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 たぶん、変な性癖でもあるのだ。  珍しく土曜の昼間から外出し、健全な時間に広いキッチンに立った美園は、今日一日を振り返ってそう結論付けた。  どう考えてもおかしい。平日の生活から薄々気が付いていたが、休日を共に過ごして確信した。浅利庸介は同居人として――というか、夫として――およそ完璧な男だった。  夜型生活をまだ微妙に引き摺っている美園に合わせ、浅利はゆっくりと午前中を過ごしてくれた。たたき起こされることもなくだらだらと寝床から這い出すと、インスタントでごめんだけど、と珈琲を出される。  田谷町も割と休日は構ってくれる方だったが、朝食を用意された記憶はない。田谷町はただの家主であって、飼い主ではないのだから当たり前なのだが……いや、飼い主こそ、ペットに奉仕する必要などないのではないか?  そんなことをもんもんと考えつつ半分寝ているような顔で朝食を食べ終え、洗おうとした皿を『いつもメシ作ってくれてるから』と取り上げられ慌てているうちにさくっと洗われ、昼ついでに買い物行こうかと持ち掛けられる。  勿論、外出が嫌なら俺一人で行くから買い物メモ頂戴、などと言われた美薗は、呆けていた頭を慌てて横に振り、オレも行く、とどうにか言葉を絞り出した。  浅利は毎日、驚くほど長い時間残業して帰ってくる。  日によってはギリギリ終電じゃないか? という時間に帰宅するというのに、朝は普通に六時に起きて出社していた。土日くらいは昼間で寝ているものだと思っていたのに。そのようなことを話しながら二人で歩き、たまには買い物くらいしねーと俺の人生仕事のみで終わっちゃうじゃんと苦笑されつつ、近所の少し大きめのスーパーに辿り着く。  電車やバスを選ばなかったのは、おそらく人混みが苦手な美園への配慮だろう。  スーパー横の少し古い定食屋で生姜焼き定食を食べ、その後二人で必要なものを買い揃えた。毎日買い物メモを渡していたけれど、いざ自力で買い物を始めるとあれもこれもとかごに突っ込みたくなる。『わざわざ買ってきてもらうほどでもないけれど、あると便利だよな』と思うものは、案外多いものだ。  とはいえ、会計は浅利持ちだ。なんでもかんでもかごに入れるわけにはいかない――と手に取り悩んだものは、戻そうとする前に隣の浅利に奪われかごにぶちこまれてしまう。  そのうち美園も学習し、手に取らず悩むようになったが、すると今度は眺めているだけでも『それ、必要? 買っとく? 買うか!』と勝手にかごに入れるようになってしまった。 「浅利さ、あの……いや、あれば使うけど、そんななんでもかんでも買ってたら金やばくね……?」 「いやべつに。俺基本趣味とかないし、稼いだ金も家のローンと通院費で消えるくらいだから、若干ムダ金はあるし。俺さ、まじで料理できなくて結構初期に諦めちまったから、調理にあたって何が必要なのかさっぱりわからんのよ。っつーわけで、美園ちゃんが『ほしい!』って思ったもんは容赦なくぶっこんでもらっていい。どうせ俺が食うもんだし、必要経費でしょ」 「必要か……? いや、胡椒はほしいけど、イタリアンパセリはいらねーんじゃ……」 「え、でもさっき見てたじゃん?」 「見てた、けど……そりゃあると、なんかこう、ちょっと見た目とかのランクが上がる、けど……」 「じゃあ買お。ランク上げてこ」  そうやって浅利は適当に笑って、どんどん美園を丸め込んでいく。こんな風に誰かに思う存分好きなものを買ってもらった記憶なんて、本当に全くない。ほしいものをほしいだけ、とはいえ食材だが……それにしても、浅利の心遣いは嬉しいものだ。  各々両手にいっぱいの買い物袋を提げて帰宅するころには、引きこもりの美園はすっかり疲れてしまっていた。  外に出ることはそれだけで疲れる。けれど今日はシェパードのパートナーが一緒であり、彼の存在感とその効果をはっきりと自覚することができた。浅利が隣に居てくれるだけで、冗談ではなく呼吸が楽になる。  ぐったりとソファーに身を横たえる美園に、文句のひとつも言わず、むしろ労わる言葉をかけながら浅利は甘い紅茶を淹れてくれた。ティーパックのお茶が、こんなにおいしく感じたのは初めてかもしれない。  