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足が長い。背が高い。腕も長くて全体的にバランスが良く頭も小さく格好いい。
壇上でぎこちなく背を伸ばしている美男子を眺めながら、浅利は惚れ惚れと息を吐く。
美園芹は普段なら絶対着用しないような、窮屈なジャケットとニットで身を包み、『絶対に猫背になるな』という田谷町の命令だけを健気に遂行しているように見える。ハーフアップの黒髪は、心なしかいつもよりもなめらかで美しい。
同居生活ですっかり見慣れた筈だというのに、彼が登場した際には思わず口笛を吹きそうな気持になった。下世話な口笛を押しとどめた後に口から出たものは、音を伴わない感嘆だ。
俺の彼氏かっこいいじゃん。などと心のうちだけで茶化してしまうのは、浅利も緊張していたからだろう。
とはいえ、浅利の緊張は『授賞式』のせいでも、パーティー会場の浮ついた雰囲気のせいでもない。
友人はほとんどいないとはいえ、職場の付き合いで結婚式に呼ばれることはあったし、営業をしていた時期は人の集まる場所ばかりを巡っていた。知らない人間や、目上の人間の輪にぶち込まれたところで、浅利が臆するようなことはない。元来浅利は根明でコミュニケーション能力に長けている、という自覚もある。
今この場で浅利の心臓を落ち着かなくさせている原因は、壇上の男だ。
控室での美園は落ち着きなく歩き回り、立ったり座ったりを繰り返し、大丈夫だから深呼吸しなさいと珍しく強めに命令してあげてやっとゆっくり息を吐いた。そしてすっかり緊張で冷たくなった手で浅利の手を握り、深く息を吐いた後にこう言ったのだ。
――浅利さん、これが終わったら、話があるから、時間ちょうだい。
……そんな風に思い詰めた真剣な顔で言われて、一体何の話だろうか? などととぼける程馬鹿ではない。
いや、今まで浅利は十分に知らぬふりを貫き通してきた。
ことあるごとに視線を感じても、ささいな接触に過敏に反応されても、寝たふりを続ける浅利の額に控えめに口づけされても、愚鈍なふりですべて見なかったことにした。
美園は、わかりやすい。一見感情の起伏が顔に出にくいように感じるが、派手に笑ったり怒ったりしないだけで、基本的には素直で純朴な青年だ。
誰がどう見たって、彼は浅利に恋愛感情を抱いている。勿論、浅利自身もそのことにはとっくに気が付いていた。
唇にキスをしないからきっと自分は対象外なんだなぁ、などという考えは、完全に思い違いだったのだ。
さらりと『美園ちゃんは口にちゅーしないねぇ』と零した際には、『だってそういうのは恋人がやるやつじゃん』と視線を逸らして耳を染める美園に、くらりと落とされそうになった。
かわいい。いじらしい。純情乙女かよ。
心の中だけで山ほど突っ込みつつ、彼の熱には気が付かないふりをするのは相当な理性が必要だった。
あくまで美園と浅利は、期間限定のパートナーだ。それはイコール恋人ではない。だから、唇にキスはしない。
そんな可愛い年下の男の理性が、いじらしくて妬ましい。理性なんか知らぬ顔でさっさと暴走しそうな見た目だというのに、美園芹は浅利が思っていた以上に、真面目な男だったのだ。
そんな男に、話がある、と言われたわけである。
今日が終われば、パートナーの契約は終わる。明日からは他人とは言わずとも、知り合い程度の関係性に落ち着くのだろう――このまま、お互いが何も行動しなければ。
どう考えても、美園の話は『告白』だ。
(……そういや俺、告られたことねーなぁ)
壇上でインタビューを受ける美園のぎこちない声を聞きながら、壁際に陣取った浅利はぼんやりと思考する。
昔から、気味の悪い子供だと避けられて生きてきた。当然友人どころか、恋人もいない学生時代を過ごし、社会に出てからやっと上司の理解を得た。そのころには従属性障害をすっかり隠すすべを身に着けていたが、それでも他人や異性に対しては壁を作り、必要以上に近づくことはしなかった。いつどころで従属性障害がバレて、いつどこで差別につながるか、浅利には予測もできなかったからだ。
元妻とは、何度か会ううちになんとなく趣味が合うことにお互い気が付き、浅利から告白して付き合い始めた。
劇的な恋ではなかったし、熱烈な恋愛ではなかった。けれども彼女とは良い家庭を築いていたと信じていた。
