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【第5話】優しい「    」を吐く。2

*  ぎゃはは、下卑た笑い声が聞こえてきたのは、それから四半時が過ぎた頃だった。それは感覚なので、実際はもっと長かったのかもしれないし短かったのかもしれない。  パスコード付きの扉がきぃと不快な音を立てて開いた。  緑、金、灰色、黒。自分たちを拉致した四人組が、後ろの方から姿を現した。  一ノ瀬と大志は、初めの位置に戻って、後ろ手に腕をまとめていた。  あの後、この場所に戻ると、一ノ瀬は大志に縛れと言った。と言っても彼の縄は、初めよりもかなり緩く巻き付いている。手首の角度を変えればすぐに抜け出すことができるような弱い拘束だ。大志の方もそれらしく腕に巻いているだけで、拘束としては意味を成していない。  四人組は緩くなった拘束には気が付かないまま大志を一瞥すると、一ノ瀬の前へと立ちはだかった。 「お兄さん、目が覚めた?」  先陣を切って金髪が問いかける。一ノ瀬は胡乱な目つきで金髪を見上げた。  金髪の指先が、一ノ瀬の頬に触れる。 「色々細工はしないといけないんだけどさぁ……」  頬骨を下品に滑り、にたにたと検分するように男は一ノ瀬の身体をなぞった。 「まずは俺らとあそぼっか」  横の男たちが、彼の背広に手を伸ばした。  指先がシャツにかかり、細身の身体と筋肉質な肩が露わになる。  その時、ひゅっと風を切る音と共に、どかっと鈍い音がして、金髪の身体が空を飛んだ。 「は……?」  当惑の色を浮かべて、他の男たちが数メートル先で沈む仲間を振り返る。 「……っ、て」  金髪が腰を抑えて、衝撃の痺れを受け流していた。  男たちは何が起こったのか分からない様子だったけれど、事の始終を見ていた大志には全て理解できた。  一ノ瀬が腰を浮かし、金髪の肩を勢いよく蹴り上げたのである。  彼の横顔を見やりながら、大志は先ほどの会話を反芻した。 * 「俺に少し考えがある」  一ノ瀬の考えは、大志にも少し理解はできた。  だが、現実的とは思えなかった。 「見たところ、あの四人はDomじゃない」 「……どうして、そんなことが分かるんですか?」 「なんだ、俺のSub性はすぐに見抜いたくせに鈍いんだな」  軽い調子で一ノ瀬が言った。  明快な口調のまま続ける。 「俺が挑発しても、あいつらは俺を殴るばかりでコマンドは使わなかっただろ」   「Domなのだとしたら、そこでコマンド使うだろ。その方が手っ取り早いし、確実に俺の心を折れる」 「……。それは……。確かに」 「だから、Domではないと考える方が自然。あのグループでDomは椎名一人だけだ」 「……まさか、そのために挑発したんですか?」 「まさか。単純にムカついたからだよ。だが僥倖だな。踏まれた甲斐があった」  あっけらかんとした口調に、大志は目を丸くした。 「椎名の目的は君をこの馬鹿げたビジネスに利用することだろ。君に言うことを聞かせるためには弱みが必要だ。一緒に拉致られた俺はちょうどいい駒になる。ただ、あいつらはむしろ俺に興味を示してたし、俺をいたぶりたくてたまらないらしい。それなら利害が一致してる。間違いなく俺に手を出してくるだろうし、適当に『遊んだ』後、椎名が『仕上げ』をするつもりだろうな。だが……」  に、と殊勝に彼が笑った。 「Normalの人間四人だけなら、俺は勝てる」 「……危険ではないですか? 薬も使っていると聞きました。他にも仲間がいるかもしれないし、武器を持っている可能性だってありますよ。そもそもそんな状態で……」  大志が言うと一ノ瀬は懐に手を入れ、チップ状の小さな機械を取り出した。  発信機だという。こちらから連絡は取れないけれど、親機が近くにいるとライトが赤く光る仕組みだと説明した。一ノ瀬が横のスイッチを押すと、ライトが赤く点滅した。もう一度押すと、今度はライトが消えて目立たなくなる。