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その口から出る言葉は、いつでも少し乾いていて硬質だ。
「わたしは推奨しないね」
独特の清潔感に満ちた診察室は、気にならない程度にかすかに花のにおいがした。
九割くらいはそう言われるだろうなぁと予想していた浅利は、驚いた振りすらせずに『っすよね〜』と苦笑いをこぼした。
久しぶりに残業を振り切り、予約通りに赴いたメンタルクリニック小川の診察室で、いつも通りの主治医は心地よく浅利を言葉で殴ってくれる。
「きちんとパートナーになるならまだしも、期間限定の仮契約だなんて、取っ替え引っ替えするより悪いよ。頭では理解しているつもりでもね、人間の心って奴はそんなに簡単に割り切れるもんじゃない。昨日までパートナーだったのに明日から他人、なんて普通の人間でもメンタルがおかしくなるよ。もう、なんでかなぁ……浅利さんは本当に、どうしてこう、普通に通ってくれないのか……」
「俺は普通に生きてるつもりっすけどね。まぁでも今回は、俺が病院送りにしたのが悪いんでー……」
「一カ月限定のパートナー? うーん、いやぁ……よくないと思う。思うんだよなぁ」
カツカツとボールペンを書類に打ち付けながら、至極頭が痛そうな顔で額をさする。小川医師は硬質な声がよく似合う、背筋の伸びた野鳥のような痩せぎすの中年女性だった。
「どうも聞いてる限り、浅利さんより重症っぽいんだよね、Ⅱ型の彼……。まだ若いんでしょう? もう、ほんと、みんなもっとライトに心療内科に来て欲しいのにね。あと浅利さんもできればちゃんと通って欲しい」
「俺も通いたいと思ってます。でもー仕事がぁーおわんなくてー」
「浅利さんは仕事とわたし、どっちが大事なの?」
「ふは! そこは普通『仕事と自分の身体』でしょ!」
小川医師のさらりとした小言を聞いていると、生きているという実感が湧いてくる。無心で仕事をこなして、誰も待たない家に帰るだけの日々は、着実に浅利の心を圧迫しているようだった。
浅利と小川は、殊更仲がいいわけでもない。十歳以上年上の彼女を恋愛対象として意識しているわけでもなく、おそらくプライベートで出会っていたら友人になるまえに疎遠になるタイプだろう。それでも浅利は『この人が主治医で良かったなー』と思うので、メンタルクリニック小川に通うことは苦ではなかった。
従属性障害は、精神病に分類される。
世間では『性癖』だと思われがちだが、れっきとした病気だ。ほとんどが生まれつきの特性で、生き辛い幼少期を経てパニック障害や鬱病を併発する場合もある。
幸いなことに生まれつきの特性以外にメンタルの不調を抱えることがなかった浅利だが、さすがに激変した職場環境と唐突な離婚で体調を崩し、『従属性障害に理解が深い』とネットの口コミを参考に駆け込んだ先がメンタルクリニック小川だった。
今では夜中に発狂することも、ただ無性に泣いてしまうこともなくなった。変わらず不眠症気味ではあるが、体調を崩すほどではない。それに、先週からは『期間限定のパートナー』のおかげで随分とストレスは軽減されていた。
美園芹は、見た目は随分とやんちゃな若者だが、パートナーとしては完璧すぎる従順な『トイ』だった。
Ⅰ型従属性障害は、ただ命令を遂行できる能力を持ち合わせているだけではない。
強力な支配欲に加え、パートナーを庇護したい、守りたい、褒めてあげたいという強い愛情のような欲を常に持て余している。
仮のパートナーとはいえ、いざというときに頼りにならないようでは困る。シェパードとトイの関係性は、信頼と精神的なつながりでより良いものとなる。あえて雑な言い方をするならば、飼い犬との信頼関係と同じだ。
何度も命令し、何度も褒めて信頼関係を構築する。そのうちに『この人の命令は安全だ』『この人は裏切らない』という安心感を得る。信頼関係が強いパートナーは、比較的安定した生活を送れるようになる。
浅利の言葉は強力だが、いざ美園がパニックになった際に使い物にならなければ意味がない。パーティーの日だけでいい、と言い張る美園を説得し、一カ月間の同居を提案したのは浅利の方だ。
