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 浅利の家は不自然なほど静かで、広い一軒家だった。 「家族で住んでんじゃねーの?」  こんな時間に上がり込んでいいのか、という今更ながらの疑問だったのだが、当の浅利は廊下の明かりをつけながら苦笑いを零す。 「俺一人暮らしだから大丈夫だよ。元嫁は二年前に出て行ったから」 「あー……ごめん。つか嫁ってトイ? だったの?」 「いや、普通の人」  浅利のさらりとした回答に、思わず息を飲む。トイのパートナーはシェパードしかありえないと思っていたし、逆もまたしかり、と思い込んでいた。深く突っ込んで訊きたかったが、玄関先で話し込むような内容ではないし、何より会ったばかりの他人に話したいことでもないだろう。開きかけた口を閉じた美園は、招かれるままに広々としたダイニングキッチンに足を踏み入れた。 「とりあえずくつろいでいいよ。あ、何か飲み物――えーと、あったかいほうがいいか? 珈琲……切れてやがんな、最悪、まじ、あー……ほうじ茶でいい?」  どう見てもファミリー向けの新築だ。子供が寝ているから静かにね、と言われても納得する雰囲気だというのに、確かに人の気配は感じられない。  浅利が一人だけで住んでいる、広くて物悲しい家。  その広々としたダイニングに立っていると、冷えた身体が更に震えるような気がした。  湯気が立つマグカップを二つ手にした浅利は、ソファーは嫌い? と声をかけてくる。見上げる彼の視線を受けながら、美園はやはり不思議に思った。随分と下にある浅利のつむじを見下ろしながら、美園は少し首を傾げる。 「……座っていいよ、って言わねーんだな」 「ああ、まあ、それ俺が言っちゃうと、命令扱いになっちゃうかもでしょ?」 「別に、ちょっとした会話くらいなら、気ぃつけてりゃへーきだよ。名前呼ばれて目見て言われたらやべーだろうけど」 「あ、ほんと? じゃあ、そこらへん適当に座って。えーと、で、なんだっけ……」 「オレの飼い主になって」 「ん。んー……?」  怪訝な顔をされることなど想定内だ。むしろ、門前払いをされる覚悟もしていた。  知人ですらない他人に唐突に頼まれるような内容ではないことは、百も承知だ。金を貸してくれ、と言われた方がまだましだろう。飼い主になってくれ、とはつまり、恋人になってくれと告白しているに等しい。  しかし美園にも止むに止まれぬ事情があった。そうでなければ顔も知らない男に、不躾な懇願をするためだけに外出などしない。外の世界は、トイである美園にとっては地獄でしかない。  あたたかいお茶を受け取り、少し硬いソファーに腰を下ろす。他人の家など久しぶりで、腰のあたりが落ち着かない。  何から話せばいいのだろう。自慢ではないが美園のコミュニケーション能力は底辺だ。勢いだけで乗り込んだものの、いざ対面すると言葉が詰まる。  それなりの覚悟でここまで来た。土下座くらいはする気合いもある。しかし実際に対面した浅利庸介という男は、美園が思っていたよりも普通で、真っ当で、驚くほど真面目そうな人だった。  美園がいままで出会ってきたシェパードとは、似ても似つかない。本当にアンタ犬なの? と疑いたくなるほどだ。  身長もさほど高くない。美丈夫とも美人とも言えない、ごく普通の好青年風の見た目だ。たぶん、街中ですれ違ったとしたら、二秒で顔を忘れてしまう。そんな普通すぎるサラリーマンは、苦笑を漏らしてソファーに深く座り直す。 「……で、キミがそんな必死になってる理由は何?」 「え。……ええと、」 「どうみても恋人を血眼になって探すような容姿じゃないし、いやていうかモテるだろうし、ただのパートナーって意味じゃないんでしょ。つかその首輪は、オシャレ? 偽カラー?」 「…………偽物のカラー。オレ、しばらく相方居なくて、でもふらふらしてっと、わりとちょっかいかけてくるやついるから」 「まぁ……そうね。その見た目でフリーでトイなら、うーん……そりゃゴリゴリにナンパされまくるだろうなぁ」  美園自身、見た目が良い自覚くらいはある。そんなもの人生においてなんのプラスにもならないと思っているので、褒められても嬉しくもなんともない。それこそおかしな連中にひっきりなしに声をかけられるので、むしろ不細工に生まれたかったとさえ思う。  髪を伸ばしているのも、基本的には威嚇と警戒の為だ。多少派手な格好をしていれば、少なくとも奥手な人間は遠巻きに見てくれる。 