口を開けて、と命令され、反射で開けた口の中に丸いチョコレート菓子が放り込まれる。えらいね、と褒められて、チョコレートの味などどうでもよくなる程感情がドロドロに溶けた。  浅利の命令は優しい。  しろ、ではなく、して、と言ってくれる。キスして、口開けて、ハグして、偉いね、よくできました……小さな犬に対するような、些細で優しい命令を繰り返され、次第に美園も肩の力を抜いて素で甘えるようになってしまった。  良くない。とても良くない傾向だ。何と言っても浅利とのパートナー契約は、授賞式の日までの期間限定のものなのだ。  こんなに全身で当たり前のように甘えてしまってはダメだ。浅利がいなくなった途端、本当に発狂してしまうかもしれない。  せめてキスは口ではなく、他のところへと抵抗しているものの、最近はふらふらと唇に吸い寄せられそうになって慌てて鎖骨に目標を変える、ということが増えた。『鎖骨好きなの?』と笑う声が頭の上から降ってくるたびに、これ以上好きになったらしんどいからだよ馬鹿タラシくそが、と胸のうちだけで浅利を詰る。  というかもうかなり好きだ。だから格好いいところや、優しいところなんかもう見たくないのに、今日の浅利は完璧すぎて美園はおかしくなりそうだった。  なんでも許してくれる。でも、納得できないときは対話してくれる。ちょっとした贅沢を提供してくれる。労いの言葉をかけてくれて、その上重い方の荷物は全部浅利が持ってくれた。どんな命令だってトイの自分は喜んで快楽に変えるのに、浅利は些細なスキンシップにしか命令を使わない。  あまりにも良き夫すぎないか? そりゃ、ちょっと駄目なところもあるけど、それにしたって完璧すぎる。どうしてこんな良い男が嫁に逃げられてしまったんだ? なんか変な性癖でもあんのか? もうそうとしか思えない……。  どうにかギリギリ理性の淵で踏ん張っている美園としては、そんな風に結論付けるしかない。  だらだらとした休憩を終えて、夕飯の準備に取り掛かる際も『手伝うよ』と隣に立つ男に、むしろ『勘弁してくれ』と思ってしまう。優しくしないでほしい。格好いい所を見せないでほしい。もうこれ以上は踏ん張れない、と思うから。 「……浅利さん、メシマズなんじゃねーの? 包丁使えんの?」 「お、言うじゃんよー美園ちゃんー。三十二歳なめんなよって言いたいところだけど使えないっすね。なんかこう、混ぜる! とか、えーと……いやごめん混ぜるしかできねーわ! 混ぜるやつなら全部俺がやる!」 「混ぜる工程なんかオレがやったほうがはえーよ……」 「えー……? いやいや、分担しようぜ、分担。だって俺、美園ちゃんと夕飯作りてーもん。恵んでよ手伝いできることをさー」 「逆にめんどい」 「うはは、確かに! でも俺はこのくらいの我儘は許される範囲だって主張したい。ね、ほら、――美園ちゃん、俺に手伝わせて?」 「……それ命令にすんの、ずるくない……?」  呆れた顔をどうにか装い、何だよ今の可愛いかよと湧き上がる気持ちを無理やり押し込める。じゃあこれ混ぜといて、と切ったトマトにすりごまと醤油、砂糖、ごま油をぶっかけたボウルを渡せば、『やったー』などと言いながら嬉々として受け取った。 「………………しぬ……」 「え? なに? 美園ちゃんなんか言った?」 「なんでもねーよ……つかそんな本気の筋力で混ぜたらトマト粉々になんだろ……手じゃなくて箸使え、ほら、あー……べっとべとじゃねーかよ……」 「洗えばいいっしょ。あ、でも俺の手で混ぜたメシとかちょっと無理? 汚い?」 「……オレアンタの素肌にガンガンチューしてっけど……?」 「わはは、ほんとだ。そうだった。つか、美園ちゃんキスのことチューって言うのかー、かわいーな?」 「ん、ぐ…………」 「え? どうした? 玉ねぎしみた?」 「…………なんでもねーからトマト混ぜてろ……」  しぬ。可愛くて死ぬ。……どう考えても好きで死ぬ。  なんとなく好きっぽいから困るな、などと思っていたのはもう過去の感情だ。今日一日で確信した。  浅利庸介はおよそ完璧な男で、それなのになぜか妻に逃げれていて、もうそうすると変な性癖を隠し持ってるとしか思えなくて――そして、自分は完全にこの男に落とされかかっている。  どうにか言い訳を見つけて、少しでも距離を取りたい。  