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【第4話】透明な目を持つあの人は。4
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「そういえば、ダイナミクス性の検査、受けたことがなかったのか」
柏木にそう言われたのは、大学受験を控えた頃だった。
多くの人間が乳児期や幼少期に受けるダイナミクス検査を、大志は受けたことがなかった。
もしかしたら、知らないだけで受けたことがあるのかもしれないが、母が亡くなった後でその結果を知る術はない。
「成人になる前に、一度受けてみた方がいい。」
それには他意はなかっただろう。
第二性への差別や偏見は、今はほとんどの場面で解消されているか、解消しようという動きが見られている。
ただ、賛否両論はあるが従業員の健康管理のためにダイナミクス性の提出を求める会社もあるし、周囲からの理解が得やすいのも事実だった。
それに、第二性の有無が分かれば対処法も分かるのだ。多くの人間はそれを目的として検査を受ける。柏木だって、大志にとって一番いい未来を作ろうと考えてくれたにすぎない。
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結果として、それは残酷な事実を突きつけてきた。
『Dom性・+』
結果通知に刻まれていた無機質な文字に、大志は凍りついた。
どのカップルの間にも、少なからず第二性持ちが生まれる可能性がある。確率は大体0.2~0.7パーセント。ただし、両親共に第二性を持っていた場合、その確率は4・2パーセントまで跳ね上がると言われている。しかし、これはDomまたはSubが生まれる確率なので、実際は98パーセントを引き当てればいいだけだった。
たった2パーセント。一番引き当てたくなかった性を引き当てた。
そして、この血は、紛れもなくあの父親の血だ。
まるで大志を嘲笑うかのように、そいつは追いかけてきた。
柏木は何も言わなかった。
「そうか」
とただ頷いて、
「俺の同僚にも、Domの奴がいる」
と話した。
「……どんな人?」
「穏やかな奴だよ。穏やかだけれど、心がまっすぐな奴だ」
数年後。その人と会った。
大切そうに美斗を抱える彼を見て、こうなれたらどれだけよかっただろうかと、大志は思ったのだ。
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家を出ようと思った。
里親制度で子の預かりが認められるのは、原則子が十八歳になるまでだ。ただ、進学を理由に二十歳や二十二歳まで延長するケースもあり、大志も柏木も当たり前のようにそれを選択肢の一つとして考えていた。
けれど、大学を卒業するよりも、もっと早く。
自立をして、柏木から離れなければならないと思った。
柏木が母に向けていた感情に、大志は早くから気が付いていた。
柏木から透子を奪った人間と同じ形をして、同じ血を宿して、柏木の近くには居たくなかった。
なによりも、自分の中の衝動がいつか柏木のことを傷つけるのではないかと大志は怖かった。
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高校卒業と同時に家を出ようと思っていること。
大学へは行かずに、働きながら勉強して司法試験を受けようと思っていること。
それを伝えると、案の定、柏木は眉根を寄せたまま諭すような口調で問いかけた。
「本気なのか?」
「K大やT大の法学部だって狙えるんだろう」
当時の大志の志望校。全国的にも法学部が有名な私立大学だ。
行き届いた教育と引き換えに、莫大な学費がかかる。
翌々年から国が給付奨学金を導入したが、その頃はまだ使える制度ではなかった。
「働きながら勉強するのは大変だ。里親手当だってあるんだし、学費のことは心配しなくてもいい。俺は大学を卒業するまで延長するつもりだったし、このまま養子縁組を結んでもいいと思って――」
「もう、十分です」
言葉を、遮った。
「自分の人生を生きてください」
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大学は結局、国立大学の夜間部に進んだ。
進学をしないという選択肢を、柏木は許してはくれなかった。
『「できない」のと「しない」のは違う。お前が選ぼうとしているのはどっちなのか』
