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【第4話】透明な目を持つあの人は。5

*  事態が動き出したのは、それから一週間後のことだった。  その日、柏木大志は新宿駅近くの喫茶店にいた。  時刻は夕刻を過ぎたところ。三十席ほどの密集地にしては少し広め店内の窓側の席に腰をかけ、クライアントの女性と向かい合う。  大志が目指しているのは民事領域専門の弁護士だ。クライアントと外で打ち合わせをすることがある。  入社して半年が過ぎた。初めは見習いとして先輩について回っていたけれど、最近は徐々に一人で案件をこなすことも増えた。  誰かに付いてきてもらおうと思えばできたけれど、大志はしなかった。 「お願いします」と言ってクライアントが頭を下げる。通常は店の外で別れるのだけれど、一ノ瀬が警護についた日からは店内で解散するようにしていた。「次の打ち合わせがあるので」と理由をつけて、その場から離れてもらう。 「大志くん」  後ろから、声が飛んだ。  この数日間、一ノ瀬は常に大志の近くにいた。  アパートや事務所に居るときは建物の外に、出歩くときは五歩後ろを歩いてきた。通勤で電車に乗るときは手を伸ばせば届く距離に彼はいた。  今日も大志とちょうど背中合わせの席に腰をかけ、打ち合わせの間、客のフリをしてコーヒーを飲んでいた。  スーツ姿の彼は、一見すれば待ち合わせをしているサラリーマンのようにも見えるだろう。  彼が話かけてくることはなかった。  警護をしているのが露見するのは良くないからだと言った。  ふいに話しかけられたことに驚きつつ、小さく返事をする。 「四時の方向に君を見ている奴がいる」  背筋が、凍りついた。  目線をゆっくりと窓の外に向ける。  狭い道路の向かい側で緑色と金髪の派手な髪をした男が二人、確かに自分を観察していた。 「どうも事務所からつけてきているが、知り合いか?」  気が、付かなかった。  普段よりも気を張って生活していたのに。 「いえ……」  首を振る。 「知りません」 「……そうか」  一ノ瀬は静かに頷くと、自身の襟元へと手をやった。そこには小型の無線機がついているらしい。  『不審人物』『計画』という単語だけが聞こえた。  それが終わると、彼は耳元に手をやった。そこ挟まれているイヤホンを外し、同じように襟元の機械を取り外す。懐からおそらく警察手帳を取り出した。  その全てを、客席の目立たない場所に置いた。 「俺が先に会計を済ませて出るから。三分経ったら出ておいで。外から見ているぐらいだ。店の中で何かをしようという気はないだろう」 「出たら、出来るだけ人通りの多い方へ向かって。走らなくてもいい」  コクりと頷く。  一ノ瀬はそのまま伝票を持って立ち上がる。レジカウンターへと向かった。  会計が終わったと同時に新しい客が入ってきて、一ノ瀬のいた席に座る。  大志は腕時計へと目をやった。  心音がうるさく脈を打った。  秒針が三周したのを確認して、大志は立ち上がった。 *  外に出ると、一ノ瀬は看板の前でスマートフォンを耳元に当てていた。  通話の先は、きっとどこにも繋がっていない。  彼が大志に向かって目配せをする。同じく視線を返して、大志は先へと進んだ。  道路の向かい側で、二人組の男が動き出したのが見えた。 一ノ瀬が「では」と通話を切り――正確には切ったふりをして、五歩ほど後ろをついてくる、  喫茶店はメイン通りから少し奥に入った場所にある。  大通りまではそう遠くないが、少しばかり距離があった。夕方にしては人通りもまばらで、走らなくていいと言われていたけれど、自然と大志は早足になった。  開店準備をはじめている飲食店を通り越し、暇そうなコンビニの前を過ぎる。  線路沿いに差し掛かると、ホームレスの男が死んだ目で物乞いをしていた。  もう、あと二つ角を曲がればメインストリートに出る。そこは駅ビルもショッピングモールも近いから、人もたく さんいることだろう。  そのとき、腕を引っ張られて路地に連れ込まれた。  乱暴に背中をビルの壁に押し付けられ、衝撃が広がっていく。  思わず塞いだ瞼を開けると、別の男が二人、大志の目の前にいた。  一人は、灰色髪のホスト風な装いの男。  もう一人は黒髪のツーブロックで、鎖骨から首元にかけて、不気味な細長いタトゥーが入っていた。  二人とも派手好きが集まるこの街では、どこかで目にしそうな出で立ちではあったけれど、そういうまともな、話の通じるような相手ではないということだけは分かった。  逃れようと身体を捩ったところで、先ほどの男の一人が路地の入口から入ってきて、逃げ道が塞がれる。 「本当にこいつっすか?」  金髪の男は、大志をまじまじと見つめて言った。 「地味だし、気も弱そうだし、役に立たなそう」 「椎名さんの考えるこたぁはよく分かんねぇよなぁ」  腐敗したゴミの匂いが鼻につく。  ひんやりと冷たい空気の中で、路肩に落とされたテイクアウト用の紙パックやゴミくずが風に煽られ、カサカサと音を立てた。遠くから電車の音が聞こえる。メインストリートの笑い声。対照的に、この場所は暗く淀んでいる。  どかっと、音がした。  