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 ぼやけていた視界が鮮明になる頃、薄い呼吸が戻ってくる。  ああ、倒れたんだな、と、うっすら認識できる程度まで自我が回復すると、次に襲い来るものは決まっていた。吐き気に近い悪寒と、指先が震える程の不安だ。  無機質な見覚えのない天井を眺めながらの覚醒は、もう何度も経験している。自室でまどろみから覚醒する時はあんなに心地いいのに、どうして失神からの覚醒はこんなにも息苦しいのだろう。  全身の血の温度が、三度くらい下がったような感覚だ。酸素が行きわたっていない、身体が半分ベッドに同化しているような、そんな不快感。  それでもどうにか数回深く息を吸いこみ、嫌々ながらも上半身に力を入れる。首をしならせるように動かし視線を馳せた先には、やはり既知の派手な髪色の男がいた。 「――……ゃ、……」  名前を呼んだつもりだった。  けれど掠れた喉から零れた音は声と呼ぶには程遠く、ただ無様に漏れ出した空気でしかない。  それでも気配で察したのだろう。勘のいいことだけが自慢だと笑う旧友は、スマホの画面からサッと視線を上げると、あからさまに安堵の息を吐いた。 「おー……生きてたな、良かった良かったー。まあ生きてたのは知ってたけどな、わはは! っつーかひでー有様じゃんよーセリち」  田谷町傑は美園芹のことを『セリち』と呼ぶ。いつも通りの男の笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた、気がした。 「…………ここ、どこ……」 「ん、駅裏の病院。セリち、ぶっ倒れて救急搬送されたんすけど、覚えてらっしゃる?」 「っあー……? 待って、救急、……? なんで?」 「そりゃおれの台詞ですわよ。つか覚えてねーのかよ思い出せし。ヒント、並木公園、赤い服のお子さん、風船、スーツのお兄さん」 「……ふうせん……、っあー!」 「ばっか声がでけえよ落ち着け阿保ここ病院だっつの」  看護婦さん呼んでくっからそこで記憶反芻しとけ、と言い残し、田谷町はさっさと席を外してしまった。  残された美園は、比較的素直に言われたとおりに記憶を手繰り寄せた。浅い息が徐々に通常の呼吸を思い出すように、美園の脳もゆっくりと機能を取り戻す。  ほとんど家から出ない生活を送っている自分が、どうして道端で倒れて救急車で運ばれる事態になってしまったのか。  確か自分は、郵便物を出しに久しぶりに外出したはずだった。  ネットスーパーもウーバーイーツも玄関先まで品物を届けてくれるのに、郵便ポストはドアチャイムを押してはくれない。宅配便ならば集荷サービスがあるが、なぜか『郵送』限定でしかやり取りできないモノも世の中には溢れている。  夜のうちに気が付いていれば、朝出勤する田谷町に『出しておいて』と預けることもできた。夜型生活の美園が寝床を這い出す頃には、同居人は職場に着いてしまっている。  いい加減出さないとやばそうな行政の書類と、ついでに住民税の督促をポケットに突っ込み、財布だけを持って家を出た。出てからやたらと通行人が多いことに気が付き、今日土曜じゃね? と思い当たり、いやじゃあ郵便局月曜でよかったじゃん、と眉を寄せたことまでムダに思い出す。  自宅近くの並木公園は、公園とは名ばかりのただの広い空き地なのだが、遊具が無い代わりに週末ごとに行政や企業のイベントなどの会場として活用されている。不細工な目ばかりでかいクマのような着ぐるみを眺めながら、なんのマスコットだっけ? と思った記憶がある。マスコットの着ぐるみは、色とりどりの風船を子供に配る役目をこなしているようだ。  公園に集う何人かの主婦の視線が美園に刺さり、すぐに何も見なかったように逸らされる。それはそうだ、美園はおよそ『一般的で無害な青年』とは言い難い外見だ。そのくらいの自覚はある。  同居人がうるさいせいでトリートメントは欠かさないが、とはいえ男の長髪はあまり一般的ではないだろう。身長もムダにあるし、その割には姿勢がよくないので歩く姿に覇気がなく胡散臭い、らしい。その上首には、目立つ色の首輪が嵌っている。  大丈夫、俺だって子供なんかには微塵も興味ねーから。  自分の存在を必死に視界の外に追いやり子供を守ろうとする主婦たちを鼻で笑い、速足に公園を通り過ぎようとした。  サッ、と、目の前に赤が飛び出してきた。  それが手放してしまった風船を追いかける子供の服の色だ、と気が付いた時、とっさに手を伸ばそうとしたのは、公園のすぐ隣は交通量の多い主要道路だったからだ。  