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【1】オーストラリア

「体力仕事じゃないさ。運転と最低限のキャンプができればそれでいい。とはいえ、口は動かしてもらわないと俺が退屈で死んじまう。生返事もダメだぞ。言葉は意味を持ってこそだ。感情が無くたって構わないが、垂れ流すだけの音はごめんだね。コミュニケーションには脳みその介入が必要だ。あー、いや、別に俺を好きになれとは言っていない。唐突に旅に同行しやがれなんて札束見せてくる金持ちを心底信用するヤツが居たら、それはそれでちょっと脳みその皺の数を疑うってもんだ。……てわけで、キミの一か月と語学能力、俺に買わせてくれないか?」  仰る通りのことばかりまくしたてたサングラスの男は確かに存分に胡散臭く、信用に足りないがしかし僕が悩む間も惜しく若干食い気味で快諾を告げる『Senza problemi(勿論問題ない)』を繰り出したのはシンプルに単純にそう、――金がなかったからだった。  というわけで僕は今、見ず知らずの金持ちと共に、砂漠地帯のど真ん中のキャンプ場に居る。  砂漠、と言っても観光地だ。故にキャンプサイトはムダに充実しているし、共有キッチンもトイレもやたらと清潔で気持ちがいい。日本人にも評判がいい! と聞いていたけれど、これは確かに清潔第一のジャパニーズもにっこりな環境だろう。  エアーズ・ロック・キャンプグランド。  世界で二番目にでかい一枚岩、アボリジニの信仰地ウルルことエアーズ・ロック。そのバカでかい岩からたった二十五キロしか離れていないキャンプ場は、オンシーズンならではの賑わいを見せていた。  オーストラリアの観光シーズンは冬だ。そりゃ春の方が暖かいけれど、ハエが湧きだす季節はできれば避けたい。  快適に旅をしたいのならば、からからに乾いた乾季の後。夏の雨季のかなり手前。このあたりがベストシーズンだろう。  この季節を選んだのは観光ガイドの助言か? と口から垂れ流した僕の言葉は、いつも通りやたらと乾いた笑い声で霧散した。 「はは! そんなわけあるか、たまたまだよ! まあ確かに、聞いていたほどモスカがいないのは僥倖だ」  その後に続く言葉は、この一か月でいい加減耳慣れた心地の良いイタリア語だ。  かさついていて、少しだけ重い耳障りの男の声。イタリア語は英語よりもちょっと強いイメージのイントネーションだったけれど、彼の軽やかな声に乗せた言葉の濁流は、まるで歌のように気持ちが良い。 「……でも、山ほどの蠅に集られながら飯を食うのだってオーストラリアの醍醐味だよ。アンドレアだってさ、旅なんてちょっと不便なくらいが面白い、っていつも言ってるじゃんか」 「不便は醍醐味だが、モスカはシンプルに不潔だろ。汚いものすべてを排除したいわけじゃない。綺麗なだけの世界なんざ気持ち悪いだけだ。ただ、うまいメシはうまいまま、心置きなく頬張りたい。これは思想じゃなくてただの欲だ」  この主張は確かに一理ある。妙に納得してしまった僕が反論を考える前に、アンドレアの言葉はさらりと次の話題に移ってしまう。よく喋る男は頭がいい。頭がいい人間ってやつは、言葉の羅列も話題の転換もスピーディだ。 「今回の俺の旅は僥倖に次ぐ僥倖だ。たまたま空いた時間にたまたま選んだ旅の日程が、ちょうどいいオンシーズンだった。そしてたまたま知り合った現地の通訳が、気のいい男で料理までできるときた!」 「気がいいかは知らないけど、料理はまあ、普通だよ。僕はちょっと長期キャンプに慣れているだけ」 「謙遜、謙遜。だが俺は、キミのその『他を評価し認める目』を評価しているよ。自己評価が低いんじゃない。世界は天才で溢れていることを知っている人間の、ごく当たり前な心情だ。見た目はそうでもないけどね、そういうところは『学者』だなって思う」  僕の外見がこの国では若干子供くさいという自覚はある。ほっとけ。