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【第4話】透明な目を持つあの人は。2

*  一ノ瀬真紘は今、捜査本部の一番後ろの席にいた。目の前には所狭しに机とイスが並んでいて、屈強な捜査官たちが腰をかけている。  先頭の机は、捜査官たちと向かい合わせになる形で置かれており、そこに国近や柏木、捜査一課の刑事たちが座っていた。  遡ること、数時間前のこと。 * 「応援?」    出勤したての一ノ瀬に、綿貫はしっかりとした口調でそう言った。 「そう」  と彼女が頷く。  例の連続婦女暴行事件で応援要請が入ったという。 「俺に?」  と聞き直す。 「ええ」 「……なんでまた」 「さあ?」  応援要請だけなら、そう珍しい話ではなかった。  ただ、大抵の場合は部署宛てに入る。  先日の美斗の件のように、突発的に起こった第二性持ちの被害者の対応とか、外国人など言葉の壁がある相手の対応とか、第二性も外国語も対応できる人員が限られているから名指しで呼ばれることがあるけれど、今回のような大きな事件で、部署を通り越して一ノ瀬にというのは妙な話だった。優秀な捜査官であれば声を掛けられることもあるのかもしれないけれど、そもそも一ノ瀬はそう『優秀』と呼ばれる部類ではない。  あまり気は進まなかったが、ひとまず目先の仕事を藤沢に引き継ぎ、一ノ瀬は捜査本部に足を踏み入れることとなった。 *  プロジェクターが、捜査資料を映し出す。  最前列の柏木は、立ち上がると事件の概要を説明し始めた。    始まりは、板橋区で起きた暴行殺人事件だった。  一丁目付近のホテルで暴行された女性の遺体が発見された。時期を同じくして、足立区、荒川区で女性の失踪事案が発生する。この三件は防犯カメラの映像から関連が疑われ、この時点で捜査本部が設置された。同じく映像から、一人の男が容疑者として浮上する。女性の体内から検出されたDNA型が男のものと一致したこともあり、警視庁はこの男を逮捕した。  再三にわたる取り調べの元、男は罪を認めたらしい。証言から、失踪していた女性二人の所在が明らかになる。残念ながらそれはすでに手遅れだった。ただ、惨たらしい様子の遺体が発見されたことで、男は再逮捕されるに至った。  凄惨な事件にマスコミは騒いだけれど、事件は終息に向かうかに思えた。  しかし……。  それは、被疑者と被害者との接点を洗っていたときのこと。  男が妙なことを言い出した。 『行き場のない家出少女や金に困った訳ありの人間を、自分のような特殊性癖の人間に貸してくれる組織がある。高い報酬を払えばなんでもヤラせてくれる。女たちは薬漬けになっているか、逃げればもっとひどい目にあうことが分かっているから逆らおうとは思わないし、むしろ死なせてくれと頼んできたから殺してやった。それこそ殺しても――』 ――文句は言われなかった。  荒唐無稽な話だったが同じ頃、組織犯罪対策課で新宿区を中心とした売春斡旋が問題になっていた。元は匿名通報で明るみになったのだが、SNS上で高額報酬のバイトをうたって人を集め、売春行為を行っているという。  釣られた人間は個人情報や家族情報などの弱みになるものを提出させられている。典型的な闇バイトの手口。需要がありそうな者は商品として沈められ、そうでない者は人集めの道具に利用される。  両者は関連が疑われ、隣県や近隣市町村まで調査規模を伸ばしたところ、類似する暴行事件や失踪事案が相次いで見つかった。  かくして暴行殺人事件の捜査は、売春組織の壊滅に目的が切り替わった。  はじめは何故自分が呼ばれたのか分からなかったが、捜査資料を見て合点がいった。  被害者の中に数人、Subがいる。そして、被害はどうやら女性だけとは限らなかったようだ。  さしずめ、被害者のケアと事情聴取だろう。Normalの人間がするよりも、第二性持ちが担当した方が被害者の精神的負担が少ないだろうし、異常さにも気づきやすい。  難しいことはなさそうだとほっと息を吐く。  しかし……。  柏木が説明を続ける。 