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記憶がなくなればいいのに、と思う。
忘れたい、と何度願っても、忘れろよ、と何度田谷町に言われても、結局美園は三年前の記憶を手放せなかった。
高校卒業間際から二十歳までの二年間。あの時の吐き気がするような自己否定感と、堪え切れないほどの快楽は今も、美園の脳と身体に焼き付いている。
それでも最近は、次第にあの記憶から遠ざかっていた。忘れたわけではないけれど、自分にももしかしたら別の未来が待っているのかもしれない、と希望を抱き始めていた。
浅利庸介という名の、シェパードらしくない男に出会ったから。
浅利は優しい。浅利は決して完璧に正しい人間ではないけれど、正しくあろうとする気立ての良い男だ。彼はひどく敏感なトイである美園のことも、対等な人間として扱ってくれる。
彼の隣に居るとき、自分は犬ではなく人なのだ、と思える。
人並の感情も知った。恋をした。焦がれて眠れない感覚を知った。若干ながら嫉妬も覚え、そのすべての感情が美園にとってほとんど初めてのものだった。
学生時代は家畜だった。何もしていないのに変態と罵られ、何をしても虐めの対象にされ、何をしなくても毎日心が死に急いだ。美園の親は従属性障害に理解がなく、頑張れば克服できるものとして彼を通常の学校に通わせた。
勿論、浅利のように社会に適応し、普通に生きていける犬もいる。しかし美園の体質は、『普通』が『正常』とされる子供たちの群れの中では異質すぎた。
そのうち学校に行かなくなり、家にも居場所を失くし、結局夜の街をさ迷うようになった。美園は自分の外見には価値がある、ということを夜の街で知った。
勿論、歓楽街にも人情深い人間はいるだろう。
ただ、美園は運悪く、良き大人の隙間を縫ってその女に出会ってしまった。
かわいいおもちゃが欲しかったんだよね。そう笑う、小さくて可憐な唇の口角の上がり方を、忘れることができない。記憶の中で、今でも美園に苦痛を与え続ける彼女は、今、目の前で、とてもよく知る笑い方をする。
「わ。やっぱりセリちゃんだったー。あはは、髪の毛ながーいから、え? 誰? って思っちゃった。へー……わりと似合うじゃん? でも結愛はー前の金髪の方が良かったなー」
タイトな服は、彼女の細い身体を嫌でも目立たせる。おっぱいないから男の子みたいでしょ、と笑いながらペニスバンドをつけた彼女の声を思い出し、胃液がせりあがってきた。
吐かなかったのは、浅利が居てくれたからだ。
痛いほどの力で手を握る彼は、目の前できれいに笑う女なんていないかのように、ずっと美園を見ていた。
大丈夫、と言えたら良かった。もしくはなりふり構わずに逃げられたら良かった。声も身体も完全に固まってしまった美園は、そのどちらも実行できずにただ、掠れた息を吐く。
心臓が痛い。酸素が足りない。血が、どんどん冷たくなるような嫌な感覚が、指先から這い上がる。
「ちょっとぉーひっさしぶりの再会なんだからー、もうちょっとテンション上げてくれてもよくないー? セリちゃん、昔はかわいかったのになぁ……でっかいのに、おバカな子犬ちゃんって感じで最高だったぁー」
「…………なんで……」
苦しい、息が辛い、それでも絞り出した疑問の言葉は、彼女の笑顔ですぐに潰される。
「なんで? あ、なんで結愛がこんなしょっぱいパーティーに居るかってこと? え、別にそんなことセリちゃんには関係なくないー? って思うけどー久しぶりだから優しくしてあげるね。結愛いまね、新しい子犬ちゃん飼ってるんだけどー。その子がね、このパーティーの主催のえらいおじさんの愛人なのー。本当は女の子何人か紹介してよーって言われたんだけど、客のリスト見てびっくり! セリちゃんいるんだもん! あははは生きてたんだぁ! って思ったら懐かしくなっちゃってさ~別に会いたくなかったけど、たまには昔のおもちゃが懐かしくなるでしょ? うん、そんな感じ」
