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 浅利庸介はふと思う。なんだか最近の自分は、いつも謝ってばかりいる。 「ほんっと申し訳ないと思ってますー……」  渾身の『申し訳ない』声色を作ることに抵抗はなくなったが、この時ばかりは心の底から申し訳ないと思っていた。耳にあてた携帯の向こうには、今現在一番浅利を理解し、一番浅利が頼りにしている医者がいるのだ。 『いや、別にね、わたしに謝らなくてもいいよ。浅利さんがカウンセリングキャンセルするなんてね、珍しいことじゃないしね。またどうせやらなくていいような雑用を押し付けられたんでしょう』 「うはは、小川センセーは相変わらずエスパーだねぇ。その調子で遠隔でカウンセリングしてくださいよー」 『無茶言いなさんな。愚痴を聞いて小言を零すくらいはできますけどね、こちとら患部を見なきゃ何も言えない』 「精神科の患者の患部ってどこ? 脳みそ?」 『顔だよ』  ああ、うまいことを言うなぁとまた関心し、やっぱり今日無理にでも会社を抜け出せばよかったかな、と後悔する。  メンタルクリニック小川の主である主治医は、いつだって突き放したようなちょうどいい距離感で、気持ちの良い言葉を吐く。職場でもプライベートでもほとんど孤立している浅利にとって、小川医師は貴重な存在だ。  気安く会話ができる、という以上に、何も考えずに言葉を羅列できることがとにかく楽だ。人助けの為とは言え、とんでもない言葉を叫んでしまったせいでこっぴどく叱責され始末書まで書かされた後である。この一週間は、とにかく発する言葉を最小限にしようと気を付けていたが、そもそも、浅利に積極的に話しかけてくる人間などほとんどいない状態だ。 『ま、暇を見つけてまた来なさい。浅利さんはね、うん……まあ、そんなに心配いらない方の患者さんだけど、たまには患部を見て安全を確認しないといけないからね』 「顔見せに来いってシンプルに言ってくださいよ」 『遠回しな言葉が好きなんだよ。それじゃあね、お仕事無理しなさんな』  頑張れ、ではない所がやはり良い。  心地の良い会話を終えて電話を切ると、誰もいない部屋の中で大きく息を吐いた。  スミヨシ建築は、主に住宅周りのリフォームなどを生業にしている建設業者だ。先代社長が一人でコツコツと築き上げ、今では個人店ではなく中小企業と言ってもいいような規模の事務所を構えている。華の営業は毎日あちこちを飛び回り、コネを作って顔を売る。  浅利も入社当時は営業の新人として、厳しくも華やかな毎日を送っていた。浅利個人は特に建築業や住宅産業に興味があるわけではなかったが、彼の特性を踏まえたうえで採用してくれたのは、このスミヨシ建築だけだったのだ。  従属性障害、と書くと、少し大げさな病気のように思える。この名前を医師たちが決める際、障害などと名付けると差別につながるなど、大層もめたらしい。しかし『通常の生活を送るにあたり障害となる』という事実に基づき、五年前にこの名前が定められた。  浅利にとってこの症状は、生まれた時からの付き合いだ。今更名前が決まったところで、差別も日常も変わるとは思えない。  従属性障害には二つの患者がいる。  特殊な声を持ち、他人(特にⅡ型患者)をコントロールしてしまうⅠ型従属性障害。  他人(特にⅠ型患者)の命令に従属したいという欲求が強く、支配されることで精神の安定を図るⅡ型従属性障害。  浅利は典型的なⅠ型従属性障害だった。  子供の頃から、周りには人が寄り付かなかった。まだ大々的にこの障害が認知されていなかった時代だ。命令するだけでⅡ型のみならず、健常者すらも従わせてしまう浅利は、まるで化け物のように扱われ、結果友人との思い出もなくひっそりと青春を終えた。  きれいな声だね、と幼少期には褒めてくれた親戚たちも、両親も、気が付けば疎遠になっていた。  まあそりゃそうだ、と今なら思う。よくわからない、得体のしれない特性を持った子供など、なるべく触らずに遠巻きにしたいはずだ。  たまたま自分が心療内科に通うようになって、他の精神病にも少しずつ詳しくなってきたが、パニック障害や双極性障害だと自己紹介されれば、誰であろうと少しくらいは身構えてしまうだろう。理解なく近づき理解なく触れ、結果相手の精神を壊してしまうよりは少し遠目で見ていた方がいい。そう思う人間が多いことも理解できる。  虐められなかっただけマシだ、と思うが、よくよく考えてみれば自分はある程度他人に『命令』できるのだから、そんな奴を虐めようだなんて思う人間はいなかったのかもしれない。  高校を卒業するころには、特性をすっかり隠すことを覚えた。  そのまま地味な、けれど幼少期よりはよっぽどマシな大学生活を送り、悩みに悩んだ末従属性障害をカミングアウトして就活に挑んだ。いつかバレて大変なことになるよりは、と、未来を加味した結果の決断だった。  