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第1話

     Ⅰ    雨の匂いがする、とルディ・フラウミュラーは草むしりをしながら、確かめるように深く空気を吸い込んだ。  そうして空を見上げると、雲の流れが速くなっていることに気づく。これはもういくらもしないうちに雨が降ってくるに違いない。  ルディは草をむしる手を止めて、屋敷の裏口へと駆けていった。 「マリア! マリアいる?」  ルディが呼びかけると、奥のほうから女性の声が聞こえた。 「はいはい、おりますよ。どうなさいましたか」  どうやら廊下の床を磨いていたらしい彼女は姿を見せて返事をした。  マリアはこの屋敷に長年仕えている古参のメイドである。ルディが幼い頃からいて、屋敷のことはなんでも知っている。 「マリア、洗濯物を取り込んだほうがいいと思うよ。すぐ雨が降ってくるから」  ルディの言葉に彼女は「あら」と驚いたような顔をした。 「雨ですって? そんな気配もないくらいピカピカのお日様だったのに。ああ、でもルディ坊ちゃんがおっしゃるならそうなんでしょう。承知しました。すぐに洗濯物を入れますね」 「ありがとう。よろしくね、マリア。でも、坊ちゃんはやめてよ。僕はもう坊ちゃんじゃないんだから」  苦笑しながらそう言うと、マリアは溜息をつく。 「なにをおっしゃってんですか。私らの中でルディ坊ちゃんはいつまでもこのお屋敷の跡取りの坊ちゃんですよ。今でこそグレゴール様が取り仕切っていても、ルディ坊ちゃんがこのフラウミュラーの跡継ぎには違いありません。……まったく、なんだって坊ちゃんが使用人のような扱いを受けなくちゃなんないんですかねえ。古着しか与えられなくなって、食事もあたしらと同じもんで、しかもこんなに泥まみれになっているなんて、旦那様や奥様が生きていらしたらどれだけ悲しまれることでしょう」  悔しいとばかりの口調でそう言いながら、マリアは首を横に振る。その目は微かに潤み、彼女はすぐさま袖口で目元を拭った。 「ありがとう、マリア。いいんだよ。庭の仕事だって僕は大好きだし、古着だって気にならないよ。僕はおしゃれには疎いほうだしね。それにこうしてみんなと働けるのはとても楽しいんだ。それに家のことだって、グレゴール叔父様がいなければお取り潰しだったかもしれないだろ? 僕のような者をこうして屋敷に置いてくれているだけでありがたいことだよ」  にっこりとルディが笑ってみせると、マリアは悔しげに顔を顰める。 「そんなことおっしゃらないでください。グレゴール様がこの屋敷に来なければ、すんなり坊ちゃんが跡を継げたはずなんですよ。まったく、あの家族ときたらたちの悪い寄生虫のようなもんです。あの方たちがいらしてから、ろくなことはありませんよ」 「マリア、言いすぎだよ。叔父様のおかげで、フラウミュラーはまだ爵位を存続することができているんだからね」 「坊ちゃん……。でも、あの方たちにこき使われているせいで、あんなにおきれいだった手は荒れ放題だし、それにこんなに痩せちまって……奥様似の金色の髪も栄養が足りなくてパサパサ……今の坊ちゃんを見たら旦那様はお嘆きになるに決まってます」  これまで感じていたことをすべて吐き出すようにマリアは一気に愚痴をこぼした。  とはいえ、マリアは間違ったことは言っていない。  ルディはそれはそれは美しい容姿を持つ少年だった。だった、と過去形なのはマリアの言うとおり、水仕事で手は荒れ、もちろん爪の手入れなどできるはずもなく、ボロボロのためである。おまけにろくな食事を与えられていないせいで、きれいな金色の髪はパサつき、華奢な身体はますます痩せていったのだから。ただエメラルドのような緑色の瞳に長い睫毛、白い肌にピンクの頬と、ルディ自身の美しさになんら変わりはない。  それでも長年この屋敷に仕えているマリアにとっては、十分腹立たしいことなのだろう。 「いいんだよ、マリア。