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【第5話】優しい「    」を吐く。3

*  パトカーの音が聞こえる。  コンクリート張りの部屋の真ん中で、大志は一ノ瀬の隣に跪いた。 「申し訳ありません。俺がもっと早く動いていたら」 「……ばーか」  指先が、コツンと額に触れた。 「民間人を守るのが俺たちの仕事だ。そこに性別なんて関係ない。動けなくなったのは俺の落ち度で、君のせいじゃない」  ふっと、薄く笑った。大志の顔と身体を一通り見つめて、小さく息を吐く。 「……怪我がなくてよかった」  部屋の端から、長身の男が歩いてきた。  周囲の警察官に向かい、あれやこれやと指示を出している。  二人の姿を見つけると、駆け足気味で近づいてきた。 「二人とも無事でよかった」 「遅いんだよ」  国近は大志の怪我の状況を冷静に観察し、目立った外傷がないことを確認してから、一ノ瀬に目を向けた。  彼の惨状を見ると、切なげに眉を寄せた。 「大丈夫か」  伸ばされた手を、一ノ瀬は少しの間見つめて。  軽く笑う。 「……触るなよ、相手持ちにどうにかしてもらうほど落ちぶれちゃいない」  そう振り払った。 「っと」  反動をつけて立ち上がる。 「一服してくる」  言い残して、フロアを出ていった。 *  ふらつきながら外に出る。  捜査官たちの慌ただしい声に背を向けて進むと、少ししてから非常階段の入口が見えた。  覚束ない手つきで懐に手を伸ばす。  抑制剤の入ったピルケース取り出し、手のひらに向かって乱暴に振りしだく。勢いあまって、二、三粒がぽろぽろと指の隙間から零れ落ちた。構わず残った三、四錠を口に放り込み噛み砕く。  そのままずるずると壁に凭れこんだ。  頭の奥が痺れるように痛んだ。 『おら、起きろ。“Kneel” んで、『脱げ』』 『“Come”』  コマンドが、脳幹を侵食していく。  指先に力が入らない。肉体はカタカタと震え、悪寒と吐き気が背中を駆け抜けた。 「はっ……」  自嘲気味に、一ノ瀬は口角を上げた。  いよいよやばいか?  どうして自分には思い通りに動く身体がないのだろう。  自由に動く手足があったなら。  せめて本能を押し込められるぐらい、強靭な精神があったなら。  俺は……。  俺は――。  俺は、国近(あいつ)になれたのだろうか――。  Dropした思考が、深く深く、奈落の底に落ちていく。  喉奥からせり上がってくる何かが、息の根を止めようと一ノ瀬の気管を絞め付けた。  次第に呼吸の間隔は短くなり、ひゅ、ひゅと乾いた音までするようになる。  大切な人を守りたかった。守れると思った。  力もないくせに思い上がって、行きついた先がこのザマだ。  結局誰のことも救えないまま、自分だけが、    自分だけが、  いつも安全な場所で息をしている。  いっそ、この息の根を止められたらどれだけいいだろう。  一ノ瀬は右手で左腕の裾を掴み、自分を抱きしめるように身体を丸めた。  このまま放置していれば衰弱して、楽に死ねるだろうか。  その方が幸せなような気がした。 「……ノ瀬さん」  廊下の先で、誰かが自分を呼んだ。  景色が二重、三重になって暗転する。  ぼやけた視界に、いつかの国近の姿が見えた。  その影がやがて形を変えて、大志の姿に変わる。 「一ノ瀬さん!」  いつの間にか目の前にいた彼に、腕を引っ張られて抱き寄せられる。 「さわ……な」  とっさに身体を押し戻す。 「『逃げないで(S t a y)』」  ふいに向けられたコマンドに、身動きが止まった。 「てめ……!」  目の前の男を睨みつける。  大志は怯まず、至極落ち着いた様子で、 「ゆっくり息をしてください」  と一ノ瀬の背中を撫でた。 「……ははっ」  自虐的な笑いが、また喉元を通り過ぎる。 