすった。
「お前、こういう現場はじめてだったか」
「……です」
「……?」
心臓が、どくどくと脈を打つ。叫びだしたくなるのを必死で堪えて、柏木は奥歯を噛み締めた。口元を乱暴に拭い、先輩に向き直る。解明しなければならない。
「知り合いです」
先輩が息を飲んだ。気の毒そうな表情を浮かべながら、それでも柏木の言葉に耳を傾けようと真剣なまなざしで柏木を見つめる。
「名前は久留嶋透子。それから――」
「――子どもがいるはずです。おそらく七、八歳ぐらいの」
ちょうどその時、「警部!」と呼ぶ声がして、先輩が振り返った。そこには同じく管内から駆け付けた巡査がいて、建物の一室を指差した。
「あの部屋から、飛び降りたのではないかと」
*
それは平日の真っ昼間で、子どもがいたとしても学校に行っていてもおかしくはなかった。それでも柏木は部屋にいると直感した。
鉄製の玄関扉は鍵が掛かっていなかった。
日当たりが悪いのか、カーテンが半分ほどしか開かれていないからなのか、部屋の中は薄暗く湿っぽい空気が流れていた。
ベランダの窓が半分ほど開いていて、そこから差し込んだ風が寂し気にカーテンを揺らしていた。
すすり泣く声がどこからか聞こえてきて、声のする方に向かって柏木は進んだ。
その子は寝室の奥にいた。ベッドと壁との隙間に隠れるように挟まって、膝を丸めてうずくまっていた。計算が正しければ齢は七つになる頃だろうと思うけれど、身体は小さくやせ細り、五、六歳だと言われても納得するほどだった。
「だれ……?」
見上げる瞳が、母親に似ていた。
「……警察の人だよ」
「名前は?」
「……たいし」
首を傾げた。
「……? どういう字を書くんだ?」
少年が頭を左右に振る。
「……分かんない。でも、『おおきなこころざし』だっておかあさんが言ってる」
大きな志――大志。
脳内で漢字が変換された。
「……そうか。いい名前だ」
柏木はしゃがみこんで、目線を合わせた。
「怖かっただろう。一人でよく耐えたな」
きゅっと、少年が唇を噛む。
コップの淵ぎりぎりの激情を、決壊しないようにと耐えていた。
「何があったのか、ゆっくりでいいからお話できるか?」
大志は言っていいのか悩んでいるようだった。
日常的に暴力を受けている人間特有の抑圧を感じて、柏木は眉を下げた。
こくりと頷いて、言葉を待つ。
震える唇が、ゆっくりと開いた。
「お、とうさんが、『死ね』って、お、かあさんに」
「……っ」
柏木は息を飲んだ。
「……そうか。分かった」
柏木が透子の第二性を知らなかったなら、その言葉を単なる夫婦喧嘩の行き過ぎたものとして解釈できただろう。だがそうではなかった。
第二性を持っている人間にとって、ましてやSubである透子にとって、Domから与えられたその言葉が何を意味するのか、分からないはずがなかった。そしてそれはきっと、目の前のこの子にとっても同じだったのだろう。
「お、かさんは?」
母を呼ぶとき、声が詰まった。
「……亡くなった。意味は分かるか?」
瞳に大粒の涙が浮かんだ。
それを零さないように唇を噛み締める姿が痛々しくて、柏木は彼の身体をこちらに抱き寄せた。そこで、とうとう堪えていたものを堪えきれなくなったのだろう。肩口にしがみついたまま、彼は声を上げて泣き出した。
それが、大志との出会いだった。
*
「ああ。柏木くん。来てくれたの」
久留嶋透子の亡骸は、透子の生家に引き取られた。
葬礼が落ち着いたであろうタイミングで久留嶋の家を訪ねると、透子の母親は幾分か緊張の解けた態度で柏木を出迎えた。
中へと案内されて、玄関に足を踏み入れる。
廊下は静寂が支配していた。透子の母親は重たい空気を追い払うかのように、父親は今日から仕事に行ったのだと話した。透子の父が、運送業で働いていたことを柏木は思い出した。
やがて、一つの部屋へと差し掛かる。
仏壇の前へと腰をかけると、もうずっと長いこと見ていなかった透子の笑顔があった。
断って、線香に火をつけ、手を合わせる。
合掌のあとで、「あの子は?」と問いかけると透子の母は眉を下げた。
「ああ。今は知り合いの家に預けているの。ここは随分と噂になってしまったから……」
透子の件は、表向きには自殺として片付けられた。あの後、柏木たちは透子のパートナーを殺人罪で逮捕しようとしたけれど、大志(子ども)の証言だけでは立件するのは難しかった。
結局、所轄の人間が簡単な事情聴取をするだけで終わったらしい。
パートナーは通夜にも葬儀にも顔を出さなかったと聞いた。その後の行方は分からない。
全国的に大きなニュースになることはなかったけれど、『久留嶋』という珍しい苗字は、新聞では目立つ。
近所ではちょっとした騒ぎになった。
「可哀想だけれど、施設にやろうと思う」
新しい線香に火をつけながら、透子の母が言った。
「全部忘れて過ごした方があの子も幸せでしょう」
忘れて……。
忘れられるだろうか。あれだけのことを。
自分の腕の中で泣いた、大志の泣き声が耳元で響いた。
続けて、透子の顔が浮かんだ。
眩い笑顔と、俯きがちな後ろ姿。
「あの……。もしよければ、なのですが……」
*
虐待や死別、経済的な理由など、さまざまな事情から親と暮らすことの出来ない子どもを家庭に迎え入れ、養育する制度を里親制度という。
里親になるにはいくつかの条件があるが、養育能力のある二十五歳以上の成人なら独身でもなることが可能だ。
透子と透子のパートナーは婚姻関係にはなかった。大志の親権は母親の透子にあり、透子の死後は、未成年後見人として祖父母が選出されていた。久留嶋家の同意があれば、柏木は里子として大志を受け入れることができた。
そして、里親制度では、通称名として里親の姓を名乗ることが認められる。
再び大志に会った後で、柏木は大志に言った。
「君の苗字は少し目立つ。君さえ嫌じゃなかったら、私の姓を名乗るといい」
こうして、十八歳までの期限付きで、柏木は大志を引き取ることになった。
*
東京。霞が関。警視庁。
刑事部捜査一課の柏木誠一は、薄い毛布の中で瞼を開けた。くあっと欠伸を噛み殺して、身体を起こす。近頃やたらと痛むようになった肩を回して、固まった部分をほぐす。
デスクチェアを三脚並べただけの簡易的なベッドでは疲れは取れないし、凝りもひどくなるだけなのだが、それはもはや致し方のないことだった。
テーブルに散らかしたままの資料に、深くため息をつく。その一番上には一枚の写真が乗せられていた。それを目線の先で捕らえると、柏木は眉間の皺を深く寄せた。
コンコン、とノックの音がした。入口の方から長身の男の影が伸びていて、柏木の意識が写真を離れる。
「柏木警部」
国近肇が自分を呼んだ。
「時間です」
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