という言葉は飲み込み、ため息に近い声を吐き出した。 「アンドレアは天才側の人間でしょ?」 「どうだかね。運がいいってことだけは認める」  そう言って薄いサングラスの奥で細めた目は、焚火に当てられて不思議な色合いに輝いた。  背が高く筋肉はしなやか。すっきりとした顔立ちはハンサムと言う他ない。色を抜いた髪は明るく、だらしなくうなじにかかる程度に長いけれど、結んだ髪がゆるく零れるさまは見惚れてしまう程煽情的だ。……たぶん、僕じゃない同性から見ても、アンドレアは格好いい男として映るだろう。  僕は比較的引きこもりで、ニュースは世界情勢と政治くらいしか興味がなくて、日々自分の興味の範囲内を追いかけることだけで手一杯だった。  だから、たまたまメルボルンのコーヒーショップで隣の席に座った怪しいイタリア人が、どんな功績で金を稼いだのか微塵も知らない。彼の知名度なんてものも全くわからない。興味がない。びっくりするほどどうでもいい。  今でも『このグラサン野郎はどうやら本当にお金持ちらしいぞ』ということはわかるけれど、わざわざネットを開いて『アンドレア イタリア人 実業家』なんて検索ワードを打ち込もうとは思えない。そのせいで、旅を初めてもう一か月経ちそうだってのに、僕はアンドレアのことをいまだに『怪しい金持ち』として認識していた。  僕にとって大切だったのは彼の提示した仕事の条件と、その報酬だけだったのだ。  アンドレアが探していたのは、通訳と運転手だ。  メルボルンからオーストラリアを縦断して、ウルルに行きたい。時間をかけてゆっくりと旅をしたい。期間はとりあえず一か月。イタリア語で会話ができて必要な時に通訳をしてほしい。あとはレンタカーの運転とキャンプの設営ができたら最高だ。  コーヒーショップで隣に座っただけのイタリア人に唐突にそんなことをまくしたてられた僕が、反射で眉を寄せてしまったのは仕方ないだろう? 本当に今でもそう思う。  僕は研究者仲間の伝手で、ちょっとだけ欧州の言葉が喋れる。観光客の多いメルボルンには、英語に不慣れで戸惑っている欧州人も多い。そんな場面に出くわすと、ほんの少しの徳を積む気持ちで、ちょっとだけ親切を働いたりもする。  あの日もそんな調子で、珈琲の注文を手伝っただけだった。  エスプレッソとクロックムッシュを頼んだだけで、まさかスカウトされるなんて。ていうかアレはスカウトだったのか? テンション的にはナンパに近かった気がするけれど……ああ、いや、でも、正直僕にとっては渡りに船、アンドレア流に言えばとても『僥倖』なタイミングではあった。  僕は鳥類の研究家だ。専門はオオジシギ。オーストラリアから日本までノンストップで飛ぶ渡り鳥だ。  勿論この国に滞在しているのも研究の為だったわけだが――ちょっと色々あって、職を失う危機に面していたのだ。そこはもう本当に割愛したい。なぜなら思い出して言葉として並べることすらストレスだから。  生物学の研究ってやつはただ勉強をしていればいいわけじゃなくて、大学なんていうせまっ苦しい場所で人間関係を円滑に構築しなくては出世できない。そのうえポスドクは薄給で、偉い教授にまるでバイトのようにこき使われる。教授の人格だってガチャだ。誰もかれもが人徳者じゃない。うん。つまり僕は、研究することは好きでも、研究者という職業には向いていなかったということだ。  そのうえ先月実家の母親から『ごめんだけど、百万円くらい貸してもらえないかな。あんたの妹が結婚式上げたいっていうんだけど、うちそんな蓄えないのよ』なんていうクソみたいな国際電話がかかってきた。  知るか、と切ったらよかったなぁと思う。そうするべきだったんだと思う。でも僕はカミングアウトしたときに激高した両親の顔を思い出してしまい、怒りよりも申し訳なさが先立ってしまった。  以上、僕がとても金に飢えていた説明だ。そして怪しいイタリア人実業家(どう見ても僕より若い)アンドレアの怪しいスカウトを食い気味に快諾した言い訳だった。  