どうせ部屋は有り余っていた。美園は在宅ワークで、基本的にパソコンさえあれば仕事ができるらしい。特殊な機材も必要ないと言うので、引っ越しは簡単に終わった。
美園は浅利の命令に、従順に従う。
彼に言葉を投げるたび、褒めるたび、浅利は今まで得られなかった快感に近い満足感を得た。
トイに対する命令と称賛は、満たされた安定感をもたらす。トイとシェパードは世間からは共依存と見做されることが多いが、イメージとしては手を取りお互いに安定した地面に立っている感じだった。もたれあうと言うよりは、自立を支える感覚だ。
小川がことあるごとに『パートナーを作ったら?』と勧める意味がわかった。確かに特定のトイと関係を持った方が、シェパード側も安定し日常生活に集中できる。
「いやー、パートナーが必要なのは不安定なⅡ型の方じゃん? 俺は我慢すりゃいいだけだしなぁって思ってたけど、全然違うんすねー。今までⅡ型の知り合い居なかったから知らなかったわ」
「浅利さんはねぇ、なんというか、ムダに真っ当だからねー……マッチングアプリにも手を出さず、街コンのツラをかぶったマッチングパーティーにも手を出さず、強引に普通の人間の人生を爆走してたからね。きみのそのムダな忍耐力は本当によくないよなぁとわたしは思う」
「そこは褒められるところでは?」
「我慢なんかね、最低限の倫理観を守る以外はあとは毒だよ。やりたくもないことを『頑張ればできるから』って頑張った先にあるのは、心身の崩壊だ。人間はもろいっていい加減みんな学んでほしいんだよ」
「でも、全員が我儘ぶちかましてたら社会は立ち行かなくなるじゃん」
「だから最低限、と言ったんだ。社会性は必要だ。でも、なんと人間はみな同じ顔と性格じゃない。性質だってバラバラなんだからね、ルールも生き方も一人ずつ違ってあたりまえだ。そしてわたしは主治医として、きみの生き方は無理をしすぎている、と診断している」
「……手抜くの得意じゃないんすよ。俺がやったほうが速いとか、俺が我慢したらいいじゃんって思っちゃうし」
「他人とー社会をーもっと信用したまえー」
紙のファイルでぺしぺしと頭を叩かれ、苦笑いを返すほかない。小川の言葉は的確すぎて、少しどころか大変心に刺さりすぎる。
「まあ、一か月限定ってところは推奨しないけど、浅利さんがⅡ型の子とうまくいけばわたしとしてもありがたいよ。ていうか一度見てみたいなぁ……うーん、でも、わたしはあんまり、万人向けの医者じゃないし、気軽に連れておいでよとも言い難い」
「小川センセー、犬の扱いうまいのにね」
「その呼び方やめなさい」
ぴしゃり、とシンプルに怒られて、思わず姿勢を正す。このところ話す相手と言ったら美園ばかりで――人のせいにしてしまうのは卑怯だとは思うが――少し下品なスラングを当たり前のように耳にし、そしてなんとなく自分も使ってしまうことが増えていた。
おもちゃの意味をもつトイ、飼い主の意味をもつシェパード、そして従属性障害の蔑称である『犬』という言葉を、小川は絶対に口にしない。
「きみたちは人間だよ、少しだけ精神のバランスが偏っているだけだ。特効薬も治療法もない、性格に近い性質ではあるけれど、それでも『健常』ではないというだけだ。……自棄になるのも、自虐をするのもある程度は構わないけどね、せめて他の患者も一緒くたに蔑む言葉に含めるのはやめなさい」
「……すいませんでした。あー……最近、あんま人と喋ってなくて、加減忘れてました。気を付ける」
「喋ってるだろう? 一か月のパートナーはきみの家にいるんだから。寡黙なタイプなの?」
「んー……いや、よく喋る。よく喋るけど、俺よりずいぶんとこう、不安定だから、俺がしっかりしないとーって感じになって、ちょっと気をぬけない、かも」
「ははぁ、まあ、そりゃ浅利さんが自虐なんか始めたら引っ張り込んじまうだろうねぇ。でもね、浅利さん、きみたちにとってのパートナー関係ってやつは、実は案外対等な関係だ。世間ではⅡ型をⅠ型が支配している、ととらえる人が多いけれど、そんなことはない。お互いに、信頼関係があるから欲を解消しあえるんだよ。……ま、診察してないわたしがどうこう言えたことじゃないが、とりあえず色々試してみるといい。どんな関係でも、どんな人間でも、相手を知らなければ何も始まらないからね」
