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【エピローグ】オーストラリア

 ダーウィンは美しい海の街だ。  北半球に住んでいると『北の方=寒い』と刷り込まれてしまっているけれど、南半球では北は赤道方面、つまり暑い地域になる。オーストラリアの最北端に位置するダーウィンも、平均気温が三十度前後という絶妙な暑さを保つ場所だった。 「ブラックのアイスコーヒーって、日本の文化だって知らなかったんだよね……」  からりと乾いているからマシとはいえ、暑いものは暑い。僕の身体が欲したのはアイスコーヒーだけれど、普通に頼むと甘いフラペチーノみたいなものしか出てこない。仕方なくジンジャービア(という名前だけどビールじゃない)を注文してから、英語の表記にまごついているリカルドに『冷たいドリンクはこっち』と助け船を出す。 「なんでもいいなら僕と同じの注文しちゃう? アレルギーとかない? 大丈夫?」 「適当でいいだろ、ミッキー。リカルドもガキじゃない。……いやまあ、ガキだが、これも社会勉強ってやつだ。なあリカルド、食いたいもんがあるならちゃんと言えよ、残念ながら俺たちはテレパシーでは会話できないからな」 「アンドレア、会話は言葉を打ちっぱなしじゃ成り立たないんだよ、ちゃんと言葉を待ってあげなきゃ。急かすのやめたげなよ」 「急かしてない。キミが年下の男につきっきりで拗ねているだけだ」 「嫉妬の範囲が広いなぁ~」  仕方ないなーと零しつつ頬にキスをすると、アンドレアの機嫌はすぐに浮上する。本当に扱いやすい富豪で良かったと心底思う。  どうも保守的な家庭で厳しく育てられたらしいリカルド少年は、あまり人目を憚らない僕たちのスキンシップに都度目を白黒させて戸惑っている様子だ。  まあ、僕も最初はひどく戸惑った。  ゲイだとカミングアウトしたのは家族だけだったし、大っぴらにそれっぽいファッションで男をナンパするようなタイプじゃない。日本人のゲイはいつだって当たり前のように隠れるものだ、と信じていた。  何より僕のパートナーはウィキペディアにもギリギリ名前が載っている実業家なのだ。  ごく普通に関係性を隠して生きていくつもりだった僕とは違い、アンドレアは最初からオープンに僕を恋人として扱った。いつか彼も言っていたけれど、アンドレアは有名だと言っても見た目や人格に価値がついているわけではない。俳優やミュージシャンに比べれば、もっとずっとスキャンダルからは遠い場所に居る人だ。  例えば犯罪に関わったり、非人道的な活動をしたりした場合は糾弾されるだろう。でも、世界的に有名なレモン蜂蜜シロップの若き創始者の恋人が日本人だろうが男性だろうが鳥類学者だろうが、世間はそれほど関心を示さなかった。  そのうちに僕まで現状に慣れてしまって、外で手をつなぐことくらいは気にしなくなってしまった。勿論嫌な顔をされたり、あからさまに侮辱されたりすることもある。昔の僕ならその言葉を聞いただけで三日くらいは眠れなくなっただろう。他人の言葉は怖いし、他人の悪意はとても痛い。  でも今はアンドレアが馬鹿みたいに大げさに労わってくれるし、ヤルマリなんかは『みんな五分後にはすれ違った人間の顔なんか忘れるさ』と控えめに自意識過剰だから気にすんなよと言ってくれる。僕も深く傷つきすぎることはやめた。悲しいことはたくさんあるけれど、思い悩む時間は少なくなるようにと心がけるようにした。知らない誰かの暴言で悲しくなる時間より、僕と一緒に過ごしてくれる人を大切にする時間の方が大事だ。そう思うことにしている。  さてすっかり機嫌を直したアンドレアの介助でコーラを買った少年の名は、リカルドという。  彼はリモーネ・ナストロのどこかの工場の、そこそこえらい人の息子だ。唐突に倒れた父親と育児を放棄した母親に代わり、今はベネデッタさんやアンドレアが一時的に面倒を見ているのだという。  リカルドに星を見せよう。場所はオーストラリアがいい。アラスカも良かったが、いかんせんあそこは寒すぎて俺が嫌だ。ついでにウルルももう一度見よう!  そう言って旅行の計画を立てたのは勿論、アンドレアだ。  リカルドの為という名目を掲げていたけれど、実はアンドレアがオーストラリア旅行したかっただけじゃないのかなぁと思わなくもない。  このところ忙しそうだったし。そういえば僕も学会があったり、ヤルマリのフィールドワークに付き合ったりであんまりイタリアに帰る暇もなかったし。まあ、名目はどうあれ、旅は楽しいものだから、僕は特に不満はない。 「ベネデッタさん、仕事めどつきそうなの?」  甘い珈琲を飲みながらリカルドにちょっかいを出しているアンドレアに問いかける。