僕は金がなかったけれど、暇があった!  彼は金があったけれど、旅の準備がまるでできていなかった!  まあ、だからお互いにウィンウィンというか、割れ鍋に綴じ蓋というか、要するに若干運命的ではあった。と言っても僕はただの貧乏学者でほんの少し語学に堪能なだけで、本当に魅力と金を持ち合わせているアンドレアと並ぶと、あまりにも見劣りする。相棒、と自称することは烏滸がましい。  旅の途中、すれ違う人々は誰もがアンドレアに視線を奪われていた。男も女も、子供だって彼を注視する。アンドレアはよく喋るが、あまり陽気な男じゃない。少しだけ皮肉屋で、陰った太陽のように密やかに笑う。  常に鼻の上に乗せている薄い色のサングラスが、彼の視線をうっすらと隠して、ミステリアスな雰囲気を助長させた。サングラスが似合う人種はずるい。僕なんかアジアのマフィアの物まねか? と笑われてしまうのに。  夜になっても、アンドレアはサングラスを外さない。今も焚火を眺めながら、薄いサングラス越しに爆ぜる火を追いかけていた。どうも彼は、目があまり良くないらしい。  ハンディキャップと言うほどではないのだろう。だがしかし、自力の旅において、視力の弱さは歓迎されるものじゃない。  お金があるならウルルまで飛行機で行けばいいし、移動はタクシーにしたらいいし、夜はホテルに泊まればいい。どうしてキャンプ移動なのかと当たり前の疑問を口にした僕に、アンドレアはいつものように口の端を曲げて『快適さなんざ旅には必要ないだろうが。そんなものはただの旅行だ。金があるから不便を選ぶんだよミッキー』と笑った。  ちなみに彼は僕の名前を三回間違えた時にへそを曲げたらしく、以来あだ名で呼ぶことに決めたらしい。  キャンプサイトの夜は騒がしい。それでも日付が変わる頃になると、観光客はテントに戻って寝息を立てる。  みんな、明日も朝から精力的に自然観光に励むのだろう。自然公園はとにかく広いし、どこに行くにも体力は必要不可欠だ。  少しずつ火が小さくなる焚火の前で、僕はちらりとアンドレアを盗み見る。  腹が立つほどきれいな顔をした男は、薄いサングラス越しに空を見ていた。  広がるのは満点の星空だ。見飽きた……と言いたいところだが実は僕はまだ、夜なにげなく見上げた星の瞬きに感動してしまうことがある。  サングラス越しでも、あのささやかな光は届くものなのだろうか。空を見上げていたアンドレアは、ふ、と僕の視線に気が付くといつものように口の端を吊り上げた。 「……見惚れていた?」  声を潜めるのはやめろ、と思う。とてもセクシーで腹が立つ。 「自分の見た目が優れている自覚くらいはあるでしょ。アンドレアはなんでも客観的に評価できるヒトだよ」 「勿論、人類の平均よか容姿は整っている、という自覚はある。そういうふうに評価されるしね。だがなぁ……俺の見た目がどれだけ良くても、好きなやつの好みじゃなきゃ意味がない」 「……意外。恋の話なんかしないヒトだと思っていた」 「俺だって人並の若者だよ。馬鹿だし感情的だし時折脳みそが下半身に左右されそうになる。失敗だって山ほど――あー。いや、ミッキーはグーグルとは険悪だったな? 知らない奴にわざわざ己の醜聞を叩き込まなくたっていいか。そうだな。うん、忘れてくれ今の話は」 「なるほど。傷心旅行の原因はスキャンダルかぁ」 「……俺が傷心だって?」 「違うの? だってアンドレアはこの一か月いつだって、明日死にそうな顔してたよ」  正確には、明日死にたそうな顔だった。  最初の一週間は、嫌だなぁこれ自殺旅行じゃないの? 僕は第一発見者にはなりたくないなぁとびくびくしていたし、朝イチでそこそこ元気におはようの挨拶をしてくれる度に、結構本気でほっとしていた。  僕の言葉を聞いたアンドレアはなんというか……とても珍しい顔をしていた。  感情が何もない。何の計算もされていない、素の無表情だ。  