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 息苦しくて嫌になる。  何度経験しても慣れない。そして何度経験しても、この浅い呼吸の目覚めに慣れる気がしないし、慣れたくないと思う。  ぼんやりと焦点が合う。病室の天井ではなかっただけマシだったが、美園が目を覚ました場所は明らかに田谷町の部屋でも、いま居候している浅利の家でもない。休憩室のような殺風景な個室を目線だけでぐるりと見渡し、徐々に覚醒する意識を手繰り寄せて思わず両手で顔を覆った。 「……っあー……」  やってしまった。――ここは、デパートの中だ。  三人で買い物に来た。美園は田谷町が選んだ派手な私服しか持っていない。授賞式はフォーマルを指定されなかったものの、柄シャツとジーンズで出席するわけにはいかないだろう。何より全身コーディネイトを請け負ってくれた田谷町がそれを許さないだろうし、同行してくれる浅利に恥をかかせるわけにもいかない。  買い物行こうぜーと軽く誘ってきた田谷町との外出に、どうして浅利が同行することになったのか、あまり覚えていない。  なんとなく夕食を作りながらそういえば月曜日に買い物行く、と言ったら、俺もついてこうか? と言われたような気がする。浅利が美園の外出を心配する理由は、美園がトイだからだ。けれど己の感情を持て余している美園としては、少し過保護にされるだけで眩暈がするほど動揺してしまう。  期間限定だから。この人はパートナーじゃないから。ただ可哀そうなオレに付き合ってくれてるだけの良い人、それだけだから。  そんな風に言い聞かせていても、当たり前のように自分の隣を歩く浅利の無邪気な笑顔に、何度も心臓が跳ね上がった。  知らなかった。本当に経験がないから知らなかった。 (……恋……ものすげー疲れる…………)  ひどく嬉しくて楽しくて、そしてひどく疲労していた。というのは、言い訳に過ぎない。  少し頭を冷やそうと思い、席を立った。冷たい水で手でも洗って、煩悩を振り払ってリセットしよう。そうでもしなければ、美園は当たり前のように浅利を抱きしめてキスを落としてしまいそうだった――別に、命令されたわけでもないのに。  疲労していたし、気が散っていた。だから、トイレ横の託児スペースを通る時にイヤホンをしていないことに気がつかなかった。今日は朝から浅利と田谷町と一緒だったから、耳栓代わりのイヤホンはポケットの中に入れっぱなしだったのだ。  その声は不意に、それなりの音量で美園の耳にダイレクトに響いた。 『だいきらい!』 『しんじゃえ!』  やばい、と思った時にはもう腰から崩れ落ちていた。  声は子供のものだった。喧嘩をしていたのか、女児の泣き声が聞こえる。たぶん、叫んだ男児は軽度のⅠ型従属性障害――シェパードだ。おそらく周りにトイが居なかったせいで、彼の性質にはまだ誰も気が付いていないのだろう。もしくは、親がうっかり目を離した隙の惨事かもしれない。  これは命令ではない。ただの感情だ。  そもそも死ね、と命令されてもさすがに自殺まではできない。人が自力で脳の活動を止められないのと同じで、トイもシェパードの命令で生死までは左右されない。  それでもそのネガティブなシェパードの感情に、敏感すぎる美園は思い切り引き摺られた。  心臓が冷たい手で鷲掴まれたかのように一気に冷える。  嫌い、という言葉が痛みを持って美園を締め付け、呼吸すら奪った。  そのまま倒れたのだ。いつものことだ。いつも、外出するとこうやって事故を起こす。そして他人に迷惑をかける。  仰向けになったまま、息を吸って吐く。目頭が熱く、鼻の奥が痛い。泣くな、と思えば思うほど、じわりと涙は滲んだ。 「……お? お! 起きてんじゃんセリち! んだよーお目覚めになったらいうてくださいよぉ~」  いつも通りのテンションの田谷町の声が聞こえ、余計に美園は息を吸いづらくなる。田谷町は気を遣うのがうまい。美園が自責の念でいっぱいいっぱいになっていることを見越して、あえて明るい言葉をかけてくれることを知っている。 