そのへんにしておこう? 僕はこの生活を不満には思っていないんだから。――ほら、早く洗濯物を取り込んでこないと、雨が降ってくるよ。僕も庭の後片づけをしてくるから」  ね、とマリアに笑いかけると、ようやくマリアは「はい」と返事をして洗濯物を取り込みに向かった。  マリアの背を見送りながら、ルディは苦く笑う。  彼女が憤慨するのも当たり前といえば当たり前だった。  ルディは本来であれば、このフラウミュラー家の当主なのだから。  男爵であったルディの父親は聡明で人柄も温和であり、領民からもとても親しまれている、ルディの一番尊敬する人でもあった。だが、その父を三年前にたちの悪い流行病で亡くしてしまった。ルディの母親も幼い頃に亡くなっており、ルディは父を亡くしたときに愛する家族をすべて失った。  ルディは当時十五歳で、その年であれば父の跡を継いで叙爵することができたはずなのだが、それは叶わなかった。 「……僕にギフトさえ授かっていたらな」  ルディはぽつりと小さくこぼす。  ギフトというのは、この世界においてほとんどの者に与えられる神から授けられるスキル(能力)である。このスキルは人により様々で、ピンキリなのだが、このギフトが与えられない者はいないと言われている。  また、ルディが住むこのエネリアという国では、ギフトによって、就く職も変わってくる。  例えばマリアはごく弱いものだが、水魔法が使える。水を操ることができるおかげで洗濯などの家事仕事に随分役に立っている。またそれに加えてヒールと言われる回復魔法を使うことができる。とはいえ、小さな傷を治すくらいの弱い魔法だが、ルディの幼い頃はマリアのこの魔法に随分と助けてもらった。  そのためマリアはこの屋敷でメイド長として存分にギフトを活用しているわけだ。  だが、そのギフトをルディは授かることができなかった。  ギフトが発現するのは概ね十五歳までと言われており、大人になってから発現するケースというのはまずないと言っていい。よって、ルディはそのごくごく稀なケースというわけだ。  それに加えて、ルディはオメガであった。  この世界には男性・女性という性とは別に、アルファ、ベータ、オメガという三つの個体種が存在している。  その中でもオメガというのは非常に特殊な種であった。  まずアルファというのは先天的にカリスマ性と優れた能力を持つことから、リーダー的な立場――例えば執政者や貴族の多くはアルファである。しかし、極端に数が少ない。  またベータはこの世界のほとんどを占める個体種であり、アルファほど突出した能力はないものの、優秀な者も一定数存在する。アルファを補佐する者も多いが、その逆ももちろんある。いずれにしてもごくごく一般的な能力を持つ種であるが、このベータという種が社会を構成していた。  そしてオメガは特徴もなにもかもが、アルファやベータいずれの種ともまるで異なり、さらに数も非常に少ない。アルファと同じくらいか、あるいはアルファに満たないくらいの数しか存在しない希少種である。  しかもその独特の特殊性によって、差別を受けることも多かった。  ひとつには、非常に美しい容姿を有していること。  そして一番の大きな特徴は、オメガは女性のみならず男性であっても妊娠できるということだ。月に数日~一週間程度発情期が存在して、主につがいを持たないアルファを強烈なフェロモンで引き寄せてしまうのだ。それだけでなく、ときにはベータですら不用意に惹きつけることもあるほど、実に魅惑的な存在である。  自身の見ための容姿の性別が男であれ女であれ、それに関係なく子が産めるという特徴を持つ彼らは、かつてはアルファの種の存続のために彼らに隷属していたという歴史があった。アルファ同士の婚姻では複数の子を持つことがほとんどない。そのため、跡継ぎ問題に影響が出ていた。

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