人形みたいな顔はとてもきれいだけれど、僕はいつものにやにや笑う彼の唇の吊り上げ方が好きだ。言葉は意味を持ってこそ、そして人間は感情を持ってこそだと思うから。 「あー……踏み込みすぎた? ごめん。ずっと一緒だったから、距離感がバグってたかも」 「ああ、いや、謝らなくていい。実際俺の心は死んでいたよ。もう飲み込んだ、時間が風化させてくれる、なんて言いきかせても、死んだ心は蘇らない。ただ無感覚になるしかない」 「あー、ちょっとわかる、かな……失恋は乗り越えるものっていうより、ひたすら耳を塞いで心を無にするものって感じがする」 「…………俺こそびっくりだ。ミッキーも恋なんかするのか?」 「恋っていうか、人間関係の話だよ。傷ついた心の癒し方は大体一緒だ。残念ながら、研究者だって研究してりゃ生きていけるわけじゃないもんで。僕の周りには社会があって、人間が絶えず付きまとってるから、そりゃ関係性もできるよ」  後に僕はちゃんとググって、若きイタリア人実業家が同世代の妻に浮気を繰り返されて不能だDVだとあれこれ勝手に書かれた末に、泥沼離婚をしたという記事を見つけた。そりゃ病むよなぁ、と納得したものだが――この時の僕は、勿論アンドレアの事情なんか微塵も知らない。  ただ、彼は恋に対してだけは『不運』だったのだろうなぁ、と思った。  アンドレアは誠実な人だ。一か月、寝食を共にしていれば人となりくらいはきちんと知れる。そのうえ彼は僕に黙ることを禁じた。会話はコミュニケーションの基礎だ。人間は言葉で殴り合って意志の疎通を図る。  飽きることなく言葉で殴り合った僕たちは、不思議な関係性を構築してしまったようだ。  友人かと問われたらノーと答えるけれど、かといって他人というわけじゃない。恋かと訊かれても返答に困る。愛だのなんだのと言い訳できるほど、僕は彼のことを知らないし、積み重ねた時間もない。  でも僕は彼の言葉が気になるし、彼の魅力を無視できない。性的な興奮とかそういうのは置いておいて、アンドレアという人間そのものにひどく惹かれている自覚はあった。 「……ミッキー、寒いか?」  消える寸前の焚火は、ほんのり暖かいばかりだ。と言っても、震えるほど寒いわけじゃないんだけど……僕は少し寒いふりをする。そして招かれるままに、アンドレアの膝の上に乗りあげた。  重いんじゃないか、なんて今更気にしない。僕はこの一か月、飽きるほどこの屈強でセクシーな足の上に乗っている。勿論、性的な比喩ではなく、物理的にマジでそのままの意味で。  メルボルンのコーヒーショップで、怪しい金持ちが提示した仕事の条件は以下の通りだ。  一緒にいる間、言葉を絶やさないこと。  頭で考えて喋ること。  そして、好きなタイミングで問答無用でキスを受け入れること。  ……なんだそりゃ、と思ったものの、金の魅力にはとうてい逆らえず、僕はほとんど理性を殺してこの仕事を引き受けた。一応彼は『セックスはしない。キスだけだ。しかもそこに愛情はない。俺はスキンシップが好きなだけで、でもわざわざそのスキンシップに理由をつけるのが面倒なだけだよ』と言ってくれたから、僕はその言葉を信じて、握手くらいの気軽さでアンドレアのキスに応じた。  ま、金持ちの旅なんて酔狂でなんぼだ。そう思ったから。  探せばカワイイ女の子もいるだろうに。彼の膝の上で何度目かのキスに応じながら呟くと、乾いた笑いを零した金持ちは『誰だっていい、でも今はキミがいるから他はいらない』と言った。  その言葉が僕の中で甘く響くようになるまで、残念ながらそう時間はかからなかった。  本当に恋なんかじゃない。と、今でも強く思っている。でもこんだけ甘ったるいキスを連発されたら、情は湧くもんだよ、そうだろう?  そもそもアンドレアがイタリア人らしく、キスが上手いのが悪い、僕は本当にそう思う。 「…………っ、……ふ……」  キスがうますぎる男に唇を嘗められて、腰が浮かないわけがない。