「君は、身近な人間が傷つくのが嫌なんだな」  呼吸が楽になっているから不思議だった。 「……ええ、嫌ですよ」  そう、大志は答えた。 「耐えられない」  感情を抑えた口調で呟く。 「だから俺は、あなたを救います」  指先が頬を撫でる。  精悍な瞳が一ノ瀬を見つめた。  まただ。  この瞳に見つめられると、言葉が上手く出てこなくなる。 「俺のエゴで、あなたにコマンドを下します」  強い言葉と裏腹にそこで一転、彼は眉を下げた。 「……受け入れてはくれませんか」  ははっと一ノ瀬は低く笑った。  背中にまわる彼の腕を無意識的に自分から握り返していた。  格好つけて逃げたのに台無しじゃないか。  誰かを支配しようとする人間が嫌いだ。支配欲の強い人間は弱いやつを屈服させて満足する。男も、女も、そしてDomも。本質的には何も変わらない。  俺は絶対、あんなのには屈しない。  でも、こいつの手は落ち着くな。  彼をはじめて見たときのことを、一ノ瀬は思い返していた。  後にも先にも、あんなふうに優しいコマンドを吐く人間を、一ノ瀬は見たことがない。  この手にだったら、ぜんぶを委ねてやってもいい。  そう思ったのは初めてだった。  廊下の奥から、背の高い男が近づいてくる。  二人の様子を見ると微かに吃驚して、それから目を細めて、大志の隣に跪いた。 「大志くん。もうすぐ消防が来る。そばにいてやってくれないか。きっと落ち着くと思う」  ふざけんな、勝手に決めるなと思うがもう声は出なかった。 *  目が覚めたときにはベッドにいた。  視界の先で誰かが頭に触れている。一ノ瀬の目が覚めたことに気が付くと、その男はそっと一ノ瀬から手を離した。離れていく袖口を、きゅっと掴んで引き留める。  消毒液のツンとした香りが鼻を掠めた。自分はこの香りを知っている。  父と母と同じ匂いだ。家に充満する香り。かつて自分が憧れていた場所。  そこで、完全に脳が覚醒する。  頭上の人物とパチリと目が合った。掴んだことを後悔して、手を離す。  柏木大志がそこにいた。 「気分はどうですか?」  大志はベッドサイドの椅子に腰をかけていた。  そっと、自身の膝元へ手を戻した彼に、問いかけられる。  身体中が軋んで痛んだ。顔はひりひりとするし、唾を飲み込むたびに血の味が口の中にやってくる。特に背中側の鈍痛は脇腹の方までじくじくと広がり、そこに大きな青あざが出来ていることは想像に難くなかった。けれど、心は気を失う前が嘘のように落ち着いていた。それは眠っている間、彼が懸命にケアしてくれた証拠だったが、一ノ瀬は居たたまれず、「ああ」とか「うん」とか曖昧な返答をした。 「お前……」  ふと、目の奥の光に気が付いて、一ノ瀬は微かに眉を寄せた。 「……ああ」  と大志が自らの額に手のひらをやった。 「……さっきから抑えようとはしているんですけれど、上手くいかなくて。あまり見ないでくださいね。当てられるかもしれないので」  精悍な瞳に、穿ったGlareが宿っていた。監禁されているときずっとDefense状態だったから、その反動だろう。  一ノ瀬の皮膚がぞわぞわと粟立つが、不思議と嫌な気がしないのは、彼の優しいコマンドを身体が覚えているからだろうか。  はぁと小さくため息を吐いて、一ノ瀬は身体を起こす。  シーツを膝元まで丸めて座ると、言われた通り、なるべく大志から顔を反らして問いかけた。 「ここは?」 「病院です」 「見ればわかる」  大志は微かに首を傾げた。少し間を開けてから合点がいったという顔をすると、 「中野の警察病院ですよ」  と伝えた。 「ああ……」  一ノ瀬は頷く。 「……ならいい」  警察の息のかかった病院なら安心できる。  働いている親族や知り合いもいないし、実家に話が回ることはないだろうと息を吐く。 「大事はないそうですが、念のため今夜は泊っていってはとのことですよ」 「何時になった?」 