「――オレ、外出んの無理で、基本、家の中にいんだけど。来月、どうしても行かなきゃいけないとこが、あって」  買い物や仕事も、今やネットでどうにかなる時代だ。しかし、どうしても自力で移動して生身でこなさなければならない用事は無くならない。郵便ポストがドアチャイムを押してくれないように、来月の美園はなんとしても、都内のホテルに行かなければならなかった。  個人で音楽のミキサーをしている美園は、時折ネットに自作の曲を載せる。たまたま見つけた素人作曲者向けコンテストに、気まぐれに応募した。そして運良く……または運悪く、美園の曲は入賞してしまったのだ。  コンテストを主催した大手レコード会社からは、授賞式への出席依頼が届いた。日取りは十二月の頭――きっかり一か月後の予定だ。  受賞式に誰が出席するのか、美園にはわからない。それでも行く価値はある。フリーのミキサーとしても駆け出しで、ほとんど居候のような生活をしている現状から、もしかしたらもうすこしだけ踏み出せるかもしれない。  けれど美園一人では、会場のホテルにすら辿り着けないだろう。  田谷町の助言を借り、レコード会社へ意を決して己の障害を告白した美園は、からりと笑った担当者に『パートナーの方とご一緒でも大丈夫ですよ!』と言われた。  ビデオチャットでやりとりをしていた美園の首には、いつもつけっぱなしの偽物のカラーがしっかりと嵌っていた。  カラーは所有の証だ。パートナー同士の信頼と、他人の横槍を防ぐため、シェパードはトイにカラーを贈る。通常の恋人同士に例えれば、結婚指輪のような感覚だろう。  固定のパートナーを探す気すらなく、ただ他人の存在が鬱陶しかった美園は、いつも偽のカラーをつけていた。しかしそのおかげで、授賞式への出席の糸口が見えた。  一人では無理だ。ならば、誰かについて来てもらえばいい。信頼できるシェパードがひとり、横にいてくれれば、おそらく吐くことなく倒れることもなくその場を乗り切れるだろう。  説明下手なせいで話が前後したり、飛んだり、うまく言葉が出てこなかったりする美園の話を、浅利は呆けたような顔で、けれど茶化したりせずに最後まで聞いてくれた。そしてお茶を一口飲み込み、ふー、と息を吐いた後にソファーに背中を預ける。 「……把握したわ。つまり、キミは大事なパーティーに出席するための、介助者が必要ってわけか。……それ、この前の友達じゃだめなの? あのオレンジ髪の」 「たややんは駄目。あいつ、ふつー側のヤツだから。たまにオレがあんまりにも不安定になってっと、ちょっとだけシェパードの真似事してくれっけど、たぶんオレがぶっ倒れそうになっても救急車呼ぶくらいしかできねーよ」 「んー……つっても、ほら、従属性障害持ちにも相性ってあるじゃん? 俺とキミの相性がいいかどうかなんて――」 「良いに決まってんだろ。オレ、あんときイヤホンしてたんだよ。目も見てない、名前も呼ばれてない、信頼なんて微塵もない、イヤホン越しに初めて聞いた声だったのに、それでもぶっ倒れた。アンタが『止まれ』って命令したから、オレの身体がそれに全力で反応したの。まぁ、でも、いきなりこんなことお願いすんの、申し訳ないっつーか非常識っつーか……それは、わかってっから、駄目なら駄目で……」 「諦める?」 「……他のシェパード探す、かな……」 「でも、あてがあんなら、俺のとこ来てないよね?」 「………………」  まったくもってその通りだ。  引きこもりである美園には、友人と呼べるような人間は一人もいない。いままで生きて来た二十三年間で得たものは、他人に対する憎悪とトラウマばかりで、親しい人間関係などひとつも残っていなかった。  膝の上で頬杖をつき、浅利は唸る。 「マッチングアプリもなー、トイ向けは素人AVスカウトとヤリ目的ばっかだしな。一ヶ月後のパーティーについてきてくれるだけでいいんです! って逆に難しいかもな……」 「……やっぱ、無理? 嘘でもオレの飼い主とか駄目?」 「んっ、んー……キミ、それ、素? え、素でそんな感じなの? まじで?」 「そんな感じって、なに」 「え、いやー……そんなかわいくて大丈夫なの? あ、駄目だから首輪してんだっけ?」  一瞬、本当に何を言われたのかわからなかった。そもそも美園のコミュニケーション能力は本当に底辺で、会話もほとんど田谷町以外とは交わさない。すぐに主語を察することができず、『かわいい』と言われたのは『自分』らしい、と気づいた後に、じりじりと顔が熱くなる。 「かっ……、はぁ!?」 