酸素不足でくらくらする。  縋るようにもたれ掛った体を抱き留められて、さすがにこの体勢はいかがなものか、と理性が緩やかに頭をもたげる。でもだめだ。アンドレアの膝の上は、体温は、あまりにも心地いい。 「そろそろ、旅の終わりだな。一か月目の朝が来る。明日、ダーウィンに向かって出発しよう」 「…………あー……そう、だね。もう一週間もキャンプしてるもんね……」  僕のささやかなロードムービーも、漸くエンディングが近いらしい。  ダーウィンで金を手にした僕は、彼を見送ることもなくメルボルン行きの航空チケットを買うだろう。エンディングが流れた後は、彼と出会う前の日々がまた始まる。それだけだ。  思っていたより素敵な映画だったなぁ、でもなんかちょっと失恋みたいな気持ちになっちゃって腹立つなぁ、なんて思いながら、苦笑いで感情全部洗い流してさっさと膝の上から退場しようとした。  ……それなのに、僕の身体はがっちりと抱きしめられていて、なんと微塵も身動きが取れない。本当に、微塵も、だ。 「………………アンドレア? あの……僕、もう寝るけど」 「うん。睡眠は人間にとってかけがえのない時間だ、削ってマシなコトなんか何ひとつない。俺ももう寝る。その前にひとつ確認したいことがある。とても大事なことだ」 「…………」  最後の夜。旅の終わり。  傷心の男が、キスの後に口にする大事な言葉。  ここまで揃えば、そりゃ僕じゃなくたってうっかりドキドキしてしまうだろう?  どんな言葉をもらっても、僕はダーウィンでメルボルン行きの航空チケットを買う。それがスマートなお別れだ。僕と彼は人種も立場も何もかもが違う。一か月の凸凹コンビは、期間限定だったから成立しただけなのだ。  自分にそう言い聞かせながら、それなりに大人しく、そしてしおらしくアンドレアの言葉を待ったというのに。 「ミッキー、キミはエジプト語が喋れるかい?」 「………………は?」  ああ、いや、本当に……殴ってでも膝から降りておけばよかった、と、この時の僕は自分の判断力と好きな男に甘すぎた脳みそを後々散々呪うことになった。 「違うな、公用語はアラビア語か。アラビア語が喋れたらそれでいい。第二希望はうーん、そうだなぁカナダ……カナダは何語だ? 英語? フランス語? 侵略したのはフランスだったか? じゃあフランス語かな。まあ俺はイタリア語以外はてんでダメだから何語だってキミの介助が必要だ」 「待っ……待て、ほんと待って、アンドレア、まずは離せ、そして、降ろせ!」 「残念ながら嫌だよ、ノー。ノーだ。ふふ、そのくらいの英語はわかるぜ。……だってキミは、俺の上から降りるとそそくさと寝袋にくるまって背中を向けちまうだろ。最後の夜なんだから、話はきっちりと向かい合ってするべきだ、そうだろ?」 「向かい合ってないっつの! ゴリラに押さえつけられてるだけだ!」 「はは! 俺に対してゴリラだのなんだの言うのは本当にミッキーだけだ! 常々思ってたんだが、ミッキーの言葉は飾らなすぎて気持ち良すぎて良くない。俺はキミのその気持ちのいい言葉と思慮深い性格が気に入りすぎたんだ。というわけでアラビア語は喋れるか? イエスか? ノーか? どっちだ? 言うまで離さないぞ」 「しゃ、べれなくも……大学でちょっと勉強したけど、読むのは無理で、でもまあ、観光とか買い物の介助くらいならたぶんどうにか……」 「なるほどイエスか! じゃあ次はエジプトだ!」 「…………うん!?」  待て。待て待て本当に待ってほしい、僕はそんなわけのわからない予定を聞くつもりじゃなかった。もっとこう、センチメンタルな言葉を予想して――いやもう過去のことはどうだっていい、大事なのはこのまま呆けていたら、僕の明後日からの人生が大いに変わってしまいそうなことだ。  どうにか無理やり顔を上げ、至近距離にある男前な顔面をにらみつける。結構全力で睨んだはずなのに、アンドレアは面白そうに笑うばかりだ。