そう言われてしまえば、返す言葉もなかった。柏木はこと決まって大志の教育には必要最低限のこと以外は口を出さない、いわば放任主義だったが、この件に関しては頑固だった。
最終的に折れてしまった自分は、結局子どもだったのだろうと大志は思う。
それでも、柏木に頼りたくないという想いは変わらなかった。
少しでも学費の安い大学を求めて、国公立大学のパンフレットやホームページを彷徨っていたときに、二部課程の存在を知った。
学費は昼間部の半額。加えて多くの学校が、学部独自の手厚い奨学金を用意していた。
社会的養護が必要な学生に、授業料の半額免除。一年次の成績がよければ、二年次からはさらにもう半額。
生活費は、民間団体の奨学金が足しになりそうだった。
柏木はそれでも渋っていたけれど、妥当なところに行く、というのが最終的に出された条件だった。進路を限定しないこと。勉強をして、自分の能力を最大化した上で志望校を選び、受験をすること。
その大学は、大志の学力では受かるか微妙なラインだったが、二部課程は昼間部よりも少し偏差値が下がる。滑り込みで合格通知をもらった。
法律事務所といくつかのアルバイトを転々としながら、日暮れと共に始まる授業を受けた。一方ではがむしゃらに勉強して、司法予備試験に合格した。
同級生の多くは、余暇を使って友人と遊びに行ったり、留学や海外旅行に励んでいたりしていたけれど、大志はそのほとんどを頭に条文を詰め込むことに費やした。
常に忙しいところに身を置いていないと、おかしくなりそうだった。
だが、大学という場所には、大抵一本か二本、ネジの飛んだ人間がいる。
大志の歪みは大学では凡庸な個性として受け流され、そのアバウトさは心地よかった。
そして、二部課程には、大志のように何かしらの事情を抱えた学生が多かった。
災害で親と死別した者、施設育ちの男の子。シングルマザーの貧困家庭。田舎から出てきたSubの女の子は、地元ではSubで女の自分は勉強をさせてもらえないのだと語った。
世の中はどうしようもないほど不平等で不条理に満ちている。
第二性の不調がなかったのは幸いだったと思う。
抑制剤は飲んでいるが、三か月に一度の検診以外はほとんど第二性のことを意識せずに済んだ。欲求が薄いのか、もしくは無意識のうちに制御をしているのかもしれないね。と主治医は言った。
三年次の終わりに司法試験に合格して、法曹への道が確実になった。
同時に柏木から、正式に縁組を提案された。
そうする方がいいと柏木は言った。当時から、柏木の頭の中には父のことがあったのだろう。もう断ることなど出来なかった。
つかず離れず、紙切れ一枚の親子を、今日まで続けている。
時々、大志は思う。
本当に、柏木が父親だったらよかったのに。
そうしたら、Dom性だってきっと受け入れることが出来ただろう。
柏木のアパートの一角には、透子の写真が飾られている。ミニテーブルにクロスをかけただけの、仏壇と呼ぶには質素な仕上がりだけれど、柏木は今でも手を合わせる。
母親の写真を見るとき、大志はいつも思う。男を見る目がないよ。あんた。想ってくれる人がいたのに。あんたを大切にしてくれる人がいたのに。
本当は気が付いている。母があの男から逃れられなかったのも、柏木の手を取れなかったのも、母がSubだからで。母のせいなんかじゃない。
そして、今度はあの父親が、大志の性を利用するために現れるかもしれない。
誰かを支配する性など持ちたくなかった。
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数日が問題なく過ぎていった。
『一ノ瀬。そっちの状況は?』
無線から響く声は、緊迫感はあるが幾分か柔らかな口調だった。
「異常なーし」
運転席のハンドルに腕と首を乗せ、一ノ瀬は間延びした声で返す。
上長にこんな態度は取らない方がいいのだが、それは同期のよしみだった。
『……そうか』
機械の奥で、国近が深く息を吐いた。
『キリのいいところで仮眠を取ってくれ』
アパートの周辺には一ノ瀬と同様に捜査官が何人か張っていた。
身辺警護とは別に、一ノ瀬には与えられた役割がもう一つある。
それをきっちりとこなすためには、休むことも仕事のうちだった。
他の捜査官たちは不眠不休で動いていることだろう。自分だけが配慮されていることに居たたまれなさを感じながら、はいはいと軽い調子で頷いた。
「そっちの様子は? 何か進展あったか?」
『まだ何も』
それもそうだ。進展があるならすぐに連絡が来るはずだと苦笑する。
慣れない現場で、思っている以上に神経が高ぶっているのかもしれなかった。
コンコン、と助手席の窓ガラスをノックする音で、意識がそれた。
窓ガラスの向こうで、大志がこちらを覗き込んでいる。
はぁ、とため息を吐いて、一ノ瀬はサイドのボタンを押して、窓を開けた。
君を狙っている人物が見ているかもしれないのだから、あまり近寄らない方がいい。そう言葉を発する前に、膨らんだビニール袋が差し出される。
「差し入れです」
一時間ほど前、コンビニに行くと連絡が入ったので着いて行った。
ここ数日間、大志は徒歩二分のコンビニと宅配だけで生活をしている。週に一回、宅配で食料を揃えて、急に入用になったものはコンビニで調達する。スーパーマーケットのような店内が広い店舗よりは、コンビニの方が警護はやりやすい。
きっと、それを分かっているのだろう。
店の外から見張りをしていたので、何を買ったのかは見えなかった。
精悍な瞳に逆らえず、思わず受け取って、中を見る。
缶コーヒーが二本と、グリーンガムが一つ。
菓子パンとおにぎり、他片手で食べられるような食料がいくらか。
袋の端の方に、緑色の箱が乗っていた。
「たばこ……」
「それでしたよね」
502号室に邪魔したとき、会の途中で一本だけ吸った。それを彼が覚えていたとは思わなかった。
買えないかと思って。と大志が続ける。
妙なところで律儀だ。
「……君を守っているうちは吸わないけどな」
ぷと吹き出し、袋から出したそれを顔の近くに掲げた。
「まあ、ありがとう。もらっておくよ」
*
東京。霞が関。警視庁。
柏木誠一は捜査本部の中にいた。
時刻は深夜一時すぎ。広い会議室には柏木と、もう一人、国近だけが残っていた。
節電のために電気は入口付近以外消されていて、二人は漆黒の中にぽぅと浮かび上がったその場所で業務に励んでいる。二人の間に会話はなく、部屋の中はひっそりと静まり返っていた。時折、思い出したかのように無線の音が聞こえて、それに国近が生真面目な声で返事をしている。
柏木は立ったまま、入口付近に置かれたホワイトボードを睨みつけていた。
そこには事件の概要や相関図が簡潔にまとめられていた。
「一つ、聞いてもいいですか?」
沈黙を破ったのは、国近だった。
最前列の机に腰をかけ、四方八方から飛んでくる報告を統括している。
柏木は振り返り、国近に目線を合わせた。
「どうして、椎名が大志くんのところに来ると?」
「……と、言うと?」
「……十年以上も前に生き別れた息子、今さらどうにかしたいと思いますかね。もう他人でしょう」
その言葉にはめずらしく棘があった。きっと本人も自覚していないような、ほんの小さな棘。そういえば彼の母親は、彼が物心つく前に男を作って出ていったのだという話を聞いたことがあった。どこにいるのかも、何をしているのかも知らない。生きているのかも分からない。自分が死んでも悲しむ人間は、もうこの世にはいないだろうと、異動したばかりの頃に話していた。
その彼が、近頃生涯の伴侶とも思えるパートナーと出会えたのは、心底良かったと柏木は思う。
「……昔、養護施設の知人に聞いたことがあるんだ」
柏木は、唇を開いた。
「問題のある親が、子どもが成人に近づくと会いに来ることがあるんだと」
「どうしてか分かるか?」
柏木の問いに、国近は不思議そうに首を傾げた。
「働ける年になったからだ」
彼の顔が、今度は悲痛に歪んだ。
「……子どもは、それが分かっているのに親を捨てられない」
「大志くんも――」
「――そうだと、思っているんですか?」
柏木は小さく笑って、首を横に振った。
「……今話したのはほんの一例だけどな。でも俺は思う。問題のある親ほど、自分と子どもの分化が出来ていない。自分と子どもが別の人間であることを理解していないんだ。だから自分の都合で子どもを振り回す。だが――」
「それは大志も同じだな。自分と父親が別の人間であることを理解していない」
「……」
「……道を踏み外さないようにしてやるのも親の務めだ」
そこまで聞くと、国近は小さく息を吐いた。
「……だから、一ノ瀬じゃないといけなかったんですね」
目線が窓の方へと向いて、そのずっと先を彼は見た。
「適任だと思います」
「あいつの言葉は、人の心を溶かすから」
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