「………………ごめん、また、やった……」 「え? 何て? あ、『ごめん』て言った? おっまえ今日いつも以上に声ちいせなぁ、ガタイでかいんだから腹から声だせよぉー」 「……浅利さんは? 帰った?」 「んなわけあるか、つかそんなわけねえってわかってるくせに自虐すんのやめなさい。いま水買いに行ってんの。あとここはモールの休憩室だってさ。つかなんでまたあんなとこでぶっ倒れてたわけ?」 「子供……たぶん、無自覚なシェパードが居て……」 「んーあー。そりゃしゃーないわ。トイならまだしも、シェパードってわりと自覚症状出にくいよなぁ。セリち起きれそ?」 「おき、れる、たぶん」 「おおー。いつもより全然元気じゃんかよ。さっすが浅利さん、最強パートナー!」 「…………は? 浅利さんが、何――」  重い身体を起こしながら眉を寄せた美園の手をぎゅっと握った田谷町は、とても珍しい真剣な顔をぐいっと寄せる。 「こうやってさ、ぎゅっと握ってさ、『美園ちゃん、大丈夫だから息して、安心して』って囁くわけよ。すげーねあれ、まじで王子様だわ。眠れる美男子と王子様だったわ。つか寝てるおまえにもあの人の声って効果あんだなすげーなまじで」  そしていつも以上ににへらっと相貌を崩すと、田谷町は声を低く落として素直に笑った。 「……良かったじゃん、超良い旦那捕まえてさ。シンデレラも真っ青のくっそ不幸人生、やっと脱却できんじゃね?」 「でも……あの人は、別に、オレのお願いきいてくれてるだけで……それも、ぶっ倒れたオレが脅迫したみたいなもんだし……」 「んなのただのきっかけじゃーん。いまそんなに好き好き大好き浅利サンになっちまってんだから、素直に恋愛してさっさとあの超絶優良旦那落としちまえよーダイジョウブおまえ顔だけじゃなくってわりと性格もイケメンだから! おれが保証すっから!」 「つか……なんでオレがあの人のこと好きなのばれてんだよ……」 「いや逆にきくけどなんでバレないと思ったの? あんなラブ熱視線ビシバシ出しておいて?」 「……うっそ……オレ、そんな、わかりやすい……?」 「あー、ダイジョブダイジョブ。おまえわかりやすいけど慣れないうちはわかりにくいから。おれくらいのセリちフリークなら一発でビビッときちゃうけどね、普通の人間ならそこまでお前の感情よみとれねーよ、たぶん。たぶん。たぶんな?」 「三回言った」 「だっておれ浅利さんのことなんかわっかんねーもん。今日初めて会ったし。あの人のこと良く知ってんのは、セリちの方っしょ?」 「……………」  浅利は聡い。そして頭がいい。空気を読むことだってうまくて、美園の何倍も人付き合いがうまそうだ。  美園が必死に隠している感情に、気が付いているのかもしれない。万が一今は隠し通せていても、気が付かれるのは時間の問題だろう。田谷町の言う通り、自分は器用なタチではない。美園の扱いに慣れた人間には、何を考えているのかすぐにばれてしまう。 「ま、いいんでないの? 浅利さんも恋人とか嫁とかパートナーいないんなら不貞じゃねーし、マッチングアプリで出会うよか健全じゃん? てか街中歩いてたら偶然出会ったってわけっしょ、少女漫画かよわはは! いきなり病院送りは過激すぎっけど!」 「いやよくねーだろ……あの人真っ当な社会人じゃん……」 「セリちだって真っ当なフリーランスですけどぉ? まだ仕事安定してねーけどさ、ちょいちょい依頼されてたじゃんかよ。授賞式でもしかしたら偉い人の目に留まるかもだし、音楽とかゲージュツってコネは大事よ。作っといて損はない。セリちの人生まだまだこれからよー浅利さんと真っ当な家庭築けばよかろ?」 「でも……」 「なによ。まだなんかあんの」 「……あの家は、オレの為の家じゃない」  広い寝室は、夫婦のものだ。機能的なキッチンは奥さんの為に作ったものに違いない。そして二階の手前の小さな部屋は、どう見ても子供部屋だった。  家族の為に作った家だ。家族なんてものに思い出すらない美園にだって、あの家の意図する未来は想像できる。  