「少なくとも、三人以上の中心人物がいると考えられるが、中でもリーダー格と見られているのが……」  プロジェクターが映り変わり、ある男の写真が浮かび上がった。 「椎名清和」 「え……?」  そこで、一ノ瀬は思わず顔を上げた。 「学生時代から非行歴がある人物で、十年前に違法薬物の売買で検挙されている」  その名前を、知っていた。  額に指を置き、一ノ瀬は思考する。  どういうことだ。そういうことならまた話が変わってくる。 「A班、B班は椎名の近辺の洗い出しを。C班は被害者への事情聴取。D班は防犯カメラの解析」  はい、と声が上がって、捜査官たちが続々と立ち上がる。 「それから――」  座っている捜査官がほとんどいなくなったとき、柏木の目が捜査官の隙間を潜り抜け、最後尾の一ノ瀬に向いた。 「一ノ瀬巡査部長。ちょっといいか」 *  廊下側からバタバタと走る音が聞こえる。  会議が終わるやいなや、捜査官たちは俊敏な動作で部屋を出ていき、中には柏木と一ノ瀬だけが残された。騒がしい廊下とは対照的に、部屋の中には奇妙な静寂が訪れていた。  窓の外を飛行機が一機通り過ぎたとき、柏木はようやく重い唇を開いた。 「被疑者は――」  言葉を、遮る。 「息子さんの、血縁上の父親ですか?」  柏木は目を丸くした。 「……知っていたのか」 「……少し調べました。あのマンションへは私も呼ばれましたので」  実際は『調べた』というよりも、資料でたまたま『目に入った』と言った方が正しいのだが、同じことだろうと一ノ瀬はそう答えた。  柏木が小さく息を吐く。決意したように一ノ瀬を見つめ返すと、 「今回の件。椎名の目的は金を稼ぐことだ」  と言った。 「奴には昔からギャンブル癖があってな。どうもまともな職に就けなかったことが原因らしいが、結局のところよく分からない」 「……そうですか」 「効率よく儲けを出すにはどうしたらいいと思う?」 「……」  答えは決まっている。第二性を利用するのだ。  女性に比べて、Subの割合は少ない。特殊性癖を持つ人間の中には、第二性がなくともSubを好きにしてみたいと思っている人間はいるだろう。  きっと高額で取引されるし、枯渇しているはずだ。  その証拠に、女性の被害者が弱みに付け込まれているのに対して、Subの被害者はそういった事情なく生活圏内で拉致されていた。  そして、Subを操縦するなら、薬物よりももっと手っ取り早い手段がある。その手が足りてないのだとしたら――。 「俺は、大志に接近してくる可能性が高いと思っている」  柏木が言った。 「……あくまで可能性の話だ」  その可能性は一体何パーセントなのだろう。  少なくとも、わずかな可能性なら他の警察官でもいいはずだ。  自分の使い道はここじゃない。 「君には大志の身辺警護を頼みたい」 「……」  一ノ瀬はすぐには頷けなかった。  第二性があるがゆえの失敗。それは、今も一ノ瀬の心を締め付けている。  柏木が一ノ瀬から目線を外し、窓の外へと顔を向ける。  ビル街の隙間に青空が広がっていた。 「国近は自分がやると聞かなかったが……」 「ははっ」  それを聞くと、思わず一ノ瀬は吹き出した。  それは本能でもあるのだろうが、彼の生まれ持った性質でもあるのだろうと思う。 「……国近警部補は、現場の指揮から外れられないでしょう?」  柏木の顔が、再び一ノ瀬に向く。  困ったように苦笑して、彼は小さく頷いた。  それに、今回のようなケースなら国近よりも自分の方がいいはずだ。  一ノ瀬には柏木の狙いがよく分かった。  柏木が眉を下げる。 「……すまない一ノ瀬。多分、損な役回りをさせる。それでも今この場において、お前が一番の適任だ。どうか引き受けてはもらえないだろうか」 「問題ありません」  覚悟は決まった。  一ノ瀬は口角を上げた。 「過不足なく、職務を遂行しましょう」 *  柏木大志のアパートは、杉並区荻窪の住宅街にあった。  大学時代は文京区の学生街で暮らしていたそうだが、就職を機に職場の近くに引っ越したらしい。  