彼女の声は相変わらず耳に痛いほどに甘ったるい。少し掠れた声が目の奥のあたりに響いて気持ちが悪い。強いシェパードの声は、聴いているだけでもぐらりと崩れ落ちてしまいそうになる。
実際に無意識に体が揺れていたらしく、すぐに隣の浅利に腰を掴まれ支えられた。
至近距離に寄った彼が、優しく気持ちのいい声で『大丈夫?』と囁く。少し、息が楽になる。やっとかすかに頷くことができたというのに、過去の飼い主――結愛は、寄り添う浅利と美園を眺めてけらけらと楽しそうに笑った。
「あ、そっか、ちゃんと飼い主さん捕まえたんだぁ、セリちゃんえらいねぇ~! ほんとにおバカで愚図だったから、自分からちゃんとおもちゃにしてくださいって言えない子だったのに、成長しちゃったんだねー。てか意外~男の人なんだ? あんなに泣くほどアナルセックス嫌がってたのに? ふぅーん……え、でもなんかーその割に安定感なくない? ほんとにちゃんとした飼い主さんなのー?」
「結愛、もう、オレは…………あんたたちとは、関係ないから……」
「は? なに? …………いま、『あんた』って言った?」
全身の血液が、ザっと引く。まずい。そう思った時には遅く、彼女の口から、掠れた凶悪な命令が放たれた。
「――でかい態度取ってんじゃねーよ犬が。這って詫びろ」
瞬間、美園は無意識に床に手を付いていた。
そういえば、いつも彼女はそうだった。にこにこと楽しそうに話しているうちはマシだ。無茶なことを言っていても、まだ可愛げがある。
しかし美園がすこしでも口答えをしたり、彼女の命令に難色を示すと、恐ろしいほど急激に機嫌を損ねた。
彼女の機嫌を損ねた後に始まるのは、サディスティックなお仕置きだ。『パーティーだよ』と笑う結愛は、何人ものノーマル女性で美園を囲み、ありとあらゆる『遊び』に興じた。
結愛は強力なシェパードだった。
美園は、彼女の命令には逆らえない。言われるがままに女性を犯し、言われるがままに犯された。嗜虐的な彼女の命令に心を殺されながら、湧き上がる本能的な快楽を垂れ流した。
気持ちいい。死にたい。気持ちいい。死にたい。ずっとその繰り返しで、ついに二年で美園は壊れた。
感情が虚ろになり、言葉もうまく出なくなった。思考はいつもうすぼんやりとしていて、何を話しかけられてもうまく反応できない。
結局美園は彼女に『壊れたおもちゃ』の烙印を押され、あっさりと放り出された。
二年間の軟禁生活の後に残ったものは、壊れて、その上どこにも行く場所を失くした自分の身体だけだ。
この時初めて美園は、世界に存在する稀有な『良い人』に出会うことができた。それが結愛の『パーティー』に参加していた女性の担当美容師だった男、田谷町だった。
田谷町はうるさい男だった。よく喋り、よく笑い、よく気を使い、美園の言葉を辛抱強く引き出した。彼があれほど自分に構ってくれなければ、今でも言葉を忘れたまま廃人のように食べて寝るだけの生活を送っていたかもしれない。
たまに真剣に作業に没頭していると、やたらと心配そうにチラチラと眺めてくる。きっと自分がまた言葉を失ったらと心配しているのだろう。そう思うから、美園はなるべくよく喋るようにと毎日心がけ、それが習慣づいてしまった。
浅利が『美園ちゃんって思ってたよりよく喋るよなぁ』と笑う原因は、田谷町だ。彼の、心配性すぎる優しさのお陰なのだ。