(結婚しなきゃ、葉子とも壊れなかったのかなぁー)
何がダメだったのだろうか。
考える度に、浅利を構築する要素のすべてが駄目だったような気がしてきて、ただひたすらに苦い気持ちが湧き出てくる。
彼女の友人に自慢できるようなスペックではなかったのかもしれない。家を買うためにと、我慢させすぎたのかもしれない。やっぱり子供がほしかったのかもしれない。良き夫のつもりでいたけれど、そう思っていたのは自分だけだったのかもしれない。
……だめだ、また鬱々と過去の反省をしてしまう。
どんなに考えたところでもう妻は戻らない。残された一戸建てのローンも消えない。悩んでも答えの出ないことで悲しくなるのはやめた方がいい、と、小川医師はよく浅利の頭を柔らかい書類でぽかぽかと叩いた。
小川のことを思い出すと、気持ちがすこしシャキッとする。
そして小川の顔を思い出したついでに『浅利さん、彼落としちゃいなよ』などと無責任に焚きつけられたことまで思い出してしまい、思考が一周して結局美園との関係まで戻ってきてしまった。
さて、おそらく今日、浅利は告白される。
見た目に反して真面目で、一途で、そして不器用な年下の男にだ。
性格の相性は申し分ない。浅利は彼の不器用さがかわいいと思えるし、美園は浅利を尊敬できる大人だと思っている様子だった。それに彼はⅡ型で、Ⅰ型の浅利の命令を気持ちよく吸収する。
命令が通ると、気持ちがいい。
従属性障害はⅡ型ばかりが依存しがちだと思われているが、Ⅰ型も『命令をする心地よさ』に依存している。今まで健常者に囲まれて生きてきた浅利は、Ⅱ型への命令がこんなにも気持ちいいものだと忘れていた。
きっとセックスも気持ちいい。浅利は軽度の勃起障害であるが、相手が同性ならば別に勃とうが勃つまいが関係ないだろう。子供を作るためにセックスをする番にはなれないのだから、美園とのセックスはシンプルに快感だけを求めるものになる。となれば、オーラルセックスでも問題はない。
考えれば考える程問題などない。
おあつらえ向きのパートナーすぎて、逆に不安になるほどだ。
美園に関しての問題はほぼ無いのだ。自分の感情が二の足を踏んでいるのは、浅利本人に問題があるからだ。
ああ、たぶん、俺のことが好きなんだろうなぁと思いながら気が付かないふりを続けた。何も知らないふりをしながら、少しだけ甘い命令を繰り返して、耳を染める様を盗み見た。興奮を隠す様に興奮するくせに、何も知らない顔でおやすみと手の甲にキスをした。
ひどい大人だ。恋なんて知らないふりばかりをして、九つも年下の青年の恋情を弄んでいると思われるだろう。そこまで皮肉的ではなくても、知らぬふりをしていた事実は変わらない。
本当に、弄んでいたつもりはない。
浅利はただ、臆病で、自信がないだけだ。
ビビってんだよな、という自覚はあった。年下の純朴な青年の人生を引き受ける自信がない。美園の過去は、詳しく聴いたわけではないが、断片的な情報だけでも眉を顰めるようなものばかりだ。
田谷町も言っていた。美園は幸せになるべきだし、浅利だって彼に幸せになってほしいと思う。ただ、彼の人生のパートナーは自分でいいのだろうか、という問いかけに全力でyesと答える勇気がない。
何よりも浅利は、すでに一度失敗している。結局ダメになるなら、関係性など築かない方がマシなんじゃないだろうか。恋人とかではなく、このままパートナー兼友人としてしばらく過ごすことはできないのだろうか。けれどそれは、やはり美園の気持ちに対して不誠実ではないか――。
また答えの出ない思考ループに入りかけたものの、頭の中に小川医師を召喚する前に、浅利は現実にふと思考をシフトする。
メインの授賞式が終わり、美園が速足に歩いてくる姿が見えたのだ。
「わーお。美園ちゃんモテモテじゃん」
山ほど、とは言わずとも、かなりの量の名刺を所在なさそうに抱えていた美園は、まだ凝り固まったままの表情で息を吐く。
「――疲れた。……なんかオレさ、たぶん、ほとんど全員に女だと思われてたみたいでさ……」
「あー。みそのせり、ってきれいな名前よね。でも似合ってっけどなぁ美園ちゃんに。あ、それとも美園ちゃんの作った曲のせいか? なんかガッとしてギュッとしてて、こう、カワイイ! みたいな感じだよなぁー」
「浅利さん、結構感覚的な言葉使うよな……」