「いやー、イケメンの上目遣いの破壊力すげーなぁと思って……まさか通りすがりのおにーさんを病院送りにしたら、上目遣いで懇願されるとは思わなかったわ……」 「……からかってんの?」 「こちとら仕事帰りの社畜だぞ、他人からかって遊ぶ余力なんかないっての。わー、赤くなっちゃってかわいーなおい……てか、褒められんの嫌い?」 「あんま……良い、思い出ねーから、好きじゃない、はずだったけど……あー……浅利さん、たぶん揶揄ってるわけでも、口説いてるわけでもねーっしょ、それ……。だから、なんか、……どうしていいかわっかんない……」 「わぁ。褒められ慣れてないトイとか可哀そうがすぎんだろ……。ちょっと、いい? 美園芹、くんだっけ? 美園さん、美園くん……うーん、美園ちゃん。美園ちゃんかな」 「何……」 「美園ちゃん、おいで」  目を見て、名前を呼ばれて、命令される。  おいで、という言葉に確かに含まれるシェパード特有の声色。心臓が直接わしづかみにされたような衝撃の後、美園はふらふらと立ち上がり、誘われるままに浅利の膝の上に乗りあげる。 「よしよし、良い子。美園ちゃん、キスして」  その命令と共に差し出された手の甲に、何の躊躇もなく口づけると、すぐに頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。 「ちょ、あさりさ、……っ」 「……ちゃんとできて、偉いね」 「……………ッ」  命令される、従属する、そして忠誠を褒められる。  そのすべてにとんでもない快感が伴い、身体の力が抜けそうになる。気持ちいい、嬉しい、委ねたい、もっと命令してほしい――久しぶりに浴びたシェパードの命令は、理性をドロドロに溶かしてしまいそうなほどに甘い。  しばらく撫でられるまま、息を整え、理性をどうにか呼び戻す。腰を抜かすことだけはしなかった美園は、こっそりと自分をほめてからわざと渋面を作った。たぶん、顔が熱いから台無しだとは思うけれど。 「…………重い、だろ、これ、オレ、百八十五センチあんだけど……」 「高身長うらやましーなおい、俺より二十センチもたけーのか。ま、俺もちゃんと男だから耐久性に関しては心配すんな。そんな脆くねーから。美園ちゃんは、男相手は初めて?」 「あんま、記憶ない……いたかもしんないけど、女が多かった」 「気持ち悪い?」 「……気持ち悪かったら、こんなとこまで口説きにこねーよ」 「わはは。そりゃそうだ、って言いたいとこだけど、相手の顔なんかどうでもいいからとにかく助けて! って必死だったんでしょ? 実際に会ってみて、あ、やっぱねーわ、ってならなかった?」 「なんない。つか、浅利さんが良い」 「……顔も知らなかったのに、なんで俺だったの?」 「だってアンタ、謝ったじゃん」 「うん?」 「申し訳ありませんって、名刺に書いてあった。オレ、シェパードに謝られたの、生まれて初めてだった。だから、あー……このひとがいいな、って思った、っつーか……んぐ!?」  唐突に胸元に浅利の頭が突き刺さり、そのまま後ろに倒れてしまいそうになる。どうにか踏ん張ったものの、バランスを崩して抱きしめるような体勢になってしまった。なんだこれ、と思うが、浅利は退けとも離れろとも命令しない。そのままの顔の見えない体勢でもごもごと喋る。 「不憫萌でしにそう……ていうかでっかいイケメンに命令すんの、ちょっと癖になりそうだわ……」 「…………助けてくれんの? くれねーの?」 「うーん。……断ったほうがいいんだろうなって思うんだよ。俺は社畜だし、もう誰かと関わるの面倒だなって感じのクソ野郎だし。でも、一か月でいいなら、これも縁か……病院送りにしちまった詫びもあるしなぁ」 「飼い主、なってくれんの……!?」 「パートナーな?」  一か月だけでいいなら。  そう言って顔を上げて笑う浅利の膝の上から降りるタイミングを失った美園は、興奮したまま柄にもなく、久しぶりにガッツポーズを決めてしまった。  人間として底辺で、人間かと言われたら首をひねるような人生だった。でも、少しくらいはちゃんと人間になりたい、と思ったから。 (これでやっと、ただのおもちゃじゃ、なくなる、かも)  そう思ったとたん、少しだけ泣きそうになった。  冬の初めの季節。この日、美園芹は十歳年上の真っ当な男、浅利庸介と『仮初のパートナー』になったのだった。

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