田谷町の顔を思い浮かべて、ようやく美園は呼吸を思い出す。そして恐怖と回想から抜け出し、自分の前に浅利がかがみこんでいることに気が付いた。
「美園ちゃん、そんなことしなくたって大丈夫だよ。つか、耳塞いでな? しんどいなら聞くことねーよ」
「あさりさ……」
「うん、そう、俺のことわかる? おっけ、わかるな? えーと、……美園ちゃんのパートナーは俺だからな? それもちゃんとわかる?」
「…………わかる、」
「うん、良い子だな? よしよし、じゃあ帰ろうか。本当はもうちょいメシ突っ込んでからお暇しよっかなぁって思ってたけど、まぁ、先に食っとかねー俺が悪い。家帰って昨日の残りの高野豆腐食うわ。はい立ってイケメン。息しろイケメン。安心しろよ、俺が隣に居る限り、美園ちゃんは渡さねーよ」
だから耳を塞げ、という命令の後、浅利が何を言ったのか美園はわからない。珍しく強い口調で命令され、反射的に自分の耳を手のひらでぎゅっと圧迫した。
どくどくとうるさい心臓の音。合間に震える轟音のような音。この音は筋肉が振動している音だ、と言ったのは誰だったか。もしかしたら、まだ仲たがいしていなかった頃の母親だったかもしれない。
騒ぎを聞きつけて集まってきたスタッフの合間から、結愛が浅利を睨んでいる。その醜悪な顔は、美園が本気で逃げようとした時よりもひどい。
浅利を巻き込んでしまった。せっかく、自分に優しくしてくれる人を見つけたと思ったのに、ひどく迷惑をかけてしまった。――今日こそ、彼に自分の思いを伝えるつもりでいたのに。やっとその勇気が持てたのに。
目が熱く、鼻の奥が痛む。こんなところで泣くなんて嫌だ。そう思って息を吸った瞬間、結愛が浅利に向かって手を振り上げた。
「浅利さん……!」
身体が勝手に動いた。浅利の命令は『耳を塞げ』だった。本来ならば『もういいよ』と言われるまで、自分は耳を塞いでいる筈だった。けれど美園は自分を守る命令を無視して、浅利に手を伸ばして彼の身体を庇った。
美園の手が耳から離れた、その瞬間を狙ったのかどうかはわからない。
「――死ねッ!」
ただ衝動的に罵っただけかもしれない。理由はどうあれ、結愛の声は、容赦なく美園に突き刺さった。
死ね、と言われても、トイは死なない。そこまで順応な生物じゃない。
けれど強い命令と感情は、確実に精神に突き刺さり異常をきたす。先日、他愛もない子供の暴言で倒れてしまった時のように。
ぐらり、と頭が重くなり、吐き気が這い上がる。それでも美園は膝をついただけでなんとか意識をつなぎ止めた。
立て、息をしろ、安心しろ。そう言ってくれた浅利の命令が、美園の身体をどうにか持ちこたえさせたのかもしれない。大丈夫、そう言ってくれたから。
何人かのスタッフが駆けつけてくれて、支えるように肩を貸される。ぐらぐらとした眩暈を伴う視界の端で、狼狽している浅利の顔が目に入った。
「ばっか、だから耳塞いどけって、言っ……あーーーもう! ごめん! 俺が悪い……!」
「……さりさん、別に、悪くねーし……」
「俺が喧嘩買わずにすぐ逃げてたら良かったって話だよ……! 美園ちゃん、大丈夫!? 駄目じゃね!? え、救急車呼ぶか!?」
「だいじょぶ、ちょっと……わけわかんなくなってる、だけだから、」
タクシーを、と、浅利が叫んだ気がした。
けれど美園は、支えられて立っているだけでも精一杯で、ただ泣かないようにと震える息を飲みこむだけしかできなかった。
告白しようだなんて。トイである自分が、まっとうに恋をしようだなんて。
きっとそんな烏滸がましいことは、許されなかったのだ。
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