「え、ごめん、気分悪かった!? 俺、美園ちゃんの作った曲初めて聞いたけどすげーエネルギー! って感じでぎゃーってしたからそのー、褒めたつもりだったんだけども……」
「ん、あー……悪く、言ってるわけじゃないのは、わかってるよ。……ありがと」
美園は照れると視線を落とす。足元を見る様は少し痛々しく思うが、まっすぐ見つめられると浅利がどぎまぎしてしまうので、常時照れていてほしいとさえ思う。やはりそんなことを考える自分は、駄目な大人だ。
美園はとにかく見た目が美しい。乱雑な言葉遣いと態度のせいで不良めいた印象を受けるが、きちんと髪をセットしてフォーマルな服を纏えば、モデルと言っても過言ではないように見える。
うん。俺の彼氏やっぱかっこいいわ。
そんなことを再確認し、そして浅利は結局自分の方が彼氏ヅラしていることを、やっと今更自覚した。
なんだかんだと言い訳をしていても、結局感情には逆らえないのだ。
何人もの女性が美園に声をかけ、簡素な言葉で袖にされる様を見るたびに、首のカラー見ろよアレ買ったの俺じゃねーけど美園ちゃんは俺んだよばーか、などと汚い言葉を頭の中だけで浮かべつつ『美園ちゃん、良かったの? 結構な美人だったじゃん?』などと嘯く。なんだこれ最低じゃん、と自分を皮肉る。
美園は偉い。ちゃんと腹を決めて、告白する勇気を持っている。こんな自分に、駄目で悪い大人に、真正面から『話があるから時間をください』なんて、あまりにもまっすぐなお願いをしてくる。
自分がダサくて涙が出そうで、美園の決意がまぶしくて目がつぶれそうだ。
ビビっている場合ではない。浅利も、腹を括るべきだ。
「名刺寄こしなー整理してファイルしちゃる。……美園ちゃんだいじょぶ? ちょっと休む?」
「大丈夫……だと、思う。浅利さんがいてくれたら、結構それだけで安定する、から」
「ほんと? 無理しちゃだめよ、美園ちゃんの方がでけーんだからさ、ほせーから体重一緒くらいじゃね? って思うけど」
「んなわけあっかよ。浅利さんそこまでムッキムキじゃねーだろ」
「いやー実は俺暇なとき割と筋トレするのが趣味で。脱いだらすげーのよわりと」
「…………ぎゅってした感じそうでもねーけど……?」
「あ、美園ちゃん抱きしめること『ぎゅ』って言うタイプなの? かんわいーな?」
「………………うるっせーよばか……つかあんま変な事言うなバカそういうの、あー……帰ってからにしろ……」
「ん。俺に大事な話があんだもんね?」
「あーーーもーーー…………もうぜってーばれてんじゃん……」
「え、いやいや。何のお話か見当もつかねーですよ」
「にやにやすんのやめて……期待しそうになんだよ……」
ばか、と小さい声で罵られ、耳の赤さに満足してしまう。かわいい。こういう主語をぼかした会話ができるのも楽しい、と思ってしまう。やはり浅利と美園は、相性が良い。
かわいいな。手つないだらダメかな。駄目か? いやでもパートナーなんだし、美園はカラーをしているし、別にいいんじゃないか。
浮かれて手を取ろうとした浅利は、しかし次の瞬間美園の雰囲気が変わったことにすぐに気が付いた。
そして先ほどとは別の理由で、すぐに手を握る。
可愛い年下の青年を揶揄って愛でる為ではなく、大切なパートナーを守り安心させるために。
「――美園ちゃん?」
美園はすべての動きを止めていた。もしかしたら、息すらも止まっていたかもしれない。真っ青な顔で、どう見ても尋常ではない様子で、彼が凝視する先――その先には、こちらに向かって歩いてくる女性がいた。
小柄で、頭の小さいアイドルのような女性だ。少女と言っても問題ないほど若く見えるが、さすがに十代ではないだろう。細い身体にぴったりと纏わりつく派手な服装の彼女は、まっすぐに美園を見ていた。
「………………あ」
あれ、やばいやつだ。
まずい、本気でやばいやつだと本能で悟る。女性の雰囲気からも、本気で怯える美園からも彼女のまずさが伺える。
震える美園の手は冷たい。できる限りの力で、その手を握りなおす。
「美園ちゃん、大丈夫。……息して、平気だから」
俺がいるから。
浅利のその言葉の後、美園の口から零れた音は、ひきつったような呼吸音だけだった。
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