柏木たちが近くにいる証拠だと語った。 「一瞬の隙が出来ればいいんだ。あいつらの注意を俺に惹きつけたい。ここには民間人が俺たちの他に六人いる。人質にとられる可能性がある以上、捜査本部はむやみに突入できない」  でも、と一ノ瀬が発信機を握る。 「逆に言えば、隙が出来れば助けが入る。奴らにとって俺は大事な『商品』だ。傷つけこそすれ殺しはしないだろう」  『殺し』という単語は、大志の背筋をかすかに凍らせた。あの人はもう、取り返しのつかないところまで来ている。自分と彼の何が違ったというのだろう。 「せいぜい可愛がってもらおうじゃねぇか」 * 「っ、と」  一瞬の隙で一ノ瀬が反動の力を借りて立ち上がる。今度は手元の縄を器用にまとめ、灰色髪の首に巻き付けた。ぐっと、力を入れて気管を絞め上げる。ぐはっ、と短い悲鳴のあとに、灰色髪の身体はくらくらと危なげに揺らぎ、縄を外そうともがいたけれど、最後に腹を蹴られて片膝をつく形になった。床に向かってごほっ、とせき込む。 「てめ……!」  男たちは、今度は黙ってはいなかった。黒髪のタトゥー男が一ノ瀬に掴みかかり、緑髪の男が応戦する形で殴りかかる。  一ノ瀬は黒髪の左腕を握り、相手が足を浮かせたと見るや、華麗な所作で出足払いを決めた。横腹からコンクリートの床に叩きつけられ、黒髪が呻く。  素早く黒髪を捨てると片足を浮かせて、今度は緑髪の顎先を強く蹴り上げた。 「っ……!」  緑髪の身体が揺らぐ。  その時、背後の扉が、再びきぃと嫌な音を立てて開いた。  コツ、コツと革靴の音がゆっくりと近づいてくる。はっ、と気が付いて大志は叫んだ。 「……せさん!」 「“Kneel”」  絞りだした声は、その人物が繰り出す厳かな声にかき消された。  カクり、と一ノ瀬の膝が落ちる。 「なに騒いでんだ」  男が、言った。  三白眼は干上がった男たちを見回して、横の大志を一瞥し、一ノ瀬の姿を捕まえる。 「……った」  緑髪が起き上がり、腫れた顎をさすった。 「クソ生意気な奴だな」  仕返しと言わんばかりに一ノ瀬の頬に拳を飛ばす。  倒れた身体に、一発、二発と蹴りを入れる。 「どうして今更……」  呟きが大志の口から零れた。  父の瞳が、一ノ瀬を離れて大志に向く。  不思議なほどに、目は合っているのか合っていないのか分からなかった。 「あの後姿をくらまして、何の連絡もなかったじゃないか」  この人なりに愛情があると思っていた時期があった。  なにか事情があったのではないかと、思っていた頃があった。  けれど、どうだろう。いつまでたっても、大志には彼のことが分からない。 「俺のガキをどうしようと俺の自由だろ。利用価値があるから使う。なければそこまでの話だ」  いつか分かり合えるのではないかと心のどこかで期待していた。  キッと、大志は奥歯を噛む。 「……俺のことを調べたのなら、俺の養父の仕事を知らないはずはないだろう。こんなことをしてただで済むと思っているのか」 「ああ……。警視庁の刑事だったか。いつまでたってもこちらの動きに気が付かず、後手後手に回ってばっかで笑ってしまうな。だが、お前らはもうここから出ることはないし、関係ないだろう」  その間にも、一ノ瀬の鳩尾には重たい蹴りが飛んでいた。  気が付けば金髪と黒髪が応戦し、灰色髪も彼の頭を踏みつぶしている。  椎名の目線が、大志から外れた。 「おい」  と、騒ぎに向かって声をかける。  攻撃が止んで、四人組が一歩ずつ一ノ瀬から離れた。  ごほっと、一ノ瀬がせき込んだ。  男たちの隙間をぬって、椎名が一ノ瀬に近づく。  革靴の先で、彼の顎を軽く突くように蹴り上げた。 「おら、起きろ。“Kneel” んで、『脱げ』」  連続して向けられたコマンドに、一ノ瀬の指先が、床を掻く。  本能的に起き上がりそうになった腰を留めて、一ノ瀬はぐっと、拳を握った。 