そんなことを考えた結果、パニック気味の美園はつい、不躾な言葉を吐いてしまう。 「つか浅利さん、なんでそんな、あー……家事とか協力的、なのに、嫁に逃げられたわけ? ……やっぱ、犬だから?」  吐いてしまってから、これはあまりにもプライベートに踏み込みすぎたか? と一瞬で後悔したが、当の浅利は少しだけ眉を落として苦笑いをするだけだ。 「まぁ、そうね、たぶんそれが原因なんだろうなー。つっても別に隠してたわけじゃねーし、俺はお付き合いする前から実はシェパードなんすよーって言ってたんだけどねー」 「……別に、浅利さんの方がどっかでトイひっかけたってわけじゃないっしょ? 浮気とか出会い系とかするタイプじゃねーじゃん」 「まあ、うん、俺はね、それなりに真剣に、夫してたつもりだったんだけども。……向こうの方が浮気しまして」 「は?」 「……美園ちゃん怖い怖い、顔がね、今までで一番怖い」  わはは、と笑う浅利の声が、今までで一番腹立たしいと思う。どうして笑うんだろう、そこは怒るところだろうに。何でもない風に笑われてしまうと、浅利の元嫁に苛立った自分が子供のようだ。 「オレ、浅利さんのことすげーいい人だって思うけど、そういう、なんでもない風に笑いやがるの、なんかこえーよ。浅利さんの考えてることがわっかんねーもん」 「うーん……うん、そうだよな。俺もよくねーなって思う、ごめん。別に美園ちゃんの態度を笑ったんじゃなくて、もう俺もどうでもよくなっちゃってるっていうか……あー、いや今のは俺が悪いな? ちゃんと怒ってくれてんのに、ごめんね」 「…………別に、浅利さん相手に切れてるわけじゃねーけど……」 「笑って誤魔化しちゃうのが癖になってんだよなー俺。どうしようもない時に、どうにかしようって足掻くの、面倒になっちゃってさ。これでも結構頑張って、普通の夫として一生懸命愛してたはずなんだけどなー……貴方はトイの方がいいでしょ? って、もー、そんなん、急に言われても、まずはお話合いしましょうよって思うし、俺そんなこと言ったっけ!? ってなるし……」 「そんなん向こうの言い訳だろ。都合のいいように言ってるだけだし、浅利さん悪くねーし」 「いやーでも、結局俺は自分の特性をぎゅうぎゅうに押し込めて無理やり我慢してたわけだし……そういう我慢って、表に出してないつもりでも、わかっちゃったり、ストレスになっちゃってたのかもなーと、思わなくもなく……」 「じゃあ言やぁいいじゃん。たややんよく言うぜ、『口があんだからなんか不満あんなら言え』って」 「あー……美園ちゃんがわりとよく喋んの、田谷町くんの影響かぁ」 「……たややん美容師だからさ、喋んのうまいし、察するのうまいし。でも仕事で察する能力フル活用してっから、家ではわざわざ機嫌伺ったりしたくないらしい――じゃなくて、だから、えーと……浅利さん悪くないじゃん」 「悪くなくても、結果だけ見たら惨敗よ。嫁に逃げられて、そんで仕事も窓際雑用。理解の無い上司に急に変わったら化け物扱いなんだもんなぁー化け物じゃないっすとは言い難いけどさぁー」 「化け物じゃねーよ」  美園は、ホンモノの化け物を知っている。だから断言できる。自分の特性と向き合い、悩み、それでもどうにか社会の中で生きていこうと努力している浅利は、犬ではあるかもしれないが化け物ではなく人間だ。 「……美園ちゃんはやさしいねぇ」  へにゃりと情けない顔で笑った浅利に頭を撫でられそうになり、濡れた手に気が付いて思わず避ける。 「ばっか! 拭いてからなでろ!」 「ふふふ、そのさぁ、ちゃんと詰ってくるとこも割と好きだよ。やめろって言わないとこもいいねー」 「撫でられんのは好きだからいいんだよ、ただし手を拭け馬鹿」 「馬鹿って言われんの癖になってきたなー」  なんだそれ。どういう意味だそれ。どういう顔をしたらいいんだオレは。そう思うものの、勿論言葉に出して確認などできない。自慢ではないが、まっとうな恋愛経験などない。美園の人生のほとんどは地獄で、『普通の恋愛の駆け引き』なんて自分には関係のないものだと信じ込んでいたのだ。  浅利の隣は調子が狂う。感情が上がりっぱなしになって、いつもの倍くらい疲れる。それなのに浅利が居ると、つい自分から近寄ってしまう。  