家の住所を聞いて、その時一ノ瀬は、あの飲み会の帰り道で大志が嘘をついていたことに気が付いた。方向は違うが大志のアパートは一ノ瀬が暮らす官舎と同じ沿線沿いにあった。  考えてみれば当たり前だ。大志は現在、霞が関から地下鉄で二十分程度の場所にある弁護士事務所に勤めている。  あの辺りは地裁も近く、多方面へのアクセスもいいから弁護士事務所が多いのだ。  駅の改札を出て、住宅街を十分程度進んだ先。  鉄筋コンクリート造りの七階建てのアパート。  角部屋、三階。  そこが、大志の部屋だった。  チャイムを鳴らすと柏木から話は聞いていたのだろう。  大志は落ち着いた所作で一ノ瀬を出迎えた。   * 「……というわけで」  案内されたリビングで、一ノ瀬は事の次第を説明した。 「今日から君の警護をすることになった」  1LDKの部屋は生活感がありながらも几帳面に手入れがされていた。  大志はリビングを作業スペースにしているらしい。  キッチンの方に置かれたミニテーブルと別に、端の方に机があって、その横にピーコックブルーの本棚が並んでいた。その中には六法全書や判例集がぎっちりと詰まっている。机の上にもテーブルの上にも資料があるところを見ると、仕事も立て込んでいるようだ。  それでもキッチンには自炊の跡があり、忙しくともきちんと身体を労わっていることが見て取れた。  この頃外食ばかりをして、肺を煙草で汚している一ノ瀬には襟を正される光景だった。 「俺は、君の近くで君をつけたり同じ電車に乗ったり……。簡単に言えばストーカーみたいなことをするけれど……」 「ストーカー……」  大志は無表情に一ノ瀬の言葉を反芻した。 「君は気にせず、普段通りに生活してくれればいい」  そこまで聞くと、ふう、と大志は息を吐いた。 「……分かりました」  感情の読めない平坦な声が返ってきた。 「ひとまず仕事と必要最低限以外では出歩きませんし、それに……」 「美斗さんにも会いません」  椎名が第二性持ちを狙って大志に接近してくるのだとしたら、一緒にいれば美斗も巻き込まれる可能性があった。  話は早いが、一ノ瀬には少し違和感があった。 「……意外と冷静なんだな」  もっと怯えたり取り乱したりするものではないだろうか。  一番初めに出てくるのが他人の心配とは。拍子抜けもいいところだ。 「怯えたって仕方ないでしょう」  と大志は簡素に笑う。 「もう慣れました」  今度はすべてを諦めたような声だった。  それがかえって痛々しくて、一ノ瀬は眉を顰める。 「……慣れるのと、嫌だって思うのは違うだろ」  大志の瞳がこちらを向く。  何が言いたいのだろうと不思議そうに小首が傾いた。 「俺の母親は心臓血管外科医なんだけれど……」  一ノ瀬は切り出した。 「どんなに病気に慣れている患者でも、手術となったらナイーブになって、取り乱してしまうことがあるんだと」 「はぁ」 「当然だよな。麻酔で眠ったらもう目が覚めないかもしれない。誰だって怖い」 「……何が言いたいんですか」 「……こんなことに慣れなくていいよ」  大志は目を見開いて、一ノ瀬を見た。  ひっそりとした沈黙が辺りに広がる。  それが、部屋中に充満してしばらく経った頃、大志は唇を開いた。 「父は――……」  その時、ようやく大志の眉が微かに下がった。 「――Domですよ」  なるほど。と一ノ瀬は思う。  これが本心か。  強がっているけれど子どもだ。歪なまま大人になってしまったから、頼り方が分からないのだと気が付いた。 「……知ってるよ」  安心させる言葉は、いくつもあった。そのどれもを知っていた。  けれど、どんな言葉を選んでも、彼は安心しないだろうと思った。 「だから俺が呼ばれたんだ」 「……無茶はしないでくださいね」  くくっと一ノ瀬は喉を鳴らす。  無茶をするのが仕事のようなものなのだけれど。 「……その言葉はそっくりそのまま親父さんに言ってやれよ。あの人多分二週間はまともに寝てないぞ」

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