「……なんか、もし地雷踏んじまって発狂させちまったらやばくね?」
「可能性としてなくはない。なくはないが、きみはもう少し自分を信じたまえ。大丈夫、きみの命令は強いし、きみの判断は優しい」
「そうかなぁ」
そうだといいが、やはり浅利には自信がない。誰かを従属させて、人生を引き受ける自信がなかったから、自分は健常者に混じって衝動を我慢することで生きてきたのだ。Ⅱ型従属性障害の人間と付き合うのは実は初めてで、まだうまく関係性が落ち着かない。
そのうえ、美園との関係構築は期間限定で、時限爆弾のようにその期限は刻一刻と迫るし、どんなにうまく信頼関係を築いたところで、どうせ一か月後には他人に戻ってしまうのだ。
始めたばかりの関係性の終わりを見据えて、無償に虚しくなってしまう。根明と勘違いされがちだが、浅利は基本的には想像力が豊かすぎる根暗だ。
浅利の性格を二年のカウンセリングでしっかりと熟知した主治医は、珍しく口の端を少し緩めて笑った。
「ほら、だから期間限定なんてよろしくないんだよ。そんなのにドキドキできるのは子供か、子供向けの恋愛漫画だけだ。一か月なんてあっという間だからね……いっそのこと一か月と言わずとも、今後末永くお付き合いしていけるように口説いてみてはどうだろう?」
「…………はい?」
「別に、口説くなとか、好きになるなとは言われていないんだろう? 嫌いだとか臭いとか近寄るなとか言われているなら知らんけども、一か月だけ付き合ってほしい、というのは向こうの事情だ。浅利さんの事情的には、末永く一緒にいてもらった方が――」
「待って、待て待て、いや、彼がパートナーになってくれて俺が安定し始めてる自覚は、ある、あるけど、そのー……従属性障害のパートナーって、もうそれ恋人と同意じゃん?」
「そうだよ。きみたちの信頼関係構築に一番効果があるのはセックスだからね。そんなのは普通の恋愛と結婚においても一緒だ。だれとでもやりまくる倫理観じゃなきゃ、従属性障害同士のパートナー契約は要するに恋人か結婚に直通する。あれ、浅利さんは女性じゃないと駄目だったっけ?」
「いや、わっかんないけど……いままでは、女の子としか恋愛してなかったし……」
「Ⅱ型の彼、どうなの? さっきちょっと話聞いた感じ、結構可愛がってる感じだったけど」
「かわいいけどでけーよ、俺より二十センチもでけーし、歳も十個近く下だし、それに俺、勃たねーし……!」
「うーん、その勃起障害に関してはウチの専門じゃないから、おいそれと適当なこともいえないんだけども……」
メンタルクリニック小川に駆け込んだとき、浅利が抱えていた症状は生まれつきのⅠ型従属性障害と、軽度の鬱病と、睡眠障害と、そして勃起不全だった。
ED以外はなんとかしよう、と言ってくれた小川の言葉は、食べ物の味すらわからなくなっていた浅利にとって、思わず泣いてしまうほど心強いものだった。
浅利は従属性障害と共に、勃起不全とも長く付き合ってきた。昔からなんとなく違和感はあった。どうも自分は生まれつきうまくセックスができない体質だぞ? と気が付いたのは大学時代で、結婚した嫁には子供をもうけることはできないかもしれないことは了解してもらっていた。勿論、通常の性行為も望めない。
それでいいと言われたし、何度も話し合ったし、別に庸介くんとのセックスが好きで結婚するわけじゃないから、と笑ってくれた彼女を本当に大切にしようと思った。従属性障害であることも告白していた。もしかしたら、随分と我慢をさせていたのかもしれない。
それでも婚外の彼氏を作り、やっぱり貴方のパートナーは私じゃない方がいいと思う、などと一方的に別れを告げられた浅利としては、『やっぱ勃たない男はダメだったのか?』と自虐的な気持ちにもなってしまう。
Ⅱ型をパートナーにするなら、勃起不全は致命的ではないだろうか?