「そんなに長くは経っていません。ちょうど日付が変わろうかという頃合いです」 「君は? 一人で帰るのか? そろそろ終電がなくなるだろう」  ああ、その顔では帰れないな。  通行人が当てられたら大変だ。  手の空いた人間がいないかと探すが、周囲に捜査官の姿はなかった。  大志は現場検証がまだ終わっていなくて、捜査官は全員出払っているのだと説明した。 「でも……」  と大志が微笑する。 「しばらくは父のところに帰ろうかと。どうせ明日から事情聴取でしょうし、いつになるかは分かりませんが迎えに来てもらうので大丈夫ですよ」 「……そうか」  沈黙が広がる。  大志は病室から出ていく気はないようだった。一ノ瀬もそれを望んではいないことに気が付いた。やがて、大志は文庫本を開いて読み始めた。おそらく待合室やエントランスに置いてあるものだろう。  ページを繰る音が、響く。 「なんで嘘ついたのかって聞いたな」  しばらくして、一ノ瀬は唇を開いた。  大志が手を止めて、一ノ瀬を見た。 「妹がいるんだ」 「……はい」 「ピアノを長いことやっていて、外科医になるのが夢だった」 「『だった』?」  ふ、と一ノ瀬は眉を下げて笑う。こくりと小さく頷いた。 「ああ。でも、中学の時に乱暴されて……。いや……」  そこで、気が付いて一ノ瀬は一度言葉を止めた。 「……乱暴って言い方は、俺はあまり好きではないな」  柔らかくかみ砕かれた言葉は、周囲への攻撃性を失うのと同時に事の重大さを隠してしまう。オブラートに包まれた言葉の下に、事実が矮小化される様子を一ノ瀬は何度も見てきたのだ。 「とにかく、そういうことがあって」  一ノ瀬は妹の身にあったことを、家族のことをぽつり、ぽつりと話し始めた。  ただ一度、採用試験でこのことを話した。でもその時は、空気が重くならないよう、もっとぼかして言った。  今まで誰にも、全てを打ち明けたことはなかった。 「俺は刑事部に入りたかった。入って朱莉をあんな目に合わせた人間に、同じような目にあわせようとしている奴らに復讐してやりたかった。  大志は黙って一ノ瀬の話を聞いていた。 「でも俺は、国近にはなれなかった」  ふふっと、一ノ瀬は自嘲気味に笑う。 「Subの警察官が一番される質問って、なんだか分かるか?」  大志が首を傾げる。 「なぜ警察官を目指したのかだ」  はたりと、瞳が微かに見開かれる。 「笑っちまう。そこにはSubなのにって意味が内包されてる。あの子や君がそうだとは言わないが……。あの場では聞かれたくなかった」  守りたいと思って何が悪い。  Subだから気持ちが分かる。  でも、この仕事を選んだのは自分がSubだからじゃない。  生きながらに人が死んでいく姿を見た。  家族として、許せなかった。  美斗と話しているとき、一ノ瀬は自然と妹のことを思い出した。  打ちのめされた身体。奪われた将来。失われた希望。  全てが妹と重なる。それらが全部、巡り巡って一ノ瀬を痛めつける。打ちのめす。 「俺はあの子に嘘はつけない。あの子に聞かれたら、本当の話をしてしまうと思う。でもこんな話――」 「立ち直ったばっかのあの子に、する話じゃない」  だから嘘を吐いた。  そうしてしまった方が早いと思ったから。 「それだけだ」  全てを聞き終えると、大志はそっと文庫本を閉じた。  ちょうどその時、廊下から警察官が一人やってきて、大志のことを呼んだ。  分かりました。と答えて、大志が立ち上がる。 「一ノ瀬巡査部長」  瞳が、こちらを向いた。  目の奥のGlareはすっかり消えて、穏やかな微笑がそこにあった。 「ありがとうございます。あなたのおかげで、俺は明日も法廷に立てる」

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