スミヨシ建築の人事課が何を思って浅利を採用したのかはわからない。しかし直属の上司は、従属性障害を十分に理解し、『仕事中は命令能力を使わない』とした浅利の言葉を信じてくれた。  仕事も出世も順調とは言い難かったが、人生は順調だった。営業中に出会った女性と付き合い始め、二十七歳で結婚し、二十九歳で家を買った。子供はいなかったが、十分幸せだったと思う。  上司が退職し、新しい上司が浅利を窓際に追いやり、そして嫁が浮気をして家を出ていくまでは。  古くなった蛍光灯を割れないように抱えながら、厄年っていくつだっけ? と思う。たしか四十代とかその辺だった筈だが、浅利にとっては二年前、三十歳が厄年であった。  営業のエースと言わずともそれなりの成績を収めていたにも関わらず、今や立派な雑用係だ。別に、どうしても営業職をやりたかったわけではないが、それにしても落差が激しすぎる。  総務課、などと聞こえはいいが、要するにその他色々すべてを押し付けられる部署だ。あれもこれもと不必要な雑用を回され、その上課長も他の職員も基本的にやる気がない。結局残業してまで仕事をこなすのは浅利のみで、帰りてえなぁと思いながら警備員が見回りにくるまで帰宅できない毎日だ。  残業は無能の証拠だ、と昔は思っていた。今もまあ、思ってはいるが、浅利が仕事を放り投げて帰れば翌日また溜まっていく仕事を自分がやるだけだし、そうやって結局仕事は休日までずれ込んでしまう。  どうせ家に帰っても、誰もいない。待っている家族はいないし、ペットも飼っていないのだから、いくら帰宅時間が遅くなろうが問題などない。  ただ、このままでは本当に会社に住んでいるも同様だ。 「…………なんか、こう、……飼おうかなぁ」  犬は散歩が面倒くさそうだが、猫は壁を傷つけそうだ。浅利が大人げない仕打ちを受けつつも会社を辞めない理由は、シンプルに家のローンが払えなくなるからだ。家の為に残業をこなしているというのに、帰ったらその家がボロボロにされていたら悲しいどころの話ではない。  売ろうか、と考えたが、一から設計に携わった家をさらっと売るのも惜しく思える。もう誰とも家族を作ろうとも思えない自分は、せめて家くらい持っていたほうがいいんじゃないか。いつか孤独死するとしても、どこかのアパートの一室よりも、ローンを払い終えた自宅が良い。その方がたぶん、誰にも迷惑をかけないだろう。  浅利は基本的には楽天的だ。そうでなければこの年まで健全な精神を保って生きてこれなかったと思うし、死にたい、辛いと泣くこともない。いや俺マジで不幸だなぁとは思うものの、なんとなくいつも他人事のように自分の不幸を眺めていた。  だが連日の残業と、唐突に忍び寄ってきた冬の寒さに、頑丈なメンタルも少々折れ気味だったようだ。  その上、先週は久しぶりに従属性障害の特性でやらかしたばかりだ。ファミリー向けのイベントで、道路に飛び出す寸前の子供を止めるために、大変な騒ぎを起こしてしまった。  ――そもそも、浅利は当日のスタッフではなかった。それを『人手が足りなくなったから』と急に招集したのは別の部署の課長だったし、それじゃあぬいぐるみの中の人をやりますと立候補したのに、子供に近づけたら何があるかわからないという偏見まみれの暴言で荷物運びの雑用に回された。結果論ではあるが、たぶん着ぐるみの中に居れば、あんな大事にはなっていなかったと思う。  浅利の声は、Ⅱ型従属性障害以外の人間にもある程度作用する。  止まれ、ではなく、座れ、と言うべきだった。  後悔したときにはすでに遅く、通行人の男性が不自然に身体を硬直させ、そのまま見事に崩れ落ちた。なんとか頭を打つ前に抱き留めたが、他にも数人の大人が固まりスマホを落として割り、子供も何人か唐突な金縛り状態によるパニックで泣き叫ぶ地獄絵図だったという。  浅利は一番声が効いてしまった男性――おそらくⅡ型患者だろう彼に付き添い、救急車に乗っていたので実際の騒ぎは目にしていない。とにかく壊れたものは会社が弁償、カウンセリング代などの医療費も勿論支払い、浅利は始末書を提出するはめになった。  道路に飛び出そうとしていた女の子の母親だけは、泣いてお礼を言ってくれたことだけが救いだ。  ……そういえば、倒れた彼はその後、無事だったのだろうか。  彼の首輪がただのファッションではなく従属性障害特有の所有印だとするならば、おそらくパートナーがいるはずだ。自分の不用意な命令で、不安定な状態になっていないといいのだけれど。  Ⅱ型の患者はとにかく、精神が脆い。誰かに何かを指示してもらわないと、うまく安定できない。大きな音や強い命令に敏感で、意図しない命令を唐突に浴びせられるとパニック障害を併発する者も多い――らしい。浅利自身、同類のパートナーを得たことがないので、すべて小川医師から聞いた話でしかないが。  彼が目を覚ますまで付き添い、直接謝りたかったが、会社から会場の方を手伝えと呼び戻されてしまった。