魚食いたい、という浅利のリクエストに応えてタラを煮付けつつ、本当にジュースになってしまいそうなトマトのボウルを取り上げてから『もういいからシシトウ洗え』とシンクに野菜を放り投げる。  なんで自分が命令しているのだろう。どう考えても逆なのに。それなのに、何故か少しどころかかなりわくわくしている。  命令されるときは満たされた気持ちになる。それは快楽に近い甘い感情だ。けれど浅利にどうでもいい指示をしている時は、快楽ではなくてむず痒いような気持ちになった。  これはたぶん、『楽しい』という感情だ。  こんな感情すら、自分の中に存在していることを初めて知る。 「ししとうってさーどうやって食うの? てかこれ辛いの?」 「辛いのは唐辛子だろ……たぶんにげーよ」 「すっげー、すぐ焼き目つくんだな? てか美園ちゃん箸の持ち方きれーでいいなぁ俺ちょっと変な癖ついちまってっからなぁー」 「つか邪魔。動きにくい。あっちで待ってろし」 「えーやだよ。あ、そういやなんか色々告白しちゃったついでに言っちまうと、俺実はEDなんだけど」 「……いーでぃー?」 「勃起不全。チンコ勃たたねーってこと」 「………………ん!?」 「だからもしさ、美園ちゃんがもうちょい信頼関係結ぶためにセックスしたいんですってなっちゃったら、俺タチできねーのよ。つか同性とそういうことしたことねーから、どういう感じかよくわかってねーけども……ま、一応頭に入れといて。いざとなったときにがっかりされてもアレだからさー」 「いざ……」 「そう、いざって時にカモン! ってされても残念ながらどうしようもねーので。まあ逆でいいなら問題ないけど」 「浅利、さんは……」 「ん?」 「オレが、つっこんでも、いいの……?」 「…………」 「………………」 「……まあ、ええと、別に、嫌、では――」  ない、と続くはずの言葉を聞き終える前に、けたたましい電子音が響く。なんとなく至近距離で話していたことにやっと気が付き、慌てて身体を離した後にやっとうるさい音の正体に思い当たった。  美園の携帯電話の着信音だ。  濡れた手で操作しようとしてうまく行かず、画面の字も頭に入ってこない。どうにか通話ボタンをスライドしてから耳に届いた声は田谷町の物で、どうしたのなどと適当に相槌を打ちながら、美園は逃げるようにキッチンから廊下に出た。 『いやー、土曜のいちゃこらタイムに悪い~ちょっとこの時間しか空いてなくてぇ~ほらセリちの洋服選びに行く話あったじゃん? あれいつにするかでおれのシフト決めなきゃで、わりと早急に――……ちょっとセリち聞いてます? おれのお声聞こえております?』 「き、こえてる、けど、わるい、何言ってんのか入ってこねえ……」 『え、なにパニック? やばいやつ? おまえのレンタルシェパードそこにいねーの?』 「いるし、違う、やばいやつじゃなくて、あー…………だめ、むり……」  電話の向こうで慌てる田谷町に『大丈夫』と『ごめん』だけを繰り返し、日取りはいつでもいいから適当に決めてとどうにか用件だけは答える。  通話を切っても、しゃがみ込んだまま立てなくて、ひどく熱くなった顔を手で覆って深呼吸を繰り返した。  まずい。やばい。……好きだ。  浅利のことが好きだ。  性的なことを仄めかされて、うっかり想像してしまったのが決め手になってしまった。浅利の命令は気持ちいい、きっとシェパードとして抱いてくれるなら、よりトイとしての快楽を受けられるだろう。けれど美園は、抱きたいと思ってしまった。自分に抱かれる浅利を想像し、興奮してしまった。  そして彼の、『自分は他の人を抱けないから』という言葉に、つい、安心してしまったのだ。――他人を抱けないシェパードならば、他のトイに奪われることはないだろう、と。トイは基本的には受け身で、従属したい。勿論例外はあるだろうけれど、一般的なシェパードに求められるものは『男役』だった。  最低だ。人の不幸を喜んでいるように感じてしまう。浅利の人生は、おそらくシェパードとEDという病気のせいで狂ってしまっているはずなのに。けれどこれが、美園の本心だ。  明日もあなたの隣に誰も立っていなければいい、と呪うので、この感情は恋だった。

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