11 / 18

【第4話】透明な目を持つあの人は。3

*  きゅ、きゅ、  浴槽の中で、柏木大志は蛇口を締める。  頭上のシャワーは、灰色まじりの髪に跡を残して止まった。  水滴をタオルで拭いながら、バスルームを出る。  リビングへと向かった。  新居に引っ越してきて、もう半年ほどが経つ。  それまで大志はIKの寂れたアパートで暮らしていた。木造アパートのあの部屋は、風が吹くたびに軋んだ音がして、いつも上階から生活音が漏れ聞こえてきた。  就職を機に1LDKのこのアパートに引っ越したけれど、新居はあまりにも広くて、静かで、まだ落ち着かない。 『少し背伸びをした部屋に住みなさい』  そう言ったのは誰だっただろう。 『極端に高くてもいけないが、安すぎる家もダメだ。少し背伸びをしたぐらいの家がいい。そういう家に住むと、人はその部屋に見合う人間になろうと努力できるから』 『いつかきっと、君は部屋に相応しい人間になれる』    社会人になって、経済的には余裕が出来た。  世間一般に言えば、月収の三割程度で住めるこの家は、背伸びでもなんでもないのだろう。  それでも、大志はいつも分不相応なことをしている気分に襲われる。  自分だけが、違う形をしているような感覚。  家に居るときも、会社に居るときも、  自分はここに居ていい人間なのだろうか。  そんな考えは、大志に纏わりついていた。  頭のタオルを、首元に引っさげる。  ゆっくりと歩いて、窓の方へと向かった。  カーテンの隙間から外を見下ろす。アパートから少し離れた電柱の影に、銀色のセダンが一台停まっていた。 運転席に焦茶色のくせ毛が見える。一ノ瀬の乗る公用車だ。  柏木のことを『父』と、呼んでくれるのだな。  あの人は。 『俺は国近ほど優しくないぞ』  いつかの言葉が、耳元を通り過ぎる。  あの時は、彼のことが理解できず、恐ろしいと思った。  けれど、彼は優しいと思う。  国近と同じか、きっと、それ以上に。 *  大志のは暴力的な人だった。  Domだからだと言う人もいたが、生まれ持った性質がそうだったのだろう。  Subも女も、奴隷としか思っていないような人だ。避妊もせずに、何人もの女性と関係を持った。大志の母は、なかでも父に気に入られていたようだけれど、結局結婚もclaim契約もせずに大志を産んだ。  物心ついた時から、大志は目の前で、あるいは自分の近くで、母が殴られている姿や犯されている姿も何度も見た。  父はSubを操縦することが上手かった。  Sub Dropの最中に、ほんの少しのRewardを与える。  致死量寸前の支配()と、微量の褒賞(解毒剤)。  父の近くにいるSubは死ぬことも許されず、Dropから抜け出すことすらできなくなる。  大志の母は父の所有物であり、間違ってもパートナーではなかった。    父の暴力は、時には所有物(はは)の子どもである大志に向いた。  泣き声がうるさいと殴られ、目つきが生意気だと蹴られた。父の機嫌が悪いときには、母共々正座をさせられて、何日も食事を与えてもらえないこともあった。  それでも、母は気丈だったと思う。限界すれすれの中で大志を育て、大志ができる限り暴力に晒されないよう庇ってくれた。 *  その日は、喧騒の音で目が覚めた。  ベッドで眠っていたけれど、隣に居るはずの母親が居なくて、リビングの方から光が漏れていた。  廊下に出て、リビングの扉を薄く開ける。  覗き込むと、母の背中が見えた。  母の目線の先には父がいて、二人が何やら言い争っていた。 「大志はあなたの子です。せめて、あの子の将来のことだけはちゃんと……!」  母の指先は小さく震えていた。  精一杯の勇気を持って、父に逆らっていることは明白だった。  はぁと父が深く息を吐く。 「うるせぇなぁ」  その人は母の叫びを一蹴し、苛立たし気に頭を掻いた。 「誰に向かって口きいてんだ」  三白眼がこちらを睨む。身体中がびりびりと震えるような衝撃が身体に走った。  それは、母も同じだったようだ。いや、きっと母の方が、感じた衝撃は大きかったと思う。 「ぁ」  と小さな叫びをあがった。母の腰がフローリングに落ちたのを、大志は見た。 「もういいわ。お前」  父は乱暴に母の髪を鷲掴みにすると、暴力的なまでに尖った視線を合わせた。 「『死ねよ』」  父が母を投げ捨てて、廊下に向かって来る。  怖くなって、大志は寝室へ戻って隠れた。  玄関扉の音がして、父が出ていった。戻って来ないことを確認して、再びリビングの入口から覗きこむ。  母は、しばらくの間リビングに座り込んで呆然としていたけれど、やがて立ち上がって、大志に気が付かないまま部屋を出ていった。  