友人だという青年が駆けつけてくれたので、仕方なく名刺を置いてタクシーを拾った。  まさか、打ち所が悪くて入院、などということにはなっていないはずだ。頭は死守したし、さすがに心臓までは止まっていなかった。  もう一度、病院に問い合わせてみるべきだろうか。  そんなことをぼんやりと考えながら、今日の雑務をどうにか終えた浅利は、欠伸をかみ殺しながら帰路につく。  最近、うまく眠れなくなってきた。  目を閉じるとチカチカと瞼の裏がうるさく点滅し、夜中になっても眠気が来ない。  いい加減、本当に生活を改善しないとだめなのかもしれない。何か、ストレス発散できて生きる糧になるような動物を飼うか、諦めて転職するか、いっそ家を売る決意を固めるか――この中なら、ペットが一番ハードルが低いだろう。  犬か猫か。ハムスターは夜うるさいと聞いた。爬虫類は好きだけれど難しそうだし、餌の確保が大変そうだ。 (犬飼うかなぁ、まじで)  週末はペットショップを探してみようか、と、思いつつ、真っ暗な我が家に着いたところだった。  思わず足を止め、眉を寄せる。  そして腕時計を確かめる。午後十時。……勧誘や配達員が出歩く時間ではない。  家の前に、見知らぬ男が立っている。  うっすらと暗い街灯の下でも映えるやたらと派手な色のシャツのガラが見えてくると、浅利の眉間の皺はゆるやかにほぐれていった。  よく見れば、見知らぬ男というわけではない。というか、知人ではないのだが、知らないとは言い切れない。――浅利の家の前に立っていたのは、先週浅利が不用意に病院送りにしたあの髪の長い青年だった。  そういや名刺に住所書いたっけ、と思う。とはいえいきなりなんの連絡もなく、本人が自宅に押し掛けてくるとは思いもしなかった。子供もいないし、嫁もいない。浅利自身も別にか弱い女性というわけではなかったので、あまり警戒はしていなかったとはいえ、夜の十時に家の前にでかい男が立っていれば多少は肝も冷える。 「…………そのかっこ、寒くない?」  なんと声をかけたらいいかわからなかったので、思った事をそのまま吐いた。  もう上着が必要な時期なのに、薄い長そでのシャツ一枚の青年は、ふっと顔を上げると端正な顔を歪める。 「……おっそ。どこ寄り道してきたんだよ」 「寄り道なんかしてないっすよ。俺は今会社から直帰してきたの」 「うっそだろ社畜かよ……」 「え、ていうかもしかしてずっと待ってた? うわ、ごめん、連絡くれたら俺からそっちに伺ったのに……!」  すいません、と頭を下げる浅利に、青年は微妙に眉を跳ね上げる。よく見なくてもとてもきれいな顔をしているので、剣呑な表情をされると少しどころかかなり怖い。 「具合は平気でした? てか、あー……待って、ウチにどうぞってのも変か……? どっか、ファミレスか珈琲屋に……」 「その話はどうでもいい、ってか、別にいつものことだし気にしてねーから。オレ、よくぶっ倒れるし、たぶんあれ、アンタが悪いわけじゃねーし。そんなことよりアンタにお願いがあんの」 「は? ……お願い?」 「アンタ、シェパードっしょ?」  Ⅰ型従属性障害の俗称を出され、浅利は息を飲む。羊飼い、を直訳したこの単語を、若い世代は『飼い主』という意味で使うらしい。同じようにⅡ型には『トイ』という俗称がある。おそらくは『おもちゃ』の直訳なのだろう。  しかしトイプードルとシェパード犬を連想させるこの二つの俗称のせいで、従属性障害をまとめて『犬』と呼ぶ人たちもいた。もちろんそれは、蔑称である。 「…………まあ、その、そういう特性はあるっちゃある、けども。えーと、キミはⅡ型、でしょ?」 「そ。すんげー敏感な馬鹿みたいに弱いトイ。止まれって言われただけで、呼吸手前まで全部止まっちまうくらいにくっそ弱い」 「その節は本当に――」 「あー、だから、その話はどうでもいいんだって。オレは、別に、謝ってもらったり、金出してもらったりするために来たんじゃねーの」 「……お願い、しにきたの?」 「うん。――浅利さん、オレの『飼い主』になってくんない?」 「……………………は?」  何言ってんだとか、馬鹿じゃないのかとか、そういう言葉は全部飲み込んだ。彼は自称敏感なトイで、浅利は自覚がありすぎる強力なシェパードなのだ。命令でなくとも、声が精神に作用してしまうかもしれない。  十秒で正気に戻り、ここが深夜も近い住宅街のど真ん中だったことを思い出し、とりあえず中へと招きながら、混乱する頭をどうにか叱咤する。  何がどうしてこうなった。厄年はまだ続いていたのか? (……犬が欲しいっつったけど、その犬じゃねえよ馬鹿!)  とりあえず言えない分だけ、思う存分内心だけで叫んだが、勿論そんな暴言は誰の耳にも、青年の耳にも入らなかった。

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