そこに居るべき人間はごく普通の夫婦と子供であって、犬の同性カップルではない。  一生懸命考えて建てたんだろうな。相談して決めたんだろうな。そんなことが一々わかってしまうほど、浅利の住む新築の家は細やかな気配りに満ちていた。  そしてその事実に気が付いてしまう度に、自分はここに居るべき存在ではない、と現実を叩きつけられた気持ちになるのだ。  ひねり出すように胸の内を吐き出した。こんなこと、言うつもりはなかった。けれど事実で、今美園の甘ったるい感情を一番傷つけている事柄だった。  田谷町はどんな顔をしていたのか、わからない。視線を上げることもできずに自分の足を見つめていた美園は、唐突に額に走った痛みに思わず顔を上げた。 「っ、いってぇ!?」  額を押さえながら睨む先には、指をデコピンの状態にした田谷町が居る。 「こんの、ばーーーーか! おばか! おバカ犬! つうか何そのクソみてーなお悩み!? 今時『他人のお古は嫌なの……』なんてあーた、ディズニープリンセスしか許されん価値観よ。いくらシンデレラ真っ青な人生だからってそこまで模倣すんなっつの、アップデートしろ世は令和よ!?」 「……別に、お古とか、そういう意味じゃ、」 「わーってますよ! 浅利サンの未来はこの家で幸せな家族と子供を育てることであってオレの隣で乳繰り合うことじゃねーんだよ……みたいなアレっしょ!? うっるせーーーーばーーーーか!」 「馬鹿って言うのやめ、いってぇ! デコピンもやめろ!」 「勝手に人に譲んな! 守りに入って自分ばっか大事にすんのやめろ! おまえがやってるそれ、ビビってるだけだかんな? いいか、幸せなんか人それぞれなんだよ、勝手におまえが押し付けんのやめろ。つか浅利サン言葉通じる人だからとりあえず告って話し合え、理想が違ってへこむとしたらその後だよ。あの人が出てけとか、俺実は女の子じゃないと勃たねーんだよねって言ったわけじゃねーんでしょ!?」 「……ない、けど」  勃つか勃たないかについては、おそらく相手が誰でも結果は同じなのだろうが、それは今田谷町に言うべきことではない。そして確かに浅利は、美園に対して不満を漏らすことはなかった。  かわいいとか、料理うまいねとか、餌付けされてる気分だとか、何着てもかっこいいねとか、体温高くてきもちいいねとか。とにかく、褒めてくれるし、邪険にされたことは一度もない。元嫁に未練があるようなそぶりも、そういえば一度も覚えがない。 「おれが言うのも何ですけれど、セリちさぁ、どうせクソみたいな人生だったじゃないの。もうなりふりとか構うなよ、これ以上クソになることねーよたぶん。なりふり構わず喰らいつけ、たまには牙みせろ。――あの人モノにして、世界から幸せ奪い取れ」 「……それ、浅利さんの幸せは考慮してんの……?」 「知るかよーーーおれぁセリちのトモダチだーっつの。浅利サンもいい人だと思いますよ? でも知らんもんあの人のこと。だからおれは今おれにとって最善の素敵な未来をけしかけてんの。がんばれ馬鹿。ビビんな馬鹿。おまえ見た目も性格いいからいけるって自信持って落としに行け」  ひどく勝手なことを言う。  けれど美園は笑ってしまい、ひどく勝手なことを言うこの男が好きだなと思った。  笑いながら、合間に小さな声で『がんばる』とだけ告げる。それでも言えただけ偉い、と判断したらしく、田谷町はわしわしと美園の頭を撫でた。  そういえば最近は、浅利にばかり撫でられていた。容赦のない田谷町の撫で方は、いつもと違って不思議に思える。  髪が絡まるからやめろとじゃれあい始めたところで、ドアが開く。ペットボトルを抱えた浅利は、少し驚いたような顔を見せた後に柔らかく苦笑した。 「……美園ちゃん、だいじょぶ? 顔色随分戻ったから、まあ、平気かー」 「うん。……ごめん、迷惑をおかけしました」 「いえいえ、とんでもない。つか俺も田谷町くんも一緒で良かったよ。今度ノイズキャンセルのイヤホン見てこよっか。