しばらくして、ロープを買って帰ってきた。 *  キッチンの笠木の部分にそれを括り付けていたとき、たまらなくなって、大志は声をかけた。 「お、かあ、さん?」  その時、母は一瞬、正気に戻ったようだった。  はっと振り返って、大志を見つめる。 「ごめんね」  泣き出しそうな顔で笑って、そして、今度はゆっくりとベランダに向かった。  普段、洗濯ものを干すときとなんら変わらない穏やかな所作だった。  欄干に手をかける。  そのまま、吸い込まれるように、太陽の下に落ちていった。  ドサりという音がした。続けて誰かの叫び声が聞こえた。  追いかけて、姿を探す。欄干は手摺より下の部分がコンクリートになっていて、大志の背では地上は上手く見えなかった。  ただ、母が遠く、もう会えないところに行ったのだということだけは分かった。振り返り、玄関を出ようとしてやめた。自分や母が用もないのに外に出ると、父はひどく怒るからだ。万が一母が無事だったとき、母が殴られる理由を作ってはいけないと思った。  大志は寝室に戻って、息を殺して泣いた。  やがて、外から救急車のサイレンが鳴り、遅れてパトカーの音が聞こえてきた。  その全てに、大志は耳をふさいだ。  次に見たのは、柏木の顔だった。 *  大人たちの間でどういった話し合いがあったのかは知らないが、結局はその柏木という男が自分を引き取ることになった。  柏木のアパートへと向かう道の中で柏木は、「君のお母さんのことは昔から知っていたのだ」と語った。湿った語調に、自分以外にまだこの世に母を悼んでくれる人がいるのかと思った。  今思えば、祖父母だってきっと悲しんでいたことだろう。けれど、生まれてはじめて会った祖父母の存在は、大志にとってどこまでも他人で、遠い世界の住人だった。  そして、祖父母が大志のことを見るときの、複雑な目線は大志をひどく疲弊させた。  二人は大志に、母を見ながら、父を見る。  やるせなさと、無言の怒り。向けられるたびに、居たたまれなくなった。母と同じところに行けたらどれだけいいだろうと考えた。  その時、柏木だけが、同じ目線で悲しんでくれたような気がした。  父が母の名義で作った借金を全て整理して、それでもどうにかマンションだけは大志が相続できるようにしてくれたのは柏木だった。  嫌な思い出ばかりが詰まっているわけじゃない。柏木はそれを知っていたのだ。  あのマンションは、元々母方の曾祖母が住んでいた家で、彼女の死後、祖父母が相続し、母に渡ったと聞いた。  母は家を出るとき、実家と縁を切る代わりにあの部屋を譲り受けたらしい。  いつか、気持ちの整理がついたときにどうするか決めなさい。そう言って、鍵を渡してくれた。  あのマンションに行くとき、大志はいつでも重苦しい気分に襲われる。  それでも母の思い出を繋ぎとめていられたのは柏木のおかげだった。  柏木は家を空けることが多かった。  けれどもう、突然置いて行かれるような不安は感じなかった。  その家には温かい布団と食事があって、理不尽に殴ってくる化け物もいない。  平穏な日常は、次第に大志の強張った心を溶かしていった。  柏木と暮らしはじめるまで、大志はほとんど学校に通っていなかった。  ひらがなすらまともに書けない状況だったが、忙しい日々の合間を縫って柏木が教えてくれた。同級生に遅れを取っていた学習は、すぐに理解できる程度にまで成長した。  ある日、戦々恐々と百点のテストを見せたとき、柏木が自分のことのように喜んでくれたのを覚えている。  弱い人間に優しい。  柏木は、いつしか大志の目標になっていた。  六法全書の存在を知ったのはその頃だった。  柏木の本棚にあったのを見つけて、読むようになった。  それは、のちに大志が学校で使ったものよりも、警察実務に関連した項目を抽出し収めた本だったが、秩序を成した条文は、どうしようもない不条理の中を生きてきた大志にとっては心惹かれるものだった。  しばらくして柏木が、「この国で暮らす全ての人間の規範になるものだ」と説明した。  父の所在は分からなかった。  ただ、しばらく経って、別の事件で検挙されたというのを噂で聞いた。  警察官も検事も、身内に犯罪歴があるなら自分には難しいだろうと思ったから、弁護士を目指すことにした。弁護士だったら、母のように刑事からあぶれた人間も救うことが出来る。  誰かを守れるようになったら、きっと。  きっと――。  幸せが零れていく恐怖も、自分だけが生き残ってしまった後ろめたさも、なくなるのだろうと思っていた。

ともだちにシェアしよう!