「誰が……従うか、ばーか」  か細い呼吸のまにまに、気丈な瞳で男たちを睨んだ。 「子どもは親の道具じゃないし、Sub(おれ)Dom(あんた)の玩具じゃねぇぞ?」 「強情だなぁ」  再び暴力の嵐が彼を襲った。  灰色髪が一ノ瀬の髪を鷲掴み、無理やりKneelの姿勢をとらせる。  抵抗をしたところで金髪が頬を殴った。 『Normalの人間四人だけなら俺は勝てる』  嘘だ、と思った。  一ノ瀬は決して弱くはなかったけれど、四人組はすでにそのダメージを感じさせないほど回復している。  どの攻撃も彼らの動きを完全に封じるには至っていない。  これでは気を惹きつけるには不十分だ。持久戦が続けば、自ずと一人の一ノ瀬は不利になる。  その間に父が出てきたら勝ち目はない。一ノ瀬がそのことに気が付かないはずがない。  この人は初めから、自分がボロボロになるつもりだった。その上で出来る限り挑発して、彼らを自分の近くに引き留めるつもりだろう。  この場で起こっている理不尽を、不条理を、全部、不自由なその身一つで引き受けようとしている。 「嫌だっつてんだろうが」  一ノ瀬が唾を吐いた。  空気が変わった。  重圧が、隣の大志にも分かるほど広がった。  三白眼の輝きが、鋭く深くなる。 「“Come”」  ぞわっと、肌が粟立った。  ひくりと、一ノ瀬の喉が下がる。  身体は、今度はカタカタと震えて、ついにピクりと動き出す。  欄干に手をかける。普段洗濯ものを干すときとなんら変わらない穏やかな所作。  落ちていく母の姿と、一ノ瀬の姿が重なった。  ダメだ。  大志は思った。  大切なものが零れ落ちていく。 『それとも救えたはずだと思っているのか』  あれは図星だった。  Dom性の診断を受けたときに思った。自分がDomなら止められた。どうして助けられなかったのだろうかと。  自分は母を、父を止められたのではないかと。  その時、大志の中で何かが変わった。  母が居なくなった日から、いや生まれたときからずっと、壊された普通を、必死につなぎ合わせて生きてきた。  どうして。  どうして自分だけが。  自分だけが、違う形をしているだなんて思わなければならないのだろう。    ずっと、口にすることが怖かった。  けれどきっと、目の前のこの人はそんなに柔じゃない。 「一ノ瀬さん!」  叫んだ声が、コンクリートの壁にぶつかり、反響する。 「“Stay”」  はたと、一ノ瀬の動きが止まる。  吃驚と困惑。 大きく見開かれた目が、大志に向いた。 「『俺を見て。俺の声以外聞かないで』」 「出来ますよね。貴方なら」  は、と殊勝に口角が上がった。 「ああ。サンキュー」  一ノ瀬は身体を捩った。  一番近くにいた黒髪に頭突きをかまし、起き上がりながら緑髪の胸倉をつかむと床に向かって投げる。横から髪を掴んできた灰色髪の脇腹を、隣の金髪ごと蹴り上げた。  大志は縄を捨てて走りだした。  渾身の力で椎名に体当たりし、そのまま壁へと追い込む。  腕を使って、首元をぐっと押さえつけた。 「あんたが何を抱えていたのか、俺は知らない。興味もないから知りたくもない。でも、これだけは言っておく」 「……ぐぁっ」  大志の腕を、椎名が掻く。  逃れようともがいたけれど、大志の力の方が強かった。 「俺の父親は、柏木誠一。警視庁刑事部の刑事。そのただ一人だけだ」 「あんたじゃない」 「突入!」  と声がした。  フロアの入口から警察官が押し寄せ、男たちを取り囲む。  部屋の中はすぐに屈強な男たちでいっぱいになった。  一部の者が一ノ瀬に応戦して男たちを制圧し、もう一方のグループが部屋の端にいる被害者たちを保護する。  気が付けば隣に柏木がいて、大志は椎名を柏木に引き渡した。 「二十時十八分。営利目的等略取及び誘拐、暴行、強姦未遂その他もろもろで現行犯逮捕」

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