俺が言うのもなんだけど、世の中どこにⅠ型が紛れてっかわっかんねーもんなぁ」 「あー……でも、浅利さんが一緒にいてくれたら、わりと、平気……だし」 「うん? そう? それならまあ、いいんだけど。あ、田谷町くん、さっきのコーヒー代――」 「あーいらねっす、交通費半額浮いたし。セリちの居候代に追加しといてくだーさい。っつーわけでおれ帰るわセリち」 「え。なんで……一緒に帰ればいいじゃん」 「やーだよ、おれんち逆方向じゃん知ってんだぞ。まっすぐ一刻も早く帰って寝ろ貧弱野郎。知ってるかおれは電車にだって乗れるボーイなんだぜ」 「オレだって昔は乗れてた……」 「いつの時代の話だっつの、今の話をしろ、今の話を。過去をどうこう言っても意味ねーのって話いまここでもっかいしますー?」 「いい。さーせん。オレが悪かったです。帰って寝ます」 「お、素直~浅利サンの教育のたまもの~っつーことでよろしくお願いします、あ、今日の服どれ買うかは後で要相談なんで浅利サンも考えといてくださいたのんますよ大人……」 「田谷町くん二十五歳でしょ? 十分大人じゃないの」 「三十代には追いつけないぜ……いやマジで帰るわ、だらだら喋らせてくれっから浅利サン好きだわ、じゃあ後で連絡するわよ~」  おだいじに、と笑ってもう一回軽いデコピンひとつ残し、田谷町は颯爽と部屋から出て行ってしまった。 「…………良い子だね。なんか、美園ちゃんとは別ベクトルでほんと良い子で心配になるなぁー田谷町くん」 「心配?」 「うーん……色々一人で抱え込んで時々パーンってなっちゃいそうな気配がする……」 「あー……なってる、かも……なんか仕事やばいブラックらしいし」 「最悪じゃん。じゃあ田谷町くんには悪いことしちまったかなー」 「……悪いことってなに」 「今日二人で楽しく買い物してた方が良かったのかなって。おっさんしゃしゃってきちゃって申し訳ねーなぁと……う、ひ!?」  浅利が思わずといった様子で声を上げたのは、美園が立ったままの彼の腰に頭突きしたからだ。こつん、などとかわいい擬音がつきそうな勢いではない。ゴン、と音がしそうな頭突きだった。 「……なんでそういうこと言うの。オレ、今日浅利さんが一緒にいてくれて助かったし、嬉しかったし――あー……楽しかった、のに」 「え、あ、そう? ほんと? ……俺、若人の友情の邪魔してない?」 「してねーし。つかたややんは気ぃ使うタイプだけど、ウソついてるときはオレわかるし。普通に楽しそうだったよ。……オレがぶっ倒れちゃったのが、ちょっと、本当に駄目だっただけで……」 「まあね、それはね、どうしようもないことってわりと世の中にあっからね。しんどい思いしちゃったのは悲しいけど、しゃーないことは悔いてもしゃーない。田谷町くんにも釘刺されちゃったし、帰ってなんか食べて今日はもう寝ちまおう」 「…………浅利さん、」 「んー?」 「あー……その………………今日、一緒に、寝てほしい」  喰らいつけ。  牙をみせろ。  田谷町の檄は、もっと、具体的には押し倒せというつもりの尻叩きだったのだろう。けれど美園には消え入りそうな声で要望を伝えるだけでも精一杯で、口にしてからすぐに後悔したし泣きそうになったし吐きそうだった。  浅利の反応は三秒後だった。  その間本当に息が止まりそうだったというのに、当の浅利は『お』とすっとんきょんな声を漏らす。 「……おねだり、かわいいかよ……」  そしてへなへなとしゃがみ込んでしまう。  ……これは、期待してもいいのだろうか。少しくらいはほだされてくれているのだろうか。  恋愛なんかしたことも、見たことも、憧れたこともない。そんなものに自分がまきこまれてしまうなんて、本当に露ほども考えていなかった美園は、吐きそうな気持をどうにか抑えながらうるさい心音に耐えていた。  喰らいつけ。  たぶん浅利は、美園の牙が痛くても、優しく宥めて外してくれる。この期に及んで振られる時の覚悟を決めてしまう美園は、やはり、まだ臆病な犬だった。

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