薄いサングラスなんか意味ないほど、感情が駄々洩れていやがる。  腹が立つ。大変むかつく。ああ、でもその顔が僕は好きだ、本当に腹が立つ! 「僕は……僕は、研究のために、この国に居て――だから、メルボルンに帰らないと、」 「でも大学からは除籍されているだろ?」 「……なんで知ってんの」 「それは勿論調べたからに決まっているが、詳細な手順が知りたい?」 「いや結構です……つかなんで僕……? エジプトに行きたいなら、勝手にそこで現地ガイド雇ったらいいじゃんかよ」 「うーん。それでもいいんだが、というかそうするつもりだったというか、いや本当のことを言うと、エアーズ・ロックに上登った後に死のうかなぁと思っていたんだ」 「重い話急にぶっこんでくるのやめて……エアーズ・ロックは今登頂禁止じゃん……」 「知らなかったんだよ。俺は事前準備が下手だから、リサーチなんかもクソ下手だ。実際来てみたら登れやしないし、登頂禁止の看板を眺めていたら先住民の祈りの方が大事だと思えてきた。大切なものは俺だって足蹴にされたくない。俺はね、ミッキー。エアーズ・ロックに登って死ぬより、キミともっと無駄話がしたいと思ったんだ。つまりキミは、イタリアの大富豪の命を握ってるってわけだ!」 「いや全然うれしくない。なんだそれ。……ていうか僕の事情とか生活は……」 「キミの研究は、どうしてもこの国じゃないとできない? キミが好きなものは、この国にしかない?」  難しい問いかけだった。  鳥は、どこにでもいるものではない。生息地がある。生態を調べるフィールドワークは勿論生息地でしかできないものだ。でも今僕は実質研究をしている、とは言い難い。  僕の好きな鳥はこの国にしかいない。でも、僕の好きなものは、この国以外にもある。……正確には今目の前にあるんだけど、勿論そんなことを自分から告白する気はさらさらない。  あいまいな言葉を吐いた僕に対し、いつものようににやりと笑ったアンドレアはひどい強引さでもう一度僕を抱きしめた。  ああもう……どうにでもなれ、と思う。  こいつはたぶんハリケーンみたいなもので、僕みたいな凡人なんかじゃ太刀打ちどころか、目の前に立ちはだかることすらできないのだ。  アンドレアはひどく嬉しそうに笑った後、ほんの少しだけ声を落として、『怒った?』と呟く。 「怒ってるけど嬉しいからもう何も考えたくない」  素直な気持ちを吐いた僕に対し、嬉しそうに笑った男は『思考の停止は人間性の放棄だ、けれどたまには本能に従うのも悪くないさ』なんて大層な言葉を吐いた後、ひどくいとおしそうに僕のほほにキスをした。くそ。今の良かった、最高だった。もっかいしてほしい、とは勿論言わずに僕は、彼の首筋を噛んでまた彼を喜ばせてしまった。  アンドレアは笑う、ひどく楽しそうに。死にたいなんてもう微塵も考えていなさそうな、柔らかい声で。 「キミの抵抗は可愛くて嫌になるな。癖になりそうだ。……そういえば、キミをこの国から攫うには若干の手続きが必要か。ビザも必要だし……いやでもジャパニーズのパスポートは最強だと聞いたな?」 「エジプトはビザ免除ないよ」 「くそ。じゃあ仕方ない、大使館に行くか。あー……名前、フルネームできちんと覚えないとダメかな。ええと、ミキ…………」 「三木原俊樹」 「言いにくい。やっぱりミッキーでいいんじゃないか? かわいいし、キミに似合っている」  別に、苗字にも名前にも大した思い入れはないし、どうでもいいっちゃいいけれど。  そんなことよりも僕のロードムービーはまさかの続編が始まるらしく、エンドロールに備えてちょっとしんみりしていた空気を追い払う羽目になった。  ちなみに僕たちがお互いにちゃんと『好きだ!』と言い合うまでなんとこのあと三年もかかることになるのだが、まあ、その話はまたいつか、気が向いたらきみに話そう。

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