ゲイではない浅利には、自分が男とセックスをしている想像ができない。確かに美園はかわいいけれど、彼を従属させるのと、彼に性器をつっこむのとはまた別の話だ。
イケメンだし、なんだかいいにおいがするし、かわいいし、すぐ照れるし、褒めると赤くなる。最高に可愛いとは思うが、俺が美園ちゃんとセックスすんの? できんの? つっこむの? 無理じゃない? だったらやられるほうがまだ想像できるけど、とそこまで考えてからハッと思考を戻す。
そんな浅利の思考を読んだように、小川はいつもの硬質な声で淡々と言葉を述べた。
「浅利さんのね、EDはトラウマとかストレスの方じゃないだろうからねぇ、ウチは何とも言えないけど。でもまあ、Ⅰ型の女性とⅡ型の男性のカップルもそりゃいますよ。別につっこむだけがセックスじゃないし、主導権なんてマグロでも握れるもんだ」
「センセー、お話がえぐいっす……想像しそうになるから勘弁して……」
「閨事を想像してとっさに拒否反応が出ないなら上々だ。個人的には頑張って口説き落としてほしいところだね」
「相手の患部も見てないのに、俺におすすめしちゃっていいんです?」
「わたしはね、浅利さんの選択をわりと信じているからね」
大丈夫だよ、なんかあったらいつでも泣きついてきなさい。そう言われた浅利は、本当になんでも見透かしててこえーな、と思いつつも一番聞きたかった言葉に対して素直にお礼を述べた。
長々と無駄話を繰り返し、クリニックを出た頃には、すっかりあたりは夜に包まれていた。
もうすぐ、吐いた息に白い色が付く季節だ。
冬じゃん、とひとりごちてから寒さを振り切るように速足で歩き、耳が冷たくなったころに自宅が見えてくる。
この二年、浅利が帰る家はいつも真っ暗だった。
けれど今日は、玄関にも居間にも明かりが灯っている。
「ただいまー」
三日でようやく慣れた言葉をかけつつ扉を開けて、三日たっても慣れない様子の美園がおずおずとリビングから顔を出す。
「……おかえり。風呂、勝手に先に入っちゃったけど」
「あー、いいよ、好きにしてもらって大丈夫。つか遅くなってごめん、おなかすいたっしょ?」
帰りがけに駆け込んだコンビニで適当に選んだ弁当を並べると、美園は何か言いたそうに口の端を曲げる。
「……なに? え、もしかしてチャーハン嫌い?」
「嫌いじゃねーけど、チャーハンなら作ったほうがはやくね……? って、思って……」
「………………」
「……浅利さん? いや、今のやっぱ、なし。なしで。外に出れねえオレが文句言う権利なんて――ヒィッ!?」
思わず、長身イケメンの腕をガッと掴んでしまう。
両脇からかなりの力で拘束された美薗は、ひどく怯えた顔で浅利を見下ろす。その整った顔を見上げつつ、浅利は重々しく、そしてとても重大な問いかけを口にした。
「…………美園ちゃん、まさか……メシ、作れんの……?」
「え、あ……うん。つっても、その、料理上手って程じゃねーけど、オレルームシェアっつーか割合的には居候だったし、たややんがメシマズだったから基本家事はオレがやってたし。まー、チャーハンくらいなら……浅利さんち出汁類ゼロだから、まず買わねえとだけど……」
「もしかしてパパっと野菜炒めとかできる系男子?」
「……回鍋肉なら作ったことある……」
「ほいこーろー! うそだろ! なんだそれ最高じゃんか! え、ごめん俺勝手に全人類男は料理とか嫌いだろって思い込んでたわ……あの、金は俺が出すし必要なもんはなんでも言ってくれりゃ買う。買うから、明日から俺にメシ作ってほしい、……です!」
「…………べつに、いいけど………」
「ちなみに美園ちゃんの得意料理は?」
「あー。豚キムチ、かな?」
「良妻じゃん!」
今時は料理ができるだけで『良妻』などと言っては、女性に失礼になってしまうのだろうか? だが浅利としては単純に誉め言葉だったし、自分で言っておいて結婚を連想してしまいなんだか一人で気まずくなってしまった。
浅利の勝手な動揺は、勢いに押されたまま、瞬きを繰り返している美園にはおそらくバレていないだろう。
「つか……そんなの、命令してくれたらいいじゃん。オレ、浅利さんに命令されんの、なんでも嬉しいしきもちいーのに」
「うん? ……うーん。いや、ほら、それはスキンシップの命令とは別じゃん? 家事の分担は義務と権利っつーか……勿論メシを作ってくれる美園ちゃんのことはたくさん褒めるけどさ。それとこれとは別っつーかー」
「……アンタ、やっぱ変な人だな……」
「まあ、一般的な『犬』じゃない自覚くらいはあるよ。あ、そういや忘れてた」
目を見て、名前を呼ぶ。
「美園ちゃん、お帰りなさいのキスして?」
潜めた声の命令に、一瞬で表情を甘くした美園はかがみこみ、浅利の耳もとにキスを落とした。
美園は決して、唇にはキスをしない。キスして、と命令すると、鼻や首筋や耳元にリップ音と残す。
唇を許さない男は、もしかしたら、誰かほかに好きな相手がいるのかもしれない。出ていった嫁も、そういえばいつからかキスを嫌がってほほにするようになった。特に問題がないならば、そして好意があるならば、迷いなく口にキスを落としそうなものなのに。
……やっぱり、口説くなんて無理なんじゃないの?
よくできましたと頭をわしわしと撫でながら、浅利はひとり、見えないように苦笑した。
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