路地の入口から、背中を蹴り飛ばされて、一人の男が倒れ込む。  立ち上がろうとしたその肩を乱暴に押さえつけて、金髪の片割れ――緑髪の男がもう一回、跪かせた。  男たちの動きが止まって、視線がそちらに集中する。  跪くその姿は紛れもなく一ノ瀬で、大志ははっと目を見開いた。  呼び掛けようと、唇を開いたところで、一ノ瀬が男たちに気づかれないよう大志を見つめ、小さく首を振る。 「どしたん、こいつ」  金髪の男が問いかけた。 「さぁ? そこにいたから」 「ありゃ? 見られちゃった?」  ホスト風の灰色が、臆面もなく小首を傾げた。 「知り合い?」  タトゥーの男が大志に聞いた。 「……」  大志は押し黙る。男は語気を強めた。 「知り合いかって聞いてんだけど」  剝き出しにされた敵意に怯み、首を振る。  タトゥー男は納得していない様子で、大志を伺うように見つめた。  けれど、ちょうどそのとき、金髪の男が「あれぇ?」と首を傾げ、男たちの意識は金髪男に集中した。 「お兄さんSub?」 「あぁ!」  緑髪の男が頷いて、拳を手の平で叩く。 「言われりゃそうだ」 「へー……」  タトゥーの男が大志から離れた。  一ノ瀬の方へと向かい、興味深そうに彼を見下ろす。  革靴で彼の顎を持ち上げ、しげしげと検分すると、 「まあ、ちょうどいいか」  と息を吐いた。 「綺麗な顔してるし、シャブ漬けにして客取らせれば……」 「ありゃぁ! まじっすか」 「ははっ。お兄さんかわいそー。運がなかったねぇ」  金髪と灰色髪が楽しそうにけらけらと笑った。  そのとき、俯いたままの一ノ瀬の肩が小さく震えた。  震えは段々と大きくなり、くくっと大きな笑い声に変わる。 「なんだこいつ」  男たちが怪訝な目で一ノ瀬を見つめる。  一ノ瀬は顔を上げると、彼らに向かって言い放った。 「クソガキが。調子に乗ってんじゃねぇぞ」  瞬間。沈黙が広がった。  空気を切り裂く音と共に、彼の身体が蹴り飛ばされ、うめき声をあげながら倒れ込む。 「いっ……!」  タトゥーの男が彼の頭を踏みつけて、ぐりぐりと跡をつけた。 「ありゃぁ。怒らせちゃった」 「……口の利き方は躾けなきゃだな」 「これはこれで需要ありそうっすけどねぇ」 「つか、あんま傷つけないほうがいいんじゃないすっか?」 「どうせ傷だらけになるんだから変わんねぇだろ」 「ははっ。それもそっか。あとで可愛がってあげないと」  コツ、と足音がした。  男たちが動きを止めて、そちらを見つめる。  空気が、変わった。  奥の暗闇から、男のシルエットが現れる。  重圧が、大志の身体にのしかかった。    実父の顔を、大志はおぼろげにしか覚えていなかった。  大志の生家には団欒というものがなかった。だから大志は父に遊んでもらったことも、三人で遠出をしたこともない。当然ながら家族写真も撮ったことがなかった。  父の前科は聞いていたけれど、そんな小さなニュースでは彼の顔写真は公表されなかった。柏木は、父の写真の一枚ぐらいは持っているだろうが、大志には見せなかった。  記憶というのはどうしてこうも身勝手なのだろう。  形になっていく。閉じ込めた記憶の欠片が。    ブリーチで傷んだ髪。  見るものを全て凍らすような鋭い三白眼。  誰の言葉も響かないのではないかと思うほど小さな耳と薄い唇。  不健康そうな土気色の肌。  記憶の中のその人と、目の前の男は不自然なほど変わっていない。    そうだった。父はこういう顔だった。 「……椎名さん」  灰色髪の男が彼を呼んだ。  父の顔に、微かな笑みが浮かぶ。 「時間かかりすぎ。人が来んだろ。しかも……」  目線がコンクリートの一ノ瀬を捕らえる。 「……一人多いし。なに? そいつ」  緑髪が、事の次第を説明した。 「ああ、なるほど。まあ、お前らにしては上出来だな」  男たちが道を開ける。その男はゆっくりと大志に近づいてきた。  目の前に立つと、三白眼は大志を値踏みするかのように見つめた。 「少し、透子に似てきたな」  頭の奥がカッと熱くなる。  睨みつけると、髪を乱暴に掴まれた。 「いいよなぁ。ここ数年でダイナミクス性への差別も随分減った。お前みたいなのでも弁護士になれるんだってな」  左右に揺れる脳みそは大志を過去に引き戻した。  機嫌が良くないときによくこうやって、頭を揺すられた。 「働く場所もなかった俺とは大違いだ」  大志から手を離す。  懐に手をやった。そこから煙草の箱を取り出し、一つ咥えて火をつける。  ふうと、大志に向かって息を吐いた。 「でもさぁ……」  煙が、顔にかかる。  甘く、むせかえるようなバニラの香りがした。 「俺と透子のガキが、まともになれるとでも思ったか」  がたがたと音がした。  男たちの拘束から逃れようと、一ノ瀬が身体を捩っていた。  父の目線が大志から外れ、ちらりと一ノ瀬の方を向く。 「ああ。こら」  に、と不敵に彼の口角が上がる。 「いい子はおねんねしないとなぁ」  ああ、ダメだ。 「“Sleep”」  大志の目の前で、一ノ瀬の身体はクラりと揺らいで、そのまま地面に落ちた。

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