けれど、美園の手より先に、その声は届いた。 「――とまれ!」  耳の横を殴られたのかと思った。瞬間、目の前で道路に飛び出す寸前だった子供の動きが、不自然に止まる。急に予備動作もなく止まった子供は、足からぺたりと道路に崩れ落ちる。  その様を見ながら、美園は全身を巨人に握りしめられているような感覚に陥っていた。  まずい。やばい。これは絶対に――倒れる。  そう思うものの、一切の抵抗ができない。それほどに強い『命令』だった。子供が座り込んだのは、きっと健常者だったからだろう。だが美園は『犬』だ。座れ、と言われていればマシだったのに、と舌打ちをすることすらできず、遠のく意識の中で駆けつけてくるスーツの男を見たような気がした。 「…………あー……」  思い出した。  つまり自分は、土曜の真昼間の公園で、どこの誰かもわからない男が不用意に叫んだ『命令』に反応して見事に意識を失ったわけだ。  止まれ、という命令に過剰反応し、動きを不自然に止めるだけではなく意識さえも手放したのだろう。  久しぶりの失態だ。いや、倒れることは度々あるが、白昼堂々犬の性質を晒して緊急搬送されるだなんて、さすがに過去の記憶にもない。  ようやく呼吸が落ち着き、吐きそうな悪心も徐々に薄らいでくる。点滴等の管もなかったので、とりあえず身体を起こしてぐらつく頭の痛さに耐え、ベッドの隣の椅子の上に置かれた封書と一枚の紙きれに気が付いた。  封書は自分が持って出た書類だ。結局投函し損ねてしまったが、どうせ土曜だったのだからどうでもいい。  紙きれの方は、見覚えのない名刺だった。  頭を押さえながら、名刺を手に取ったところで田谷町があわただしく帰ってくる。 「看護婦さんいまちょっといっそがしーから、吐き気とかないならもうちょい待っとけってさ。セリちどう? 吐く? だめ? しぬ?」 「……吐かねーし死なねーよ、あったまいってーけどとりあえず生きてる……これ、誰の名刺?」 「あ、それお前をぶっ倒した元凶リーマンが置いてった土産」 「元凶リーマン……」 「いやさ、公園でやってたのって、スミヨシ建築のイベントでしょ? どうもイベント側の社員さんだったみたいなんだけど、ほら、あー……お前と一緒のアレだったみたいでさ。とっさに『とまれ』とか叫んじゃってほんとうに申し訳なかったって、めっちゃくちゃ謝ってて、っつーかおれが駆けつけるまでセリちに付き添っててくれたんだけどさ元凶リーマン」  シンプルな名刺には、確かにあのクマのようなマスコットと社名が印字してある。スミヨシ建築、総務課。 「……浅利、庸介」  そっけない明朝体の名前の横の空白には、ぎっしりと少し大ぶりな手書きの文字が敷き詰められている。  それはありとあらゆる連絡先の文字だ。住所、電話番号、SNSアカウント、メールアドレス。  手書きで汚れた名刺を裏返すと、やはり同じ字で『診察費等弁償します。連絡ください。申し訳ありませんでした』と書き添えられていた。  筆圧が強いのか、柔らかい場所で慌てて書いたのか、名刺は文字のところがぼこぼこと歪んでいる。 「すっげー謝ってたぜー。まあそりゃそうよな、って思うけど。つかセリちマジで具合大丈夫系なの?」 「あ? あー……たぶん、平気、だと思うけど」 「腕とか折れてね? だいじょぶ? 元凶リーマン呼びつける?」 「いや、別に死ぬような怪我じゃねーから落ち着け。頭も打った記憶はねーし……たぶん」 「ちょっとー勘弁してくださいよおれは同居人をこんなうっかり事故で失いたくねーですよ。ま、どうせ『一応様子見ましょう入院』になるんだろうけどさ。……リーマンが抱き留めてくれたみてえだし、頭打ってないのは確定かもね? でもまあ、失神って相当やばい症状だっからさ」  今夜は別居ねアナタ、とシナを作る田谷町の額を軽く指ではじき、うざいとありがとうを同時に伝えて微妙な顔をされた後、美園はまた名刺のでこぼことした表面を指でなぞった。  耳の奥に、まだあの言葉で殴られた後の感触が残っている。  たぶん、とても強い言葉を持った人だ。だから美園は不思議だった。……どうして謝るんだろう。彼は、『飼い主』側の人間なのに。  申し訳ありません、なんて、たぶん、初めて言われた。  そのことに気が付くと、耳の奥の音の傷跡は不快感ではなく、徐々に熱を持つように感じた。

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