頬杖をついたハンサムは、今日も薄いサングラスの奥で、柔らかい色をした甘い瞳を細めた。 「仕事はそこまで忙しくないさ。姉が呪詛を吐きながらこなしているのは山ほど申し込まれるデートの方だろうよ。どうせ断るっていうのに一々メシを奢られに行くんだから頭が下がる」 「あー……モテる独身って大変だね……」 「どうも独身を貫くつもりらしいがね。俺は別に、彼女が一人が良いというならそれでいいと思うし、熱烈に恋をしたから結婚すると喚き始めてもそれはそれでいいんじゃないかと思うよ。相手に関しては三時間面談するけどな」 「その時は僕も面談に入れてね。ベネデッタさん、すごいしっかりしてるんだけどなんかたまに抜けてて不安なんだよなぁ……」 「独身野郎と言えば、オオソリハシシギ学者の予定はどうなんだ? 明後日のバーベキューには間に合うのか?」 「ヤルマリはもうオーストラリア入りしてるよ。彼が滞在してるのはシアトルだけど、明日には合流するってさ。あと恋人も連れてっていいかってさっき連絡来た」 「………………恋人いたのか?」 「僕もいま知ってちょっと動揺してるところ。ヤルマリこそ鳥以外に興味なさそうだったんだけどな……」  いや別に、友達がハッピーになるのは素晴らしいことだと思うけどね。うん。 「素晴らしい酒の肴ができたな。よし、バーベキューではオオソリハシシギ学者には鳥以外の話を積極的に訊くことにしよう。リカルド、今から質問の練習だ。俺たちが言ったら角が立つことでも、無垢な少年なら許されるってこともある」 「子供を巻き込むのやめなよー」 「ミッキー、これは練習だぜ。この先死ぬほど面倒な山や谷や壁がある、それが人生ってもんだ。その中で頼りになるのは結局言葉さ。俺たちは言葉をぶつけてコミュニケーションをとる生き物だからな。……よしリカルド、旅の心得だ。まずは言葉を臆さない。思ったことはとりあえず言え、飲み込むべき言葉の選別は大人になるうちに次第に慣れる。黙るのはナシだ、そんな旅はつまらない。旅は言葉があってこそ、そして言葉には意味があってこそだ」  いつかどこかで聞いたような言葉だ。  アンドレアの言葉の洪水を一気に浴びたリカルドは、本当にびっくりしたように目を白黒させていた。  早すぎる大人の言葉にびっくりしているのかもしれない。大人みたいに扱われていることに驚いているのかもしれない。でも、この旅はきっと彼にとって素晴らしいものになる。僕は早くもそう確信している。 「よし、水分補給はしたな? 蠅のネットをかぶっていざ旅立ちだ。この旅はミッキーとのキスが禁止だからな! ネットがあってむしろちょうどいいくらいだ畜生!」  子供同伴なんだからそのくらいは配慮するべきだ。という僕の主張をちゃんと飲んでくれたアンドレアは、意気揚々と蠅ネットをかぶってそのダサさに笑う。リカルドも緊張した面持ちだけど、初めましてと握手したときよりも彼の笑顔は軽やかだった。  レンタカーに乗り込んで、シートベルトを締める。運転席は僕、助手席はリカルド。アンドレアは悠々と後部座席に陣取った。 「ゆっくり行こうか。どうせこの国の道路標識はカメ用だ。ミッキー、オーストラリアの話をしよう。どうせなら俺たちが出会った時の話を――」 「いやそれリカルドはつまんないでしょ」  と言ったものの、なんと当の少年がなぜか『聞きたい!』と目を輝かせてしまった。えええ……うそ、マジで言ってるの? 聞きたいか? 僕とアンドレアのどうしようもない片思いの始まりの話なんて、正直ただののろけにしかならないんだけど。  仕方なく僕は思い出す。  さて、どっから話したらいいんだろう。まずはやっぱり、あのわけのわからない金持ちのナンパの台詞からだろう。  ウルルに向けてアクセルを踏みながら、僕はメルボルンのカフェで初めて会ったイタリア人にかけられた、唐突なセリフを思い出していた。  さあ、キミと旅に出よう。人生という名の旅だ。  世界は広い、人生は長い、どこもかしこも美しいとは限らない。  けれどキミさえ笑ってくれれば、目的地はどこだってかまわない。楽しいだけじゃないけれど、きれいなだけじゃないけれど、この旅はキミがいるからいつだって少しだけハッピーだ。  ロードムービーのロスタイムから始まった僕たちは、きっとエンドロールまで笑いながら走りきる。  きみが聞いてくれるというのなら、僕はまた、僕たちの話の続きを語ることにするよ。拍手はいらないよ、だってまだ、旅は終わっていないのだもの。 終/ヤルマリ主